【-3-】
少女と呼ぶには、語弊があるかも知れない。同世代の女の子だったはずだ。かと言って、その風貌と車椅子の印象が強かったために、自信を持って同い年ぐらいという表現はできそうにない。なので、僕はその子を車椅子の少女と位置付けた。
「なっ……な、んでっ……すか?」
僕は恐らく、そういった感じの返事をしたと思う。しどろもどろで、滑舌が悪く、どこか吃音気味の返事だ。なにせ高校では無視というイジメに遭っていた。この車椅子の少女のように赤の他人に対して、物怖じせずに返事をするということはできなかった。
「ここって、何時まで開いていますか?」
図書館の閉館時間について、車椅子の少女は訊ねて来た。僕は幼い頃に作った図書館カードのことを思い出し、買い替えるたびに差し込んでいた財布から取り出し、閉館時間を確かめる。
夏休みではあるが、平日であったので、その日の閉館時間は午後八時と書かれていた。
「午後、八時、です……けど」
図書館カードを見せながら、答える。これも自信無さ気に、どもり気味であったと記憶している。
「午後八時ですか……ありがとうございます」
車椅子の少女は僕にお礼を言ったのち、本棚の方へと漕ぎ出す。が、一分も経たずに方向転換をして戻って来た。
「あの、このカードってどうやって作るんですか?」
「え……?」
「時間があったら、教えて欲しいんですけど」
なんで僕に?
まずその疑問が頭の中を泳ぎ回っていた。僕は友達だった奴や、親戚のおじさんたちに「親切そうな顔をしている」と言われていた。
なにを馬鹿なと思う。鏡を見れば分かる。ただの根暗な顔だ。それを友達だった奴や親戚のおじさんは、どうにか長所として表現したかっただけに違いない。
だから、僕以外にいかにも親切そうな人は幾らでも館内には居るだろう。そもそも、そんなことは受付で訊けば済むことだ。なのに、どうして僕なのか。それがサッパリ分からなかった。
「あっ……すみません、怪しい者じゃ、ありませんから」
どこか勘違いした発言に、更に僕は混乱した。話し掛けられてから視線は車椅子の少女に合わせては逸らし、合わせては逸らしを繰り返し、僕の方が明らかに怪しい者である。
そんな僕から車椅子の少女は全く視線を逸らさない。どうやら、もう逃げられないようだ。目力で相手に手伝って欲しいという思いの強さを主張するのだ。上目遣いではなく、顔を上げて、ジッとただ見つめる。
この視線には、経験がある。
妙な汗が噴き出して来ることを体感しつつ、僕は椅子から立ち上がり、そして車椅子の少女の前でしゃがみ、まず相手の座高との差を埋めた。問題は、これで顔をハッキリと見る形になってしまって、よけいに僕は視線を泳がせることとなってしまったというところだろうか。
「入り口近くに発行の申請書があって、その……それを書いて……あと、は、学生証とか、を受付で提示、すれば……作れます」
尻すぼみになる説明に対し、車椅子の少女は納得したように肯いていた。これには、ちょっとだけ驚いた。僕の声は恐らく、半分以上は届いていない。なのに、車椅子の少女はちっとも嫌な顔をせず、そして朗らかな笑顔を向けていたのだ。
「じゃ、そこまで案内してくれますか?」
「え……? あっ……は、い」
弱々しく肯き、僕は立ち上がって、車椅子のハンドルを持とうとする。
「あ、大丈夫ですよ」
そう答えて、車椅子の少女はハンドリムに力を込めて、受付の方へと漕ぎ出した。僕はその後ろを半ば仕方無く付いて行った。
「私を見て、変な顔をしませんでしたよね?」
「え?」
「みんな、嫌な顔や変な顔をするんです。面倒臭いのが来たなぁ、みたいな。話し掛けられたらどうしようとか、かわいそう、みたいな視線を向けるんです。でも、あなたは『すみません』と話し掛けた時に、知らない人に話し掛けられたことに驚きはしていましたけど、それ以外ではそういう顔をしなかったので。あと、慣れていらっしゃいますよね? 私みたいに車椅子に乗っていると、なんであっても見上げることが多くて、首が疲れてしまうんですが、あなたはそれを分かっていてわざわざ、しゃがんでくれましたし」
それは、拡大解釈というものだ。僕はそれほどの善人では無いし、浅い経験から学んだことを実行に移しただけなのだ。
「小学生の頃……に、車椅子の子が居て……」
「はい」
「僕、は一番背が低かったので、その子の世話というか、車椅子を押すのが僕の役割、だったというか……押し付けられた、というか。教室移動の時にも僕が……さすがに階段は先生の役目だったけど、その、朝の集会で校庭に行く時にも僕だった、んで。話し相手も、僕、がほとんどだったんで、ずっとこっちを見上げている子を、見ていると、疲れるだろうなと思って、しゃがんで話すようになった……だけ、で」
「それで、車椅子の人に慣れていると」
「慣れている、というか、変な視線? では、見ません。ただ、それほど良い人じゃ、無いですから。かわいそうとも思います、し、面倒臭いなぁとも思い、ます」
赤の他人に、ここまで話をするのも久し振りだったし、唐突な自分語りに車椅子の少女は呆れ返るだろうと思った。
「でも、話し掛けられることは嫌じゃない、と?」
「手助けが必要だったら、というか、頼まれたら、出来る範囲でなら、手伝うくらい、です」
これは小学生の頃の経験によって得られた僕の中にあるモラルである。介助が必要か否か、それは車椅子に乗っている人が一番よく知っている。そして、誰かになにかを頼むことを申し訳なく思うことだって、知っている。事実、僕が小学生の頃に会った車椅子の男の子はいつも僕に「ありがとう」と言い、「御免」と言っていた。けれど、一人で出来ることには決して、僕を呼ぶことは無かった。
だから僕は頼まれない限りは手伝わないと決めている。冷めた感覚だと罵られるかも知れない。信号が赤に変わりそうな時、介助が必要な人がまだ渡り切っていなかったらどうするんだ。そんな風に思われるかも知れない。けれど、僕はそういう状況であっても手伝わないだろう。だって、そもそも、そのような状況に陥ることが無いように介助が必要な人は常々に気を付けている。もしそのような状況に陥っても、誰かに声を掛けて、介助してもらうだろう。その時、声を掛けられたのがたまたま僕だったなら手伝う。僕じゃないなら手伝わない。たったそれだけのことだ。声を掛けられない限りは目を逸らして、素知らぬ顔をして立ち去る。
だから、こんなものは良き理解者でもなんでもない。自分が勝手に決めたルールである。
車椅子の少女が話し掛けて来た。だから僕の中にあるルールに従ったまでのことだ。
「人と話す、のは苦手、だから」
人見知りで気難しい性格ではあったけど、「人と話すのが苦手」と公言するようになったのは、この頃だと断言できる。元々あった暗い部分に、イジメでトドメを刺された。だから、人嫌いではないのに話せないという二律背反に苦しむようになった。
「あっ、だからさっきから声が上擦ったり、聴き取りにくかったりするんですね」
ありのままのことをありのまま言葉にされ、僕は一気に歩く速度を落とした。入り口はもう近くだ。このまま放っておいても、車椅子の少女は申請書を見つけ、自分で書くことができるだろう。だから、親切はここまでで良いのではないか。そんな風に見切りを付けようとしていた。
「素の自分を出してくれるのって、嫌じゃないですよ? 人に頼むことって多いんですけど、みんな敬語で、『手伝いましょうか?』って言って来る人が多いですから。頼まれない限り手伝わないって、割と私は気楽になります。私は毎日一生懸命ですし、あなたが一生懸命、声を出していることは伝わります。それを変だなんて思いません」
なんて都合の良い台詞だろう。ここまで来て、僕の中にあった見放そうという気持ちを折り曲げに来たのだ。
車椅子の少女は、世渡りが上手であった。だから、僕もまたその手管にハメられたのだろう。もう少しだ、という気持ちから僕はそのまま一緒に入り口前まで移動した。
申請書が置かれている台の前まで来て、僕は「じゃぁ」と言って、立ち去ろうとする。
「あの……届かないんで、手伝ってくれます?」
間髪入れずといった具合に、車椅子の少女は言った。
申請書の置かれている台は立ったまま書くことを前提にした高さであったため、車椅子の少女の手ではどうあっても届かない。
そして、また頼まれてしまった。
だから僕は、手伝うことにした。