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その日はうだるような、まさに夏の暑さを体現したような日だった――などという出だしで過去を語ることを僕は好まない。その時の暑さを、うだるようなという一言では到底、表現することはできないからだ。だからと言って、当時の気温を憶えているわけでもない。
だから、冷夏だろうが猛暑の続く夏だろうが、僕には関係無く、恐らく毎年のように「暑いなぁ」と口にする程度には太陽の照り付ける日だった。
その日、僕は家を出た。不登校であっても引きこもりでは無い。これもまた僕のクソみたいなプライドから来る言い訳だった。両親の話を聞きもせず、ただ部屋にずっと逃げ続けているようなことはしていないと、なんとなく自分自身に思わせることで心の再起を掛けていたのだろう。けれど、一緒に高校へと進学した友達全てを失った僕が夏休みに外出することと言えば、限られていたのだが、この日はそれらとは違った。
起床し、いつものように朝食を摂って部屋に戻ろうとしたところで、母親がポツリと僕の心に刺さるようなことを言った。だから部屋にも居辛く、なにより家にも居辛くなってしまったため、午前十一時頃にズボンのポケットに財布を突っ込んで、外出を決めたのだ。「お昼は?」と訊ねて来た母には「いらない」とぶっきらぼうに告げて、坂を下った先にある駅近くの図書館に赴いた。
特別そこに行きたいという理由なんてものは無かった。どこか静かで、時間を潰せる場所は無いだろうかと考えただけの外出だ。喫茶店のような小洒落た場所に疎い僕にとって、お金を支払う必要も無く、趣味の読書を堪能でき、且つ椅子に座っていられる図書館は絶好の場所だった。
夏休みは利用者も多いが、それでもガヤガヤという喧騒は無く、聴こえるのは貸し出し、返却のカウンター仕事の声、そして本棚を歩く際に響く靴音程度というのが非常に好ましかった。もっと広く言ってしまえば、様々な音はあったのだが、高校の休み時間や街中に比べれば圧倒的にマシだった。なにせ、視線に対して臆病になってしまった。いつも誰かに見張られているような錯覚に陥っていた。そのせいで、他人同士の会話であっても、耳に入れば妙に落ち着かなくなっていた僕にとって、静けさというのはなによりも大切な防壁であったのだ。
気に入った本を手に取り、片側三人の両面で六人が利用可能なテーブルの右端の椅子が運良く空いていたので、そこに腰掛けた。こういった時、大抵は真ん中の椅子だけが空いているということがあるものだ。そして、申し訳なく真ん中の椅子に腰掛けることがほとんどであった。片側に他人が座っていることには耐えられても、両方から他者の存在感を受け続けるのは耐えられないというのは、僕だけに限った話ではないはずだ。だから、端っこの椅子が空いていることは、運が良いと言えることなのだ。
本を開いて、文字を読む。文章とは簡潔であるものと、難しいものの二種類に分かれる。一回でスッと頭の中に入り込む物語は先の展望を期待させるし、噛み砕かなければ読破できない物語は一回、二回と何度でも読みたくなる。その時、僕が手にしていたのは後者であった。シリーズ物の推理小説の一冊であるのだが、読破してもう犯人も分かっている。
しかし、分かっているからこそ最初から読む。登場してからの犯人の一つ一つの言葉、行動、描写、そのどれにも無意味な物は無く、全てに意味があったのだと認識することができる。この感覚が、とても心地が良い。だから、図書館では、そのシリーズ物が、刊行されて寄贈されているところまでは全巻読破してやるつもりでいた。言い回しが難解であったりもしたが、自分の言葉に置き換えてしまえば、読み込める。そして、作者の作り出した世界に身を投じるには集中を必要とする。だからこそ、図書館はやはりうってつけだったのだ。
作者の世界に没頭しようと、冒頭から読み始めた直後だったと思う。その日だけは、いつもとは違った。
「すみません」
そう声を掛けられた。今でもその声音は憶えている。
赤の他人に話し掛けるにしては物怖じ強さを秘め、ハキハキとした声量。そして、誰にでも聞き取れる、優しく綺麗な声だった。
僕はその日、車椅子の少女と出会った。