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【-10-】

 今を語ろう。


「卒業してから全く顔を出して来なかったクセに、よくもまぁ顔を見せることができたな」

 そんな、変わり者の教授の言葉を軽く聞き流しながら僕は日が沈むのを心待ちにする。


 様々な決意をしてから更に数年後、僕はホタル部のOBとして、大学で開かれるホタルの鑑賞会へと自ら足を運んだ。五月下旬から六月の上旬に成虫のホタルは空を舞う。命の灯を爛々と輝かるその様に、在学中、そして現在に至るまで、僕は魅了され続けている。教授は「子孫を残すために光っているだけ」と野暮なことを言っていたが、それを忘れさせるほどに、ホタルの光は僕の心をくすぐってくれる。


「OBで来たなら手伝いくらいしろ。受付なら出来るだろ」

「それじゃホタルを見られないじゃないですか」

「ははーん、お布施も無しにホタルを見ようとはこれはこれは傲慢な」

「分かりましたよ」

 僕は透明な箱に十円玉を入れる。

「十円ぽっちか、なら見ることのできるホタルは一匹だな」

「相変わらず、お金にうるさいですね」

「はっ、世の中金が全てだ。あとは働き次第だな。ほら、さっさと手伝え」

「なんでOBが手伝わなきゃならないんですか」

「OBだからに決まっているじゃないか。ホタル部員は卒業後も部員名簿に幽霊部員として刻まれる。素晴らしいことだろう?」

「ただの水増しですよね、それ」

「そんなこと言っていると川に突き落とすぞ。受付を手伝え受付を。ホタル部員は根暗が多いんだ。人に愛想良く振り撒きに行け。そういうの得意だろ」

「元々は不得意だったんですが?」

「そんなもんは過去の話だ過去の。喋る暇があったら物腰柔らかく頭を下げる練習をしろ」

 無茶苦茶を言うものだが、やはり僕はこの教授のことを嫌いにはなれない。


 受付には在学中のホタル部員が居るので、OBが手伝うような余地は一切無いようにも見える。なので僕は受付の片隅で「こんばんはー」と挨拶をし、声を掛けられれば答えるだけにしておいた。


 日が沈み、辺りが暗くなって来る頃合いに、ホタルの飛び交う川に架けられた橋の方から子供たちの「見つけたー!」という声が上がった。少しだけ受付から離れ、橋から川を眺めると、確かに一つ、二つ、三つと点々とした淡い光が見えた。


「何時だ?」

「えっと……午後七時五十五分です」

「昨日より少し遅いな。数が不安だな」

 教授に時間を訊ねられたので携帯電話――機種変更をしてスマホになったそれで時間を確かめ、伝えた。

「最終的に何匹ぐらいになると思う?」

「……六十匹ぐらいじゃないですか?」


 人工飼育したホタルを放流しない限り、自然で育ったホタルがこの川で飛び交う量は、精々、それぐらいだ。けれど、五つ、六つほどの光が留まることなく空を舞う様は、乱舞とは決して言い難いが、風情があって良い。なにより、多くのホタルを見ることのできる場所はそれだけ人気のスポットであるから、人混みでホタルをジッと見ることさえままならない。それに比べて、数は少なくとも確実に見ることのできる大学構内でのホタル観賞会は、地域の人にしか知られていない絶好のスポットなのだ。


「受付に戻って良いぞ」

「分かりました」

 教授は川辺でデジタルカメラを取り出し、三脚に固定して、撮影の準備に入っていた。セルフタイマーで連続的にフラッシュを焚かずに撮影し、あとで纏めることでホタルの光が軌跡となった一枚の写真が出来上がる。他にも感度などと言った調整が必要らしいが、その辺りは人それぞれなので、今回も教授の決めた設定でホタルの写真は撮影されるのだろう。


 やや強くなった耳鳴りに辟易しつつも、時間が経てば家に居る時と変わらないくらいの大きさの耳鳴りまで治まることを知っているので、心を折ることなく、受付へと戻る。


 ふと校門の向こう側を見てみると、杖をついて歩いて来る若い女性を見つける。バス停は近くにあるが、この校門までは少し坂を登らなければならない。この大学も坂の上にある。足の不自由な人がここまで来るのは大変だっただろうにと思いつつ、受付近くの照明に女性が照らされた時、僕は目を見開いた。


 面影がある。


 またいつかどこかで出会うことがあったなら、大学入試の時のように声を掛けられなかったことを後悔しないように、勇気を振り絞って僕から声を掛けるのだと決めていた。そのいつかが訪れるかどうかは定かでは無かったが、それでもそう決めていた。

 なのに、僕の体は真逆の方へと歩き出し、川辺に降りて、ホタルを眺めていた。なんでこんなことをしているのか。こんな暇があったなら、声を掛けに行くべきだ。


 分かっているのに、僕はその行動に移ることが出来ないでいた。忘れられていたらどうするのか。赤の他人だったらどうするのか。そういう後ろ向きなことばかりが頭の中を満たす。


「なんだ、変な顔をしているな。また馬鹿をやったのか?」

 デジタルカメラのセッティングが終わったらしく、僕の顔を見て教授は訊ねて来た。

「あり得ないことが、起こりまして」

「また馬鹿なことを言い出したな。人生なんてあり得ないことばっかりが起こる。お前みたいな馬鹿がホタル部に入って、毎日毎日飽きもせずに研究室にやって来るような、そんなあり得ないことを経験した私が言うんだから間違いない」

 それでも僕はまだ、動けない。

「話したいのに話せないってこと、経験したことあります?」


「どこの入社一年目の新人みたいなことを言っているんだ、お前は。話したいなら話せ。話さなければなにも始まらない。言いたいことがあるのなら、やりたいことがあるのなら声にしろ。でなきゃ馬鹿の考えていることはまるで分からん。エスパーでもテレパシーでも無いんだ。文字でも良いが、言葉は声にするのが一番手っ取り早い。これは経験だがな、話したことを後悔するよりも、話さなかった後悔の方が、心残りになる」


 そこまで聞いて、ようやく僕は決意を固め、川辺から橋へと戻り、女性を探す。杖をついていたその人を見つけることは、そう難しいことじゃなかった。

「あの……」

 杖をついて歩いていた女性は僕の声を耳にして立ち止まり、振り返った。

「僕のこと、憶えていますか?」

 僕の顔をジッと眺め、続いて空いている左手で口元を覆い、驚く。


「え……嘘……だって、えっ……柳井、さん?」


 間違い無い。この声音は、記憶の中にあるそれとほとんど変わらない。そのことに僕は安堵し、そして、心の底から湧き上がって来る衝動を抑える。

「あの夏休みが無かったら、僕は多分、ここには居なかったと思います。でも、どうしてあのあと図書館に来なかったんですか?」

「行っていましたよ、冬休みに。だって高校がある間は、図書館に向かえるほど私には余裕がありませんでしたから。でも、柳井さんをお見掛けしなかったので……その、幽霊だったんじゃないかと思っていました」

 どうやら僕は夏休みに、杖をついている女性は冬休みに互いを探していたらしい。だから、あの夏休み以降、出会えなかった。とても単純な答えだった。


 僕は込み上げて来た感情を顔に出し、小さく笑う。


 夏休みに出会い続けたことは偶然で片付けた。大学入試で再会したあの日もまた偶然とした。

 そして、あの絵馬のことも気に掛かる。


 ならば、今日この日に再会したこれは、どうする? もう偶然では終わらせられない。ロマンを語るのは大嫌いだが、しかし、今回ばかりはそれに乗っかろう。


 話したいことは山ほどある。沢山あり過ぎて、どれから話せば良いのか分からないくらいだ。さぁまずなにから話してやろうかと思っているくらいだ。

 けれどまず訊かなければならないことがある。


「お名前を、教えて頂けませんか?」


 そして名前を知ったのち、僕は身の上を語るのだ。クソみたいなプライドなんて放棄して、ありのままを話すのだ。働いていないことも吐き出そう。

 あの大学に落ちて、この少々、偏差値に難のある大学に通うようになったことも。けれど、そこでのキャンパスライフは悪いものではなかったということも。

 就職活動の不安やストレスで、右耳の聴力が少しだけ悪くなってしまったことも。


 けれど、こうしてまだ図々しく生きていて、自分の人生は恵まれていると思えているよ、と。


 そして最後にこう結ぶのだ。


「付き合って下さい」と。


 この三日後、僕はスーパーのアルバイトを始めた。始めた理由なんて、至極簡単な話だ。


「バイトでもなんでも、とにかく仕事を見つけてくれたら、喜んで。人付き合いが苦手な柳井さんに、これが出来るとは思いませんけどね、なんて」


 好きな人に、そう言われてしまえば、無職はフリーターにくらい、簡単になれるのである。

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