第二章 01
まだ、夕闇は滲み始めてすらいない。
真夏の公園で、守島咲耶はだらしなく公衆電話に上体をもたせかけていた。木陰にあったそれは、ひんやりと心地いい。
「あ、龍野さん? ちょっとお願いしていいですか? 調べて欲しい人間がいるんです。杉野孝之。聖藍大学の教授をしているんですけど、俺じゃ誰も口を開いてくれなくて」
電話線の向こう側の人間に、苦笑しつつ告げる。
「ええ、はい、お願いします。……あ、あと」
僅かにためらって、しかし彼は口を開く。
「杉野の養子で、弥栄紫月、って奴のことも。すみません、頼みます」
受話器を置くと、間髪を容れずに電子音がカードを取れ、と急かしてくる。
だが、咲耶は、しばらくの間それを黙殺していた。
……弥栄紫月。
図書館の屋上から逃亡した二人は、五分程度の飛行の末に、この公園へと降り立った。
〈桂〉の飛行速度は、自動車の法定速度を軽く上回る。追っ手に、即座に二人を追跡するだけの体勢が取れていたとも思えず、行く先はまず掴まれていないだろう。
ゆっくりと、木立の間に白い鳥が着地する。木々の間に、翼を広げた〈桂〉が入る余裕はない。なのに、枝にぶつかったような衝撃は全くない。
これが、本物の鳥ではないからだ。
すぅ、と溶けるようにその姿が消えると、二人は自然に地面に立っていた。
まるで、今までのことが夢ででもあったかのように。
「……手を貸してくれたことには、感謝する。だけど、どうして君はこんなことに首を突っこんだんだ?」
警戒心を露わにして、紫月はそう問いかけた。
ひょい、と、咲耶は肩を竦める。
「あいつらの態度が気に入らなかったからさ。大の大人が何人もかかって、子供に命令するとか苛々するんだよ」
「子供扱いするな。君だって僕とあまり変わらないだろう」
更にむっとした顔で、そう返される。
「それに、あのままじゃあんたに落ち着いて話が聞けなかったしな」
宥めるつもりで続けた言葉に、しかし紫月は更に顔を強張らせた。
「……先刻も言ったが、杉野に関して、君に話すことはない」
「そんなに庇うとか、あんたよっぽどその親父さんが好きなのか?」
皮肉げに告げた言葉に、一瞬で少年の瞳に憎悪がよぎる。
この年代の少年は、大抵が反抗期だ。咲耶の揺さぶりは、効果があるかに見えた。
だが、驚異的な自制心で、紫月はそれを抑えこんだ。
「君に、そんなことを言われる筋合いはない」
一層冷たい声音で、そう言い放たれる。
「じゃあまあ、他のことを訊こうか。あんた、先刻、俺の式神に乗っても、顔色一つ変えなかったな。どんな神経をしているんだ?」
「それこそ、君に言われる筋合いはないよ」
感情を一切変えぬまま、そう言い放つと紫月は踵を返した。足早に歩き始める。
その後をのんびりとついていく咲耶は、もう少し危機感を持つべきだった。
ほんの数分歩いただけで、まばらに植えている木々の間に、彼の姿を見失ってしまったのだから。
どういうことだ。
眉を寄せ、咲耶は考えこむ。
図書館でも、紫月はあっさりと姿を消した。あり得ないほどの短時間で。
それは、単純に相手が素早かった、又は自分がうっかりしていた、などという理由ではない。それならば、ここまで思い悩みはしない。
咲耶の、自らに対する評価は、客観的に見ても妥当なものだ。彼を出し抜ける人間など、まずいないと言っていい。
ならば結論は簡単だ。弥栄紫月は術師である。しかも、咲耶に感知できない類の。
「これは、一歩近づいた、のか……?」
手がかりであることは確かだ。杉野、という男の姿が一向に掴めない状態であるなら、尚更。
だが、何かが釈然としない。
大きく息をつくと、一度頭を振った。
考えても仕方がないことを考えても、仕方がない。
強引に気持ちを切り替えて、手近な出口から公園を出た。周辺には住宅地が広がっている。
足を向けた先は、適当だ。どこかでタクシーでも見つけられればいい。
街路に殆ど人の姿はない。
夕方とはいえ、さほど遅い時間ではない。空は赤くもなっていないから、子供たちも帰ってくる前なのだろう。勤め人は、未だ帰宅の途についてはいない。
ある意味空白の時間帯だ。
のんびり歩いていた咲耶が、ふと足を止めた。
奇妙な気配がする。
ぐるり、と周囲を見回した。
妖ではない。その臭いはしない。
これは、敵意に似ている。凄まじいまでの緊張感と、集中力だ。
数秒間、迷う。彼の仕事には関係がないかもしれない。通常なら、無視していい状況だ。
だが、しばらく前に姿を消した少年は、さほど遠くへは行っていまい。
しかも、〈桂〉を降下させるのにいい場所がある、と言ってあの公園へと誘導したのは、彼だ。
小さく悪態をついて、咲耶は足を早めた。
気配は移動する。しかも、道なりに位置を掴める訳ではない。数度、袋小路へ入ってしまったりもしつつ、咲耶はようやくその発生源を突き止めた。
こじんまりとした、マンション。窓の配置からして、ワンルームだろう。
大学が近いからか、この辺りではよく目にしていたタイプだ。
オートロックが設置していないところも多い。入りこむのに、手間はかかるまい。
そう判断し、少年があっさりとエントランスに踏みこもうとしたところで。
がしゃん!
まるで、サッシを思い切り桟へ叩きつけたような音が、響いた。
反射的に見上げた先、三階の窓の一つが、開いている。
次の瞬間、全くためらいもなく、そこから人が飛び降りてきた。
驚愕する視線が、ぶつかりあう。
だん、と、見覚えのある人間が、アスファルトに蹲るように着地した。よろけた身体を、掌をついて支えている。
「おい、大丈夫か、弥栄」
声をかけると、苛立たしげな目が見上げてきた。今まで、彼から好意的な態度を向けられたことはないとはいえ、流石に怯む。
だが、次いで発せられたのは、意外な言葉だった。
「逃げろ!」
「……は?」
きょとん、と返した咲耶に、眉を寄せる。
「いいから、早く……!」
言葉に被るように、あの『敵意』が膨れ上がる。
そして、つい数秒前に紫月が飛び降りてきたその部屋から、轟音が響いた。
窓ガラスの破片がばらばらと降り注いで、二人が思わず腕で頭を庇う。
眇めた目には、崩壊した窓から、薄く煙が立ち上っているのが見える。
行動に惑ったのは、そこまでだった。
「立てるか?」
片手を差し出した少年に、紫月は僅かに驚いた視線を向ける。が、頷いて、その手を取った。
身体を引き起こした時、相手は小さく息を飲んだ。
「どこか痛むのか?」
「足首が。ちょっと捻っただけだ」
周囲から、ざわざわとした気配が近づいてくる。
二人は何も言わず、一目散にその場を離れた。
そのまま十数分走り通し、少年たちはようやく足を止めた。
紫月の足を考えて、さほどの速度は出していないが、それでも未だ空気に熱が籠もるこの時間帯では、身体は既に汗だくだ。
歩道のガードレールにもたれ、咲耶は上着を脱いだ。ばさばさと振って、残っていたガラスの粉を払い落とす。
「あんたは? 怪我してないか?」
「大丈夫みたいだ」
慎重に、肩の上を点検する。紫月は、まだ制服姿だ。公道でシャツを脱ぎ捨てる訳にもいかない。
続いて咲耶は結っていた髪も解いた。熱気を逃がすように、ぶるぶると頭を振る。
「全く、君は、本当に厄介ごとに巻きこまれる人間だな」
その姿に小さく笑んで、紫月は呟いた。
「あのな。言わせて貰えば、あんたこそよく厄介ごとを引き起こす奴だぜ?」
揶揄するような言葉に、顔を見合わせて笑う。
二人の間には、初めて会った頃の警戒感が薄れていた。
「一体何があったんだ?」
だから、咲耶がそう尋ねたのは、本当にうっかりと、であった。流石に判断力を鈍らせていたことにはすぐに気づいたが、一旦出てしまった言葉は取り消せない。
しかし紫月は、ひょいと肩を竦めた。
「家出したのさ」
彼も、どうやらかなり判断力が鈍っている。
「は?」
あっさりと返ってきた返答と、その内容に、小さく声を漏らす。
「家出したんだ。彼らは僕を連れ戻そうとして図書館に押しかけたんだけど、君のおかげで逃げ出せたから、今度は部屋まで来たんだろうな。どうやって突き止めたんだか。やっと借りられた部屋だったんだが」
残念そうに、呟く。
がくり、と、咲耶は肩を落とした。
「どうかしたのか?」
「あのなぁ……。お前の通ってる学校って、あの大学の近くにあるんだろう?」
「近くというか、敷地内だけど。それがどうかしたのか?」
「どうかも何も! 家出するのに、こんな行動範囲内のど真ん中に部屋借りる奴がいるかよ!」
〈桂〉に乗ってかなり離れたとはいえ、充分徒歩で移動できる距離である。
怒っている風ではないものの、苛立たしげな咲耶の言葉に、知らず、紫月はやや怯んだ。
「いや、でも、九月からは二学期も始まるし」
まじまじと、目前の男子高校生の顔を見つめていた咲耶は、力なくその場にしゃがみこんだ。
「おい? えー……と」
戸惑ったように、しかし気遣う声をかけてくる相手に、ぱたぱたと片手を振る。何とか苦笑を作って、顔を上げた。
「全く……。お前、本当に幸せに育ってんだなぁ」
だが、その言葉に紫月の表情は凍りついた。
「そんなことは、ない」
目線の近く、強く握りこまれた拳の関節が、白い。
ふい、と視線を逸らせて、咲耶は滑らかに立ち上がった。
「さて、と。じゃあ、お前、もう行くところがなくなっちまったんだよな」
「ああ。そうなるな」
「じゃあ、とりあえず俺んちに来るか?」
突然差し出された、何度目かの救けの手に、しかし紫月は眉を寄せた。
「何故だ? 図書館でも、先刻も、だ。何だって、君は、僕を手助けしようとするんだ?」
「公園でも言ったつもりだったんだけどな。下心だよ。シタゴコロ。他人がやたらと親切にしてきたら、何か魂胆があると思った方がいいぜ?」
不敵に笑んで告げる同年代の少年に、紫月の顔は見るからに強張った。それを見返して、更に続ける。
「それでな、弥栄。今、お前に頼みたいのは、道案内だ。元々この辺はよく知らないし、闇雲に走ってきて方向も見失った。お前、ここから駅まで行けるか?」
その言葉に呆気に取られていた紫月は、やがて気恥ずかしげな笑みを浮かべ、頷いた。