第一章 06
「はあ。こないだお買い上げされた壷なぁ」
「実は、俺がうっかり割ってしまったんです」
困った顔で、咲耶は続ける。
「あー、そりゃ、えらいことしてもぅたなぁ」
「それで、せめて代わりのものを手に入れてお返ししたいと思って、こちらに案内して貰ったんですけど」
店に入る前に、話は自分が持っていくから、と言われて、竹田は最初に挨拶をしただけである。
先ほどまでと違い、言葉遣いさえ少々たどたどしい。悪気なく、しかしとんでもないことをしてしまったということは理解している風に見せている。
少年のこの演技力に、思わず自分の子供を重ね合わせ、少々薄ら寒い気持ちになった。
「あれは結構なお値段したよってな。坊ンには、ちょっと手が出ぇへんかもしれんよ」
関西弁で答える店主が、気遣うように、言葉を選びながら告げる。
「そうですか……。あの壷を前に持っていた人って、どんな人ですか? 似たようなものがあるかも」
せやなぁ、と、店主は戸棚の中を探る。台帳を取り出し、ぺらぺらと捲った。
「ああ、杉野先生やな」
「杉野先生?」
「大学の先生や。ほれT市の、なんたら言うキリスト教の」
「キリスト教……」
竹田が小さく呟いた。
件の教団は、キリスト教系だ、と聞いていた。
「隣の市ですね。遠いのに、どうしてここに?」
「さあなぁ。たまたま寄ったんとちゃうか」
何故、それを入手した後に、那賀谷へ掘り出し物だ、と連絡したのかも問うてみたが、なんとなく思いついたのだとしか答えは返ってこなかった。
杉野という男の住所も、教えては貰えない。
個人情報が無闇に高い価値を獲得した世の中だ、と咲耶は八つ当たり気味に思う。
「勤務先は判ったんですから、まだ手がかりはありますよ」
だが、とりあえず竹田を安心させようと、そう告げる。
ハンドルを握ったまま、竹田は頷いた。
「T市、と言えば、教団のあるところです」
やや硬い表情で、返してきた。
「そのようですね」
そして、当然だが不動産会社もその近くだ。
「時間があるようなら、大学にも寄ってみましょうか」
「お願いします」
もう、午後をかなり回っている。だが、約束を取りつけている相手を後回しにはできない。
やや焦りを感じて、竹田は少しだけアクセルを深く踏んだ。
不動産会社では、咲耶は殊更演技をしなかった。探りを入れるよりも、はっきり問いただすべきところだったからだ。
「教主の有馬さんがこちらにお住まいになられたのは、二十六年前。その頃は、あの土地には大正時代に建てられた木造の一軒家しかなくて、和室を開け放ってはミサをしてらしたんです。日曜学校や、町内会の活動にも熱心で、十年も経った頃には、周辺からの苦情は殆どなくなっていましたよ」
実はうちの息子もお世話になっていたことがあって、と、照れたように担当者は続けた。
ここは、地域に根ざした商売をしているようだ。規模はさほど大きくなく、それだけに、情報にはよく通じている。
「それまでは苦情も出ていたのですか?」
大人びた口調で尋ねる咲耶に、少しばかり不審な視線を向けるものの、竹田が共にいることが大きいのか、担当は滞りなく答えてくれる。
「一番大きなところだと……。縁もゆかりもない人間を、連れこむことが多いんです。職もなく、行くところも、食べるものもないような。有馬さんはそういう人を放っておけないんですな。近所の人と小さな揉め事を起こしたり、不安がったりする人もいましたが、そのうち、それも少なくなりました。教団には、今は宿泊施設もあって、そこに住んで職に就いた人もいたようですよ」
教団の、教主の評判は、悪くない。
翻って、地主について尋ねてみると、相手はやや顔を曇らせた。
「先代は、気っ風のいい旦那だったんですがねぇ。息子さんは、ただでさえ、よその土地で就職して結婚して、こちらには戻ってきそうにないんです。いや、それは勿論息子さんの自由ですけど、遠くから一方的に、店子を追い出して売り払うか貸すかしろ、というのは何とも」
やりづらいんですよ、と、ぼやく。
「地主さんから、最近連絡はありましたか? 何か、おかしなことがあったとかお聞きになっていませんか?」
「三日前、ナガタニさんと一緒の話し合いの後に電話しましたが、特には」
「では、こちらの会社の方には?」
「別に何も……?」
ますます不思議そうに視線を向けてくるのに、そうですか、と、咲耶は小さく呟いた。
「不動産屋にも、地主にも、あんな妖が現れた様子はない、と」
「まだ、姿を現していないだけ、ということは」
竹田の言葉に、しかし咲耶は首を振る。
「地主の住んでいる場所は流石に遠すぎて判りませんが、不動産屋の近辺に、今、不審な臭いはしませんでした。何も送りこまれてはいませんよ。まだ」
少しばかり不穏な雰囲気を残し、そう告げる。
「ならば、やはりこの件は教団とは無関係なことだったのでしょうか」
竹田は複雑な表情だ。早く解決して欲しい、というのは確かな欲求だろう。
だが。
「そうとも限りません。不動産屋も、少なくとも先代の地主も、教団とは友好な関係にあったようです。呪うことを躊躇った、若しくは考えなかったとしても、不思議はない」
「じゃあ、我々だけが、あんな目に……!」
腹の底が熱くなるのを、自覚する。
理不尽だ、と考えてしまうことを、止められない。
「まあ、そもそもが全く教団と無関係な方向からだ、ということを否定もできません。もっと確かなところを掴まなくては」
古物商で聞いた、杉野とやらが勤めているという聖藍大学は、さほど距離はない。十数分も走ったところで、カーナビが目的地が近づいてきたことを告げてくる。
「竹田さん。今日は、ここまでで結構ですよ。もういい時間ですし、会社に戻られたら夕方でしょう」
確かに、時刻はそろそろ午後四時に近い。
「ですが、守島さん」
「駅までタクシーでも拾えば帰れます。大学に、貴方の伝手があると言うなら甘えますが、そうではないのでしょう?」
それは確かにそうだ。しかし、未だ納得していない風の男に、辛抱強く咲耶は続けた。
「これは、俺の仕事ですよ。お任せください」
大学に通じる道路で、車を降りる。
少年は窓越しに軽く頭を下げ、車が走り出し、角を曲がるまでその場で見送った。
「……ぅあー。肩凝った……」
そして気の抜けた声を上げ、大きく伸びをする。
「企業相手の仕事ってのは、どうしてこう無駄な気を張らないといけねぇのかな」
ぼやきながら、若き拝み屋は、その軽い足取りを正門へと向けた。
大学の事務局は、閉まる直前だった。
その、僅かな時間しか使えなかったせいだという訳でもないが、咲耶ははかばかしい成果を得られていない。
個人情報保護法とは、と、ぶつぶつ呟きながら、少年は学内の食堂で涼を取っていた。
周囲には、夏休みということを考えれば数多い学生がいた。食堂の席は、半分ほど埋まっている。
咲耶の姿は、この場に馴染んでいた。少なくとも、杉野とやらが高校の教師でなくてよかった、と皮肉げに考えるほどには。
すぐ横のテーブルで騒ぐ、一団の学生たちをぼんやりと見やる。
父母に見守られ、友人たちに囲まれて、学生時代を謳歌する道が、咲耶に一切合切すっぱりさっぱりきっぱりずっぱりなかったわけでは、ない。
まあ、自分で選んだ道なのだし、後悔など全くしていない。
けれど。
ふいに、喧噪のなかに、杉野、という名前を聞いた気がして、咲耶は腰を上げた。
「ちょっとごめん。杉野先生、知ってるのか?」
横からいきなり声をかけられて、学生たちはきょとんとした視線を向けてくる。
「誰だ?」
「いや、捜しているんだけど、見つからなくて」
苦笑しつつ告げると、中の一人が得心したように口を開く。
「ああ、レポートの件か? 俺、終わったからノートでよけりゃ貸してやるよ」
中身は自分で書け、と笑いながら言ってくる。
ノートを受け取り、表紙の文字を見て取る。
『異端派の弾圧と変遷 木-3 杉野孝之』
ぱらぱらと捲ってみると、意外に綺麗な文字でまとめてあった。
「杉野先生って、今日、学校に来てるのか?」
ノートを返しがてら尋ねると、学生たちは互いに顔を見合わせた。
「夏休みだしなぁ。ゼミは?」
「二週間ぐらい前に、しばらく休むって連絡来てたぜ」
二週間、と呟いて、眉を寄せる。
「あいつは? ほら、杉野先生の養子。俺、先刻、図書館で会ったぜ」
一人が軽く告げた。
「図書館?」
繰り返すと、一人の学生が立ち上がった。ノートを渡してくれた青年だ。
「あいつのことだから、閉館時間まで粘るつもりだろう。案内してやるよ」
「悪いな」
「単位、貰えりゃいいな。杉野先生は厳しいから」
ノートを借りなかったことで、他の理由だと察したらしい。屈託なく笑う相手に、僅かに胸が痛んだ。