第一章 04
内開きの扉は、ゆっくりと、薄暗い室内を視界に晒していく。
見渡したところ、一方の壁が窓になってはいるが、一面薄手のカーテンらしきものに覆われ、陽光はぼんやりとしか内部を照らしていない。方角としても南西側で、直接陽が照らしてくるのはあと数時間後からだろう。
「電気は点けるかね?」
「お願いします」
暗い中で仕事をしては、那賀谷が納得しないかもしれない。咲耶の言葉に、男は手を延ばし、照明のスイッチを入れた。
光がちかちかと瞬いて、部屋の隅々までが明るく照らされる。
咲耶が、一歩、中へ足を踏み入れた。
柔らかな絨毯が、ぐちゅり、と音を立てる。
水を含んでいるのとは違う、ぬめったような、やや抵抗感のある感触に、少年は眉を寄せた。
竹田は粘りのある液体、と言っていた。
やや生臭い空気が、ゆらりと身を包む。
空調が利いていて、よかった。この夏の暑さが加われば、一層酷い臭いとなったに違いない。
が、躊躇いなど微塵も見せず、咲耶はずんずんと中へ入っていく。
那賀谷はゆっくりと、ぎこちなくその後に続いた。怪我に加え、足元が頼りなくてそういった動きになるのだろう。
背後で、静かに扉が閉まる。
一度振り返って、那賀谷と目を合わせると、咲耶は方向を変え、壁際に置かれたチェストへと歩み寄った。それすらも、粘液に覆われて不吉な光沢を放っている。
「守島くん?」
不審げに、那賀谷は声をかけた。
「これは高価なものですか、那賀谷さん?」
咲耶は、無造作に、チェストの上に置かれた青磁の壷を指して、尋ねる。
「あ、ああ。そこそこな。気をつけてくれ」
その近辺から、数日前、化物が現れたのだ。
だが、その情報については、男は口を噤んだ。この若い拝み屋が、どこまで使えるものなのか。ここにいるのは、それを試すためでもあったからだ。
「なるほど。ところで、数万から数百万の資産と、貴方と社員の生命、加えて社運とを天秤にかけて、どちらを選ぶおつもりですか?」
するりと問いかけられて、むっとする。彼はワンマンではあるが、決して悪徳を積んでいる訳ではない。
「訳の判らないことを訊く。金銭が人の生命に代えられるものか」
「そうですか。貴方が、常識的な方で助かりました。では、始めましょう」
一つ頷くと、咲耶はその壷を手に取った。止める間もなく、膨らんだ胴をチェストの角に叩きつける。
甲高い破壊音が、部屋に響いた。
「何を……!」
一瞬で激昂しかけた那賀谷は、しかし、同時に耳を劈いたわめき声に、怯む。
恐怖と共に耳にこびりついた、それは。
ばちゃ、と、天井から拳ほどの大きさの水の塊が落ちてきた。
恐る恐る見上げた先、那賀谷から二メートル程度前方の天井から、見覚えのある化物が上半身を乗り出していた。
ぐりゅがぁあああぐぉぁあああああ!
再度吠えると、化物は跳ねるような仕草で、那賀谷めがけて飛びかかった。
「う、ああああああ!」
瞬時に蘇った恐怖に突き動かされ、無我夢中で、那賀谷は身を翻す。ずるり、と足が滑り、ばちゃ、と音を立ててその場に倒れこんだ。
次の瞬間、すぐ傍で一際大きな水音が上がった。
頬に、不快な臭いのする液体が付着する。
視界の隅に、床に這い蹲るような格好の化物がいた。
ほんの、一メートルほど離れただけの場所に。
「……!」
声にならない悲鳴をあげ、男は必死で距離を取った。
のんびりと、咲耶はそれに近づく。
「も、もり、守島くん!」
「大丈夫ですよ。奴の動きは止めています。それより那賀谷さん、これを」
すぐ傍にしゃがみこむと、少年は手にした青磁の破片を差し出した。
まるで上から何かに押さえつけられているかのように、化物はぴくりとも動かない。だが、ぎらぎらと光る目が、獲物を諦めていないことをはっきりと告げてくる。
そちらを気にしつつも、那賀谷は視線を壊れた青磁へと向けた。
ちょうど、壷の底の部分だ。円形の平らな面に、黒々と何かが描かれている。
幾つもの同心円と、対照に配置された直線、それを繋ぐような記号。
壷は、首が細く長い形をしていた。焼き上げられた後で、手を差し入れてこの図を描くことは不可能だ。
そう。常識的な手段では。
「何だね、これは……」
「呪術の一種です。これに封じられて、あいつはここへ持ちこまれた。いつ、どこで購入されたか、覚えておられますか?」
「確か……、馴染みの古物商から連絡が入ったのだ。そう、二週間ほど前に」
そこで、ぴたりと那賀谷は口を閉じた。
特にそれを気にした風でもなく、軽く咲耶は立ち上がった。
「さて。では、契約に則って、これを滅してしまいましょうか。……ご気分はいかがですか? 貴方に危険は及びませんが、嫌な気持ちになられるかもしれません。外に出られますか?」
「……いや。それが退治されるというなら、この目で見ておかねばならないだろう」
彼は先ほど動きを止めた、と言った。確かに、化物はぴくりとも動いてはいない。
だが、この若い拝み屋が一体何をやったのか、那賀谷には全く判らなかった。
あの時に、彼の声さえも、聞こえてはこなかったのだ。
「では、そのように」
ひょい、と肩を竦め、咲耶は化物へと向き直る。一瞬、嫌悪の目で足元を見て、それでも彼は小さく口を開いた。
竹田は、社長室に続く通路にじっと立っていた。
脚が疲れてくるので、時折重心を移動させる。
社長に、ここで待て、とは言われなかった。席に戻って座っていても、お叱りは受けまい。
しかし、背後の秘書課で、部下たちがこちらを伺っている気配がはっきり判る。向こうへ行ったが最後、質問責めに遭うのは確実だ。
この件について、軽々しく他言はできない。流石に、彼らもここまで来て問い質すことはないだろう。
辛抱強く、竹田はそこへ立ち続けた。
静寂の中に、十数分が過ぎる。
やがて、社長室の扉が静かに開く。
その隙間から姿を見せたのが、噂に聞く化物ではないと判るまで、彼は生きた心地がしなかった。
全身がぬるりとした液体にまみれた那賀谷が、疲れた顔で歩み出てくる。
「社長!」
小走りに走り寄る。男の背後から少年が現れた。彼は、一見したところ、長靴しか汚れてはいない。
「どうなりましたか」
気が急くままに問いかけるが、社長は何か話そうとして、そのまま長く溜息をついた。
視線を咲耶に向ける。手にした、薄青い何かを見つめていた少年は、それに気づいて小さく笑んだ。
「ああ、あの妖でしたら、もう心配要りませんよ」
「本当ですか!」
知らず、声が浮き立つ。
「ええ。でも、あの粘液にはちょっと手間取るかもしれませんね。掃除は業者に頼んだ方がいいかもしれない」
咲耶は周囲を見回し、通路の端に寄せてあった自分のスニーカーを見つけると、さっさと履き替え始めた。
「それについては、手配を頼む。少々かかってもいいから、口の堅いところを選んでくれ」
疲れた顔で、那賀谷が補足する。
「はい」
「私はちょっと着替えてこよう。守島くん、先ほどの部屋で待っていてくれるかな」
「勿論ですよ」
にこやかに笑う少年を見つめ、那賀谷は軽く首を振った。
正午を回った頃だった。
男が二人、ティーテーブルを挟んで座っている。
高めの天井には、シーリングファンが静かに回っていた。勿論、この陽気の中、空調がそれだけである訳がない。心地よい冷気が、彼らを包んでいる。
「次はどういう行動に出てこられるものか……」
頭が痛い、と呟いたのは、五十を超えたぐらいの、壮年の男だ。白いものが混じり始めた髪を後ろに撫でつけ、露になった額に深い皺を刻みつけている。服は、清潔かつ簡素な白のワイシャツに黒いスラックス。ネクタイはしていない。ボタンを一つ空けた首元に、細い銀色の鎖が見えた。
「教主様。そろそろ、手をこまねいている状況ではなくなってきていませんか」
そう告げたのは、向かい側に座っている男だ。やや、歳若い。三十から四十といったところか。薄い青のワイシャツと、黒に近い紺色のスーツ。似たような色合いの細いネクタイには、小さな銀色のドットが散っている。控えめなネクタイピンには、小さい、不透明な青い石が嵌っていた。薄い銀縁の眼鏡が、彼の神経質そうな印象を後押ししている。
「しかし、できる限り穏便に済ませたいのですよ。ご近所の方々にご迷惑をおかけしては、どちらにせよ我々が出て行かねばならなくなってしまう」
やや悲しげに、教主と呼ばれた男は返した。
「ある程度の騒ぎは致し方ありません。企業が金にものを言わせ、社会的弱者を押し退ける、ということは、ある種の人間にとっては充分反感を呼べる状況です」
冷静に続ける男に、教主は困ったような視線を向ける。
「先生。それは最も避けたい事態です。面白半分に騒ぎが広まっては、私たちはやっていけなくなる。ここを去ることは、貴方にも嬉しくないことだと、私はうぬぼれかもしれませんが思っていますよ」
「それは……、勿論です。行くあてのなかった私を、拾ってくださったのは教主様だ。アパートの床が抜ける前に出て行け、とは、全く心の狭い大家だった」
皮肉っぽく、眼鏡をかけた男が揶揄する。
「あれだけの本を収める書庫に加え、私と息子の居住まで許して頂き、教主様には感謝の言葉もないほどです。確かに、あれを抱えての引越しも遠慮したい。ですから」
「先生」
やんわりと、教主はその言葉を止めた。
「先生には、私たちもお世話になっています。お互い様でしょう。過大な恩義など、必要ありませんよ」
だから余計な真似はしないで欲しい。
言外のその要請に、男は苛立たしげに小さく眉を寄せた。
二人の言葉が途切れてしまった時に。
ばちん。
小さな破裂音とともに、先生、と呼ばれた男のネクタイピンについていた石が、弾けた。
ぱらぱらと、膝の上に破片が落ちる。
「これは……、お怪我はありませんか?」
僅かに腰を浮かせて、教主が尋ねた。
「あ、ええ。安物を買うと、これだからいけませんね」
顔をやや引き攣らせ、男は丁寧に破片を掌に乗せた。
「そろそろ、皆の昼食も終わった頃でしょう。先に行っていてください、教主様。これを部屋にしまってきます。後で、販売店に苦情を入れなくては」
滑らかに立ち上がり、男は軽く会釈すると、その部屋を辞した。
自室のある棟へ足を踏み入れる。階段を降りきった男は、苛立たしげに大股で廊下を歩いていた。コンクリート剥き出しの床は、教主の住居に比べて足への衝撃が酷く強い。
「……教授!」
部屋の前でうろうろしていた少年が、ぱっと顔を明るくする。
「どうした、織原」
ほんの数分前とは打って変わって、男はぞんざいに声をかける。
「あ、あの、紫月様のお部屋なのですが。先ほど、掃除をしようとして入ったのですが、その、空っぽで」
「何の話だ?」
不機嫌な目で睨みつけられて、織原は首を竦めた。
「紫月様の、お部屋です。その、机もベッドも本も服も何にもないのです」
鋭く舌打ちをする。
「関係があるのか……? まさか」
一瞬だけ、考えこむように目を細めたが、すぐに男は思考を切り替えた。
「紫月を呼んで来い」
「それが、一時間ほど前にお出かけになられました」
「何故行かせた!」
そろそろ苛立ちが自制心より勝って、怒声を上げる。小さく悲鳴を上げる織原を苦々しく見つめた。
「怠け者どもに探させろ。伝言ぐらいは、まともにできるのだろうな?」
「は、はい!」
ばたばたと廊下を走っていく少年を見送ることもなく、男は自室へと姿を消した。