第三章 02
ぼんやりと、瞼を開ける。
薄汚れた天井が見えた。空気は、やや煙草くさい。
低く呻きながら、寝返りをうつ。
「……トゥキ。何時だ?」
「午後三時四十二分でございます」
即座に恭しい声が返る。六時間ほどは眠れたか。
紫月が落ち着いたのは、駅前からやや離れたビジネスホテルだった。何軒か尋ねてみて、ようやくチェックインできたところだ。すぐに決まらなかったのは、時間も時間だが、紫月の年齢が若いだけに、家出を疑われかけたせいでもある。
欠伸をして、上体を起こした。少し空腹を覚えている。
「痣はどうなった?」
しかし、仕事を忘れてはいない。ややしっかりした声で問いかけた。
「午前十一時三十分ほどから薄れ始め、午後零時に消滅致しました」
「零時か……」
また微妙に、関係がありそうな時間だ。
顔を洗いがてら、洗面所で首をチェックする。確かに、もう、鬱血の痕跡も見当たらなかった。
眠っていて、昼に食事を摂っていない。だが、外出は最低限にした方がいいだろう。もう少し待って、夕食と兼ねよう、と決めて、紫月はまたベッドに腰掛けた。
「トゥキ。夏木さんの別荘の図面、ここに出せるか?」
サイドテーブルの上にふいに出現した小さな人影は、その細い腕をゆっくりと上げた。
次の瞬間、ベッドの足元半分が淡く光り、そして数枚の大版の紙が出現する。
「……凄いな。はっきり見える」
驚いて、小さく呟く。太一郎から渡された図面は、経年劣化で随分と見づらいものだった。だが、今現れたものは、青焼きですらなく、今書かれたばかり、というほどに鮮やかなインクの発色を見せている。
「容易いことでございます。我が主」
少々誇らしげな響きを帯びて、六十年以上もの時間を回復させたトゥキ・ウルは答えた。
一晩、屋敷から離れることになったが、仕事に関われない訳ではない。少しでも何か判らないか、と、そう思って紫月は図面を出させたのであるが。
視界に思わぬものが入り、少年は眉を寄せた。
夏木邸から数ブロック離れた路地で、咲耶は苛々と立っていた。
近くまで来ている、との連絡は受けているが、そろそろ夕暮れも近い。
やがて、小走りに近づく人影を確認する。
相手が眉を寄せて待っている姿は、半ば予想していたのだろう。
「咲耶! 呼び出して、済まない」
「そこじゃねぇよ。何があった」
だが、ちょっとずれた謝罪に、苛立った口調で返した。
「ああ。まず、朝の痣だけど、完全に消えたのは午後零時だってことだ」
零時、と、繰り返す。
「それだけを知らせるために帰ってきた訳じゃないだろう。とりあえず明日の朝までは戻るな、って言っておいた筈だ」
「判ってるよ。理由は他にある。トゥキ、あれを」
二人の、胸の高さに、広げられた図面が出現する。その一辺ずつを手に取ると、少年たちは視線を落とした。
「見やすいな」
驚嘆の声に、僅かに紫月が得意げな顔になる。
「ここだ。夏木さんから貰ったものだと、殆ど掠れて見えていなかった」
建物の北側を示す。
今、実際に庭に作られている遊歩道は、東側を南から北へ向かい、そして建物の北側で西へと折れている。
だが、図面にある遊歩道は、そこよりもずっと北まで進み、東西に横切るもう一本の遊歩道と交差していた。
「塀の向こう側だな」
距離を目視して、呟く。
「これは道で、きっちりと建物で区切られた訳じゃないから、ちょっと違うかもしれないけど。西洋魔術では、四つ角は、不穏なものが集まったり、呼び出されたりする場所だってことになってる」
小声で、紫月は告げた。
「……奇遇だな。こっちもだ」
四辻という場所には、あまりいい概念はないらしい。
「あと、ここだ」
交差した場所から、更に指を滑らせる。
そこには、小さな長方形が描かれていた。広さとしては、別荘の食事室を少し広げたぐらいのものだ。
手書きの文字で、『将来増築予定』と書かれている。
「離れか何かか?」
「それは判らないけど。でも、先刻の四つ角と、この建物。方角的には、別荘のほぼ北東側にあるよね?」
ぐるりと、白い指がその辺りで円を描く。
咲耶は、ますます眉を寄せた。
門を開き、中へ入る。
咲耶が先ほど外へ出たので、一度開閉するぐらいなら不審には思われまい。見咎められることなく、二人は庭を直進した。
北側の板塀まで辿りついて、足を止める。
「……この塀は、簓子張り、って作りなんだけどな。板が横に貼ってあって、縦の押縁が手前側にあるだろう」
咲耶が口を開く。
「この、押縁がある側が、表側なんだ。この塀が別荘のためのものなら、内側が裏側になるのがまあ妥当だな」
しかし、内側が表なのだとすると。
「この塀の向こう側は、身内のもので、かつこちら側よりも重要視されていないってことになる」
簡単な説明を終えて、改めて高さを測る。
「乗り越えるには、ちょっと強度が心許ないな……」
板も押縁も薄い。体重をかけて、倒れるまではいかなくても、どこかが割れるぐらいはありえそうだ。
「桂」
小声で名前を呼ぶ。
ばさり、と羽音を立てて、純白の鳥の姿をした式神が出現した。
そのサイズは、鷺程度か。色と、すらりとした肢体が、よりその印象を強める。
「……大きくないんだ」
「目立つからな」
少し残念そうな紫月に苦笑すると、肩に乗った式神の背に触れた。ふわりと舞い上がり、目の前に浮遊する鳥の両足を掴む。
「もう一度寄越すから。お前も同じようにして来い」
唖然として見つめる紫月の視線の先で、〈桂〉はやすやすと咲耶の身体ごと塀を飛び越えた。
塀を飛び越えた先の庭は、雑草が茂っていた。明らかに、数年手入れをされていない。
塀の内外を貫く遊歩道を見つける。敷かれたテラコッタは割れ、合間から細い草が生えていたりした。
そのまま十メートルほど進んだ先に、四辻を見つける。
彼らはすぐにはそこへ踏みこまず、やや離れて眺めていた。
「……あれ」
不審な声を上げたのは、紫月だ。
「どうした?」
「真ん中辺りのタイル。周りのコンクリートがやたらと綺麗じゃないか?」
周辺はひび割れ、欠けているのに、そこはまるで補修でもしたかのように、ぴったりと目地は埋められている。遊歩道に蔦状の植物も這っているが、剥がされたようにそれもない。
「掘ってみるか」
慎重に、咲耶は四辻に足を踏み入れた。膝をつき、両手を不審なテラコッタの対角に置く。
ぱきぱきという小さな音が、すぐに響き始める。ひび割れていく目地をじっと見つめていた少年は、指先を幅一センチほどの隙間へと差しこんだ。乾いた土のように崩れるモルタルの中に指を埋め、二十センチ四方ほどのテラコッタを一気に剥がす。
その下には、コンクリートが敷かれていたようだった。
というのも、そのコンクリートは一部破壊され、今剥がした面積よりもやや小ぶりの、一辺が十数センチ程度の大きさの何かが埋められていたからだ。
「箱……?」
隣から覗きこむ紫月が呟く。
黄銅のような、鈍い色が夕方の光に小さく反射する。
「これは、お前の領分かもしれないな」
咲耶が僅かに上半身を引く。蓋に刻まれているのは、角ばったアルファベットにも似た奇妙な模様だ。
「ルーン文字かな……」
指先が、それに触れようとした時に。
「何をされているんです?」
背後から、声が響いた。
不機嫌そうな顔で雑草の間に立っていたのは、見慣れた相手だ。
「……夏木さん。どうして、ここに?」
身を起こして、尋ねる。
「こちらの台詞です。部屋の窓から、塀の向こう側にいるのが見えたので来たんですよ」
「でも、どうやって? この高さの塀を乗り越えるなんて」
続けて問うた紫月には、肩を竦め、背後に視線を向けた。
「東側の塀に、戸口が作ってあります」
きょとん、として、二人の拝み屋は顔を見合わせた。
「乗り越えたんですか?」
「ああいえ、壊してはいませんよ」
やや非難するかのような声に、慌てて返す。値踏みするかのように見返してきたが、まあいいでしょう、と溜息と共に流された。
「塀のこちら側は、夏木家の所有ですが、厳密に言えば大叔父のものなのです。勝手に入ってはいけない、と言われています」
「かなり長い間、使われていないようですが」
「別荘と同じぐらいでしょうね。大叔父はあまり興味がないようなので、手入れもしていないと聞きました」
十年、誰も入らなかった場所か。この箱を埋めることは、容易くできただろう。
「さあ、今度はこちらの番です。こんなところで、一体何をやっているんですか?」
今まで、時折好意的ではない感情を垣間見せてはいたが、今はあからさまに苛立った口調で、太一郎は問い質した。
「祓ってもまた発生する霊の理由を調べていたんですよ。ここに、何らかの呪いが埋められていました」
咲耶の言葉にも、太一郎の気が晴れた様子はない。
「それを探るために、弥栄さんを屋敷から離して、こっそり戻ってこさせたんですか?」
「いや、それとは別件で。あの痣は、昼には消えてしまっていましたし」
「消えた?」
大人びた仕草で、片手を顎に添える。
「ということは、やはり、ここの霊に影響されたと?」
「その可能性は高いです」
肯定されて、珍しく困ったように紫月を見る。
「申し訳ない。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、そんな。仕事ですし」
丁寧に頭を下げられ、慌てて紫月は首を振る。だが、顔を上げた太一郎は、硬い意思を思わせる声で、告げる。
「ですが、それとこれとは別です。ここは、大叔父の許可を得なければ、入れません。どうしても調べたい、と仰るなら、本家に連絡をしてみましょう。明日には返答が来ると思いますので、そこを元に戻して、一旦お引きください」
「はい」
一見おとなしく頷く。それに満足したか、太一郎は塀に設けられたという戸口へ向けて先に歩き始めた。




