第一章 03
そこに立っていたのは、五十をやや過ぎた男だ。
まず目を惹くのは、頬に大きく貼られたガーゼだ。目の回りの皮膚は、ところどころ、どす暗い青や紫、そして黄色に変色している。
あれが、殴られたという痕だろう。それ以外は、目に見えるところに外傷はない。
腹は、上着のボタンを嵌められずにでっぷりと突き出されている。身体と、そして精神のバランスを取るかのようにやや反り返って男は室内を一瞥した。
「社長、こちらが」
「竹田くん」
気を利かせ、紹介しようと口を開いた秘書課長の言葉を遮る。その厳しい視線は、滑らかに立ち上がっていた咲耶を睨み据えていた。
「私は、腕利きの人間を捜してこい、と言ったのだがね」
びくり、と竹田が肩を震わせる。
無言で、咲耶はそれを見守っていた。
「ですが、山下代議士からのご紹介です。太鼓判を押す、とのお言葉でした」
その言葉に、社長と呼ばれた男は更に渋い顔になる。どうやら、無下にもできない相手らしい。
「初めまして、守島です」
にこりと笑んで、少年は軽く頭を下げる。
「……だが、若すぎる。それに、何だその格好は。革ジャンにジーンズ、スニーカーだと? 仕事の話をしにくるなら、それなりに弁えた服装をするべきだ」
が、那賀谷はそれでもまだぶつぶつと文句を呟いた。にこやかな表情を保ち、咲耶は更に口を開く。
「これでも俺は、物心つく前からずっと修行を重ねていました。この手のことに関わった年数なら、もう十五年は越えています。それに、俺の服装がお気に召さないようですが、例えば陰陽師の正式な装束ならいいということですか? あんな仰々しい格好で街中を歩いてからここへ来たら、何かしら厄介ごとがあると喧伝しているようなものですよ」
その言葉に、流石に客商売である企業の社長は唇を歪めた。
「揚げ足を取るな。そこまでは言いはせん。だが、スーツ……は無理でも、制服ぐらいは」
「申し訳ありませんが、俺は学生じゃないもので」
さらりと、那賀谷の要求を拒絶する。
「それに、この格好にも、理由があります。俺の仕事のやり方では、なにより機動力を重視します。そもそも幣も数珠も反閇も、全ては結局より力を引き出すための演出でしかない。そんな雰囲気づくりに凝らなくても、一流の術師なら充分力を出せるんです」
きっぱりと、傲慢さを感じさせるほどにきっぱりと断言する。
咲耶は竹田とだけ話している時には、むしろ、彼に迎合するような言葉も発していた。
相手が、依頼主そのものではないからだ。
依頼主に会えぬまま終わってしまえば、仕事にありつけない。
だが、困っている当人に必要なのは、実力と、そして自信だ。
そのことは、咲耶は嫌と言うほど知っていた。
予想通り、那賀谷は表情にやや覚束なさを加えている。
「つまり……、君は、その一流の術師だ、と言いたいのかね」
「日本でなら、五本の指に入る程度には」
静かに告げられた言葉に、社長は更に口を曲げた。
だが、それ以上は何も言わず、咲耶に身振りで椅子を勧めた。
那賀谷は戸口からソファまでの距離を進むだけでも、今度は苦痛で顔を歪めている。脚や腕の動きが、ぎこちない。
「お怪我はどのような具合ですか」
やや気遣わしげに、咲耶は尋ねた。ソファに座る際に不機嫌そうにゆっくりと腰を沈めながら、那賀谷が咲耶を見据えた。
「私は打ち身だけだ。あまり出歩けんが、社内の仕事なら支障はない。この顔では、そうそう客にも会えんから、仕事の進みは悪いがね」
「その侵入者は、お二人をただ殴りつけてきた、のですか?」
「ああ」
「酸や毒を吐いたり、噛みついたりはせずに?」
「……恐ろしいことを訊くな。そんなことはされなかったが」
やや鼻白んだ男の言葉に、眉を寄せる。
「なら、先日の襲撃はただの警告でしょうね」
「警告!? これほどのことをしておいてか!」
那賀谷は激昂したような声を上げるが、その動きが身体に障ったらしく、いたた、と呻きながら身を縮める。
冷静に、咲耶はその姿を見返した。
「しかしお二人ともが、こうして生き残っていらっしゃる。話にお聞きした通りなら、誰かが妖を苦労してこのビルに送りこんできたんです。最大限の効果を上げようと目論むのが、当然だ。出現してから、他の方が社長室に入ってくるまで、お二人を殺す時間は充分にあった。もしも時間が足りなくても、その人たちだって幾らでも殺してしまえる。なのに、殴るだけで終わらせた、となると、今後はこれでは済まないという警告でしょう」
「……穏やかでない推測をするのだな。君は」
淡々と告げた言葉に、ぞっとしたように返す。
小さく咲耶は肩を竦めた。
「今の状況は、充分穏やかですよ。妖が現れて人を殺したなんて、一体何の罪に問えるとお思いですか? 呪術に手を染めた術師は、大半が遵法精神なんて持ち合わせちゃいません。彼らの属する集団の規律が、各自が好き放題することを戒めている、ただそれだけです。だから、集団に属さない、はぐれ者はなんだってやってのけますよ。……そうですね、警告としても、もうお一方の生命を奪うことをしなかっただけ、相手はまだ良心的だったかもしれない」
それは、今後、そのような穏やかさは望めないかもしれない、ということでもある。
扉の横で立っていた竹田が、ぞっとしたように身震いした。
ごくり、と那賀谷が喉を鳴らす。
「……君なら、これを何とかできると?」
「詳細をお聞きする前に、安請け合いはしませんよ」
咲耶は、午前中に竹田と話した時のように、そう言った。
「だが、君の実力も知らないうちに、詳しい話はできん。例え、今までの実績がどうであろうと、我々にはそれが真実かどうか判らないのだから」
通常の企業相手であれば、実績を判断する指針は明確だ。だが、彼らは、拝み屋の腕を判断するだけの知識もなにもなかった。
慎重すぎる、と言えるかもしれない。
だが、あんなものからの襲撃を受けた身としては、仕方ないとも思える。
咲耶は、彼らの気持ちを放り捨てはしなかった。
「では、まず一件、仕事を請けましょう。社長室に出た妖。あれを、退治しますよ。前後関係は、一切お伺いしません。勿論、報酬は後払い。ただ、額だけは、今ここで決めさせて頂きます」
少年の申し出に、息を飲む。
「……あの化物は、まだ、あそこにいるのか?」
「勿論です。ぷんぷん臭いますよ」
さらりと告げられた言葉に、那賀谷は眉間に皺を寄せる。
「だが、今日までに二度、清掃業者を部屋に入れている。数時間と経たずに元に戻ったが、奴が出てきたという報告はない」
「命令がなければ、奴らは動きません。それを引きずり出すのも、俺の仕事です」
そこで、若き拝み屋は、依頼主の困惑と決断を待つかのように口を噤んだ。
エレベーターホールで、高い、ベルのような音が鳴る。
秘書課にいた者たちが、慌てて立ち上がった。普段に比べれば、このフロアに上がってくる人間は少ない。ちょっと油断していた。
やがて通路に姿を見せたのは、ゆっくりと、足をやや引きずりながら歩く、那賀谷社長。続いて、秘書課長の竹田。そして、長い黒髪を一つに結んだ、まだ幼さすら残る少年だ。
流石に呆気にとられた全員を、那賀谷が一瞥する。びくり、として、慌てて彼らは頭を下げた。
「安居くん、長靴出して。二足」
パーティションに近づいた竹田が、指示を出す。ロッカーに近かった若い男が、ぱっと身を翻した。
かちゃん、と扉を開け閉めする金属音。
「……中に入るんですか?」
潜めた声は、それでも咲耶の耳に届く。
「こちらは気にしないで、業務を続けなさい」
宥めるように告げ、竹田は小走りに通路を進んだ。
社長室までは、さほど遠くない。二人は、既に扉の前に立っている。
「中は厄介だ。履くといい」
長靴を一足受け取りながら、那賀谷は咲耶に促した。
やや気が進まない様子で、それでも少年は一つ頷く。
「那賀谷さんもご一緒に?」
「経緯を確認しないことには、意味がないだろう」
この仕事は、咲耶の手腕を見極めるためのものでもある。部下に任せられない辺り、我が強いと見るべきか、責任感が強いと見るべきか。
その社長は、革靴から長靴に履き替えるだけで身体の痛みを堪えているのだが。
ふぅ、と溜息をついて、咲耶を一瞥する。
「開けるぞ」
そして、鍵穴に鍵を差しこんだ。かちゃり、という小さな音が、響く。