第一章 02
「わが社のことは、ご存知でしょうか」
「首都圏を中心に展開しておられるスーパーマーケットチェーンですね」
前日に、ざっと調べてきたことを告げる。流石に、企業相手に、全く何も予備知識がなくて仕事は取れない。
「はい。三日前ですが、その、本社の社長室に、……出た、んです」
歯切れ悪く、竹田はそう続けた。
タイミングよく、マスターがコーヒーを運んでくる。それがテーブルに置かれ、無言のままマスターがカウンターへ戻っていくまで、二人は沈黙を貫いた。
「……出た、とおっしゃいますと」
咲耶が促したところで、秘書課長の肩書きを持つ男は、やや、覚束なげな表情を浮かべた。
「私はその場におりませんでしたので、伝聞となりますが……。社長と営業部長が室内にいた時に、天井から、黒い鱗に覆われた化物が現れた、と。そいつは、二人を気絶するまで殴りつけています。私の所属する秘書課は、社長室の隣にありますので、物音と悲鳴が聞こえてきました。我々が部屋に入った時には、もう、その化物はいなかったのですが」
「お二人のご容態は?」
気遣わしげに、咲耶は尋ねる。
「すぐに意識は戻りました。社長は頭を打っていましたが、検査の結果異常はありません。営業部長の方は足の骨を折ってしまったので、二ヶ月ほど入院することになりました」
「お二人とも、意識ははっきりされている、と」
「はい」
即答する男に、咲耶はやや眉を寄せた。
「何かの間違い、ということはないですか。お二人の間で何事か暴力に発展するような事情があったとか」
その言葉に、竹田ははっとする。
『拝み屋』という職業から、全てを霊的な、いわば胡散臭い代物に結びつけて考えられるのではないか、と思っていたのだ。
突拍子もないことをまくし立てられ、霊験あらたかだという壷や石などを売りつけられるのではないかと。
尤も、そんな思いは表に出さず、男は静かに首を振った。
「私は、社長室に一番に入りました。社長室の中は、床も、壁も、窓も、天井も、家具も、全てが粘々したおかしな液体で覆われていたんです。あの日、社長が外出したのが、午後一時半。帰社したのが、午後五時二十五分頃。外出前に変わったことはなかったと言っております。帰社した後、化物が出現して、気を失うまでの間にも。そもそも、社長室に入るには、私の勤務する秘書課のすぐ横を通るしか通路はありません。秘書課の誰も、その間に社長室へ入った者を見ておりませんし、エレベーターホールの防犯カメラにも不審な人物は映っていませんでした」
「……なるほど」
小さく呟いて、咲耶はアイスコーヒーに口をつけた。つられて、竹田もコーヒーを一口含む。少し、ぬるくなりかけていた。
「それで、貴方がたの心当たりは、何ですか?」
が、突然そう尋ねられて、受け皿に置こうとしたコーヒーカップが無様な音を立てた。すみません、と小さく謝罪する。
「心当たり、と、言いますか……。こういうことは不本意ですが、企業は、綺麗ごとではやっていけません。創業から今まで、怨みは幾つか買っているでしょう。その内の、一体どれかということは、我々には突き止められない。だからこそ、貴方にお願いしたいのですが」
「はい、それは判っています。ですが、被害に遭われたのが、三日前の夕方。それで、昨日には、もう俺に話が来ていた。異常な事態だということを差し引いても、早い。相手に心当たりがあって、その脅威が判っていて、ぐずぐずしている余裕はなかった。違いますか?」
冷静に、論理的に話を進める少年に、ややたじろぐ。
「……社内事情や、コンプライアンスのこともありますし、請けて頂けなければ、これ以上のことはお話できません」
ただでさえ、本社の警備が手薄である、というような話をしてしまっている。まあ、化物相手にどこまで警備を厳重にできるのか、ということはさておき。
「詳しくお話を伺ってもいないのに、安請け合いはできませんよ」
流石に、その辺りは咲耶も慎重だ。
このやり取りは予測できていたのだろう。頷いて、竹田は腰を浮かせる。
「社に連絡してきます。社長が直接お話できれば、それがいい」
「お願いします」
上司に問題を丸投げする男を、軽く目礼して咲耶は見送った。
扉を静かに閉め、鍵をかける。
殺風景な、コンクリート打ち放しの壁。アルミ製の扉。
ただ冷たい感触しかしないそれから、早々に手を離した。
まあ、冬場に比べれば、冷房が効いているとはいえ今の季節はさほど辛くない。
肩にかけた鞄の位置を軽く調整し、階段へと足を向けた直後。
「紫月様?」
背後から、聞き慣れた声がかけられた。
溜息を押し殺し、振り返る。
「いたのか。織原」
背後から小走りに近づいてきたのは、十代後半の少年だ。品のいい清潔なシャツに、コットンパンツ。育ちのよさがその柔らかな雰囲気からも察せられる。
尤もそれは、鈍感と紙一重だ、と弥栄紫月は皮肉っぽく考えた。
「どちらへ行かれるのですか? お義父様は本日は外出されないようにと」
「あれはお前の父親か? まあ、喜んで差し出すけどな」
嫌味の籠もった言葉に、織原は悲しげな表情を浮かべる。
「そんなことを言わないでください」
今度はあからさまに溜息をつき、彼は視線を逸らせた。
「……学校へ行くだけだ。図書館に行きたい。ここにある本は、もう大抵読んだからな」
「では僕もお供します」
「必要ない。毎日通っている場所だ。……お前も、たまには自分の大学に顔を出したらどうなんだ。折角合格できたのに、前期は殆ど出席しなかったらしいじゃないか」
露骨な言葉に、しかし織原はぱっと顔を明るくする。
「僕があの大学に合格できたのは、お義父様と紫月様のおかげです。お二人にお仕えすることが、一番嬉しいんです。父さんも、そう言って」
「血を流したのはお前じゃないからな」
聞こえないように呟くと、紫月は相手の言葉を遮るように踵を返した。背後からの声には、もう、小さな動作一つ返さない。
竹田が社に戻ったのは、午前十一時を回った頃だった。
車を降り、自社ビルまでの街路を連れ立って歩いている時から、守島はやや眉間に皺を寄せていた。
「どうされました?」
少年は、その言葉に軽く首を振る。
「いえ。会社は、ここからやや右手方向ですか?」
「はい。次の角を曲がってすぐです」
事前に地図でも見ていたのだろうか。最近は、携帯型端末でそれぐらいはすぐに判る。竹田は、そのことには全く疑問を抱かなかった。
社長は現在会議中であると、電話で聞いた。それが終わるまで待つことになるのは、喫茶店を発つ前に咲耶に話してあった。それでもまず会社へ向かったのは、現場に近づくのは早い方がいい、という守島の要望である。
勿論、状況も聞かず、契約内容すら決まっていないのに現場である社長室に入らせる訳にはいかない。彼は応接室の一つに通された。
重厚な、黒い革張りのソファーセットに目もくれず、咲耶は窓へと近づく。下げられたブラインドを軽く押し開き、外をざっと眺める。見えるのは周辺のビルに狭い空、そして貫くような夏の陽光だ。
「こっちが南、だから、やや南西か。……厄介だな」
小さく呟き、踵を返した。所在なげに立っていた竹田が、とりなすように口を開く。
「じきに社長も参りますので、おかけになっていてください」
頷いて、咲耶は柔らかな感触のソファーに腰をかけた。
やがて扉が開き、歳若い女子社員がコーヒーを持ってくる。
彼女は今年の春に入社したばかりだ。まだ幼さの残る顔は、しかし怯えの色が隠せていない。
直接化物を見てはいないが、それでもその噂は静かに広がっている。まして、あの社長室を見た後では、一笑に付すことも難しいのだろう。
部屋を出る彼女に、竹田は小さく頷きかけた。
それが、何の力になるとも思えないが。
気まずい時間がただ流れていたところに。
ドアが、ノックもされずに、突然押し開けられた。