第一章 01
頭上は、ただ、深い闇だ。
窓はない。外部から光が差しこむ隙は、微塵もない。
天井まで、どれほどの高さがあっただろうか、となんとなく考える。今立っている場所は、床よりも二メートルほどは高い壇の上だ。ここにいて、それでも天井は遥か遠かった。
のしかってくるような威圧的な暗闇は、まるで果てがないかのようにも見える。
だが、全く光が存在しない訳ではない。彼の周囲に、まばらに円を描く形で立てられた蝋燭のみが、周囲を柔らかく照らし出している。
眼下の、壇の下にはぼんやりとしたその光を受けて、ゆっくりと蠢くものたちが密集していた。
ぬらりとした質感の理由は、彼らが服を着ておらず、かつ肌が濡れているからだ。
空調は充分以上に利いている。正直、肌寒い。
彼らは身体を揺らし、呼吸を荒げ、呻くように謳い、縋るように腕を伸ばす。
彼は、冷たい、何の感情も宿していない瞳でそれを一瞥した。
まだ、闇を見つめている方がましだった。
視線を移動させたのは、そして、それを戻せないのは、次の段階に入ったからだ。
苦々しく、それを自覚する。
ごとん、と硬い音が響く。
鋼の刃を、剥き出しに石の上に置いた、ような。
「焦がれ、求める者よ、汝がためにその身を捧げし生贄の前に進み出よ」
聞き慣れた声が、響く。
彼の身体は、微動だにしない。
震える手が、その刃を取り上げても。
畏れと欲望と歓喜を顔に貼りつけた男がにじり寄ってきても。
微動だに、しない。
腹部に、ひんやりとした感触が押しつけられ、そして、一息にそれが鋭い熱に変わり、裂け広がり、温かな液体が肌を濡らしていっても。
ただただ、心の中を憎悪と軽蔑でのみ満たして、彼はそこで時間が過ぎるのを待っていた。
「全く、強情な奴らだ!」
那賀谷は、怒声を上げながら社長室へ入っていった。
エレベーターホールから社長室までは、秘書課の脇を通っていく。間仕切り壁ではなく、胸の辺りまでのパーティションで区切られた通路を壮年の社長と営業部長が歩いていく間、秘書課にいた社員たちは立ち上がり、軽く頭を下げていた。
「……今日は機嫌が悪そうだ」
扉が閉まる音を確認し、顔を上げる。やれやれ、と言いたげに、秘書課長の竹田が呟いた。
「いつもでしょう」
皮肉げに、若い部下が応じた。
この通路は、来客が通ることもある。その時に無視するような態度を取ってはならない。普段からの習慣が必要だ。
そう、あの礼は、別に社長に対してひれ伏している訳ではない。
それでも揶揄するような言葉が出るのは、減ることはない。
まあ、この程度、どこの会社でも同じようなことだろう。
そう思って、竹田は再び席に着き、書類を捲り始めた。
苛立たしげに、那賀谷は椅子にどすん、と腰を下ろす。
飴色に磨き上げられた机は、明るい照明に照らされて滑らかな質感で誘いかけてくる。
が、彼はそんなことに心動かされはしなかった。
「議事録を纏めてくれ。六時から対応のための会議だ」
「はい」
苛々と告げる言葉に、営業部長の安藤は短く返す。
厄介な相手だった。しかし、今までにもそのような者たちはいた。
金のために。情のために。
彼らの譲れないものを、どうにかして譲らせてきたのだ。
厄介だが、相手にできない訳ではない。
彼らは苛立ちつつも、しかしこの時点でこの物件が手に負えないものだとは思っていなかった。
部屋の中に、断続的に小さな水音が響いていることに気づくまでは。
きょろ、と室内を見回したのは、安藤だった。
「どうした?」
「いえ……、何か音が」
訝しげな返事に、那賀谷も口を噤む。
耳に入ってきたのは、充分に水を含んだ柔らかなものに、更に水が滴り落ちる音。
まるで、毛足の長い絨毯の上に、一滴一滴落ちていくような。
「水漏れか……? こんな時に」
明らかに不機嫌そうに、那賀谷は零す。
安藤が、部屋の一角に足を向けた。
こちらも飴色の木で作られたチェストが置かれている。腰にも満たない高さのその天板には、一つの壷が粛然と置かれていた。
その、すぐ前の絨毯が、濡れているのだ。
安藤は手前で足を止めた。社長室の天井は、高い。が、明らかに染みになって色が変わっている部分があるのは判る。
「業者を呼ばせましょう」
帰り際、秘書課に頼めばいいだろう。そう考えて、視線を逸らそうとした安藤は、視界の隅に何かを認めて、動きを止めた。
再び天井に向けられた視線が、直径六十センチほどの染みより、今まさに頭から抜け出ようとしているものを捉えたのだ。
鋭く、息を飲む。
その、ひとならざるものは、がん、と腕を天井につけると、ずるり、と上半身を露にした。悲鳴も上げられない男たちを一瞥し、そして、雄叫びを上げた。
獲物を見つけたかの、ように。
じりじりと、太陽の光は黒いアスファルトを焼く。
まだ午前中だというのに、早くも額に汗を滲ませて、守島咲耶はできる限りビルの影の中を選んで進んでいた。
軽快に歩んでいたスニーカーは、やがて横道へと進路を変えた。
踏みしめる地面は、熱いアスファルトから、ひやりと冷えたテラコッタに変わる。
そこは横道、というよりも、建物と建物の間の細い通路に近い。自然、陽の光も殆ど差しこまない。
やがて、建物の外壁に穿たれた入り口に、咲耶は入りこんだ。くすんだ銀色のメールボックスの横を通り過ぎると薄暗い廊下はすぐに終わり、やや急勾配の階段が現れる。
慣れた風に、彼はとんとんと軽やかに上がっていく。三階に着いて、すぐ横の扉に手をかけた。濃い茶色のガラスが嵌められたそれは、小さな軋みと共に軽く開く。
「いらっしゃい、守島くん」
落ち着いた声が、すぐ横から放たれた。
右手には、五席ほどのカウンターが設えられている。その内側に、一人の男がいた。年齢は三十代半ばほどか。やや大柄だが、引き締まった肢体をしている。糊の利いた、白いヘリンボーンのシャツの上にブラウンのベスト。ネクタイは暗めの臙脂だ。磨いていたグラスを静かに置いて、彼は薄く笑いかけた。
「おはよう、マスター。久しぶり」
軽く、咲耶は片手を上げる。
「呼び出してしまってすまないね」
「客を紹介してくれるってんだから、礼を言うのはこっちだよ」
店内を一瞥する。奥には十二席ほどのテーブル席があったが、まだ客は誰もいない。
「飲み物は? 後にする?」
「向こうが来てからな。アイスコーヒーで」
頷いて、マスターは氷水の入ったグラスを出してくれた。冷たいそれが、手に、喉に心地いい。
この喫茶店は、あまり人目につかない場所にあるが、常連客はそこそこ多い。今、誰もいないのは、午前九時半という時間帯もあるが、おそらく人払いをしていてくれるのだ。
その気遣いに感謝しつつ、咲耶は近況をぽつぽつと話していた。
扉が再び開かれたのは、九時四十五分を回った頃である。
立っていたのは、細身の四十代ほどの男。背はさほど高くない。濃いグレイの背広。濃紺のネクタイには、斜めに白で細いストライプが入っている。黒い革靴の爪先が、行き先を探して迷っていた。
「竹田様、ですか?」
できる限り穏やかに、咲耶は声をかける。
だが、それでも彼は驚愕したような視線を向けてきた。
「守島です。お待ちしておりました」
そう続けて、咲耶は身振りで店の奥へと軽く促した。先に立つ彼の背中に、否応なしに視線が突き刺さる。
そんなことは、慣れている。
席につき、数歩遅れて冷水を持ってきたマスターに、竹田はホットコーヒーを注文した。
そして、胸ポケットから名刺入れを取り出す。
「株式会社ナガタニの、竹田と申します」
流石の滑らかさで名刺を差し出してくる。
「頂戴致します」
礼儀正しく受け取るが、しかし、咲耶は返すための名刺は持っていない。居心地悪そうに視線を彷徨わせ、竹田が口火を切る。
「それで、その、守島様は」
言葉を捜す男に、小さく笑いかけた。
「俺が、本当に、貴方が捜していらした『拝み屋』であるのかどうか、不審に思っていらっしゃるのでしょう?」
竹田はそれを否定できず、緊張した顔で頷いた。
そうだ。慣れている。
守島咲耶。十七歳。腰近くまで伸びた黒髪は、後頭部で無造作に白い組紐で一つに括られている。八月を半ばも過ぎたこの時期に、黒革の丈の短いジャケットを羽織っていた。その下には、白い、無地のTシャツを着て、濃い目のデニムにスニーカーを履いている。そして、何より目につくのは、両手に嵌められた、黒革の指なしの手袋。
『拝み屋』というもののイメージからは、程遠い。
だが、咲耶はその疑惑に怯んだりはしない。
「こう見えても、俺は、物心つく前から修練を積んでいます。拝み屋として一人で仕事を始めたのは二年前からですが、依頼の成功率はほぼ百パーセントだと言っていいでしょう」
「ほぼ、ですか?」
依頼人は、神経質な視線を向けてきた。
咲耶が小さく肩を竦める。
「たまに、少しばかり後ろ暗い話を持ってこられるんですよ。他人を呪おうとしたりとか、俺を騙そうとしたりとか。まあ、そういう依頼は報酬を頂きませんから、厳密には依頼ではないのかな」
少年の言葉に、竹田は未だ不審そうではある。だがこの話はなかったことに、とはできないのだろう。腹を括ったか、男は口を開いた。