第三章 03
慌てて周囲を見回す。
だが、そこは一面の暗闇だ。足元どころか自分の手すら見えない。
閉塞感はない。袋を被せられた、目隠しをされた、などという訳ではない。
何らかの妖しげな術で視覚を奪われたのか、と思い至って、身体が小さく震え始める。ひょっとしたら、もう、二度と見えるようにはならないのかもしれないのだ。
場違いに、心地いいそよ風が吹いていた。
「よし、動くな。逃げたところで、状況は変わらないぜ」
落ち着いた、まだ歳若い声が告げてくる。
「だ、れだ、貴様……」
「訊くのはこっちだ。お前、杉野の関係者か?」
その名前に、びく、と身体を震わせた。だが、口は開かない。
「追いかけてたのは、弥栄か? 何のためにだ?」
それにも、無言を貫く。
あの方を裏切って、どうなるかなど、想像したくもない。
「なるほど。口が堅いのは、いいことだ。だが、もっといいのは、生き延びるために全力を尽くすことだと思うね」
その、不穏な言葉に、じり、と後ずさる。
「動くな、って言っただろう。お前の背後が、断崖絶壁になってないなんて、俺は保障した覚えはない」
一瞬で、身体が竦む。
「さあ、早いところ話しちまいな。こっちは、あんたの生命も、魂も、肉体も、他の人間に残る記憶まで、全部磨り潰して誰も見つけられないところに捨てちまうことができるんだからな」
あっさりと、ただ事実だけを告げるような口調に、震えが止まらない。
がちがちと歯の根が合わない彼は、ただ、救けを求めるかのように周囲を見回した。
咲耶は、見上げるほどの高さまで渦巻いている黒い風を、思案げに眺めた。
「よし。出せ」
しゅん、と、一瞬でその容積を縮めた〈榊〉の中心から、一人の男が現れた。目を閉じ、ふらふらと身体を揺らがせながら立っている。
「ほらよ。こっちだ。ゆっくり歩きな」
片手を取り、声をかけながら、咲耶は街路を先導した。そのまま一ブロックほど行った辺りに、小さな公園らしきものがある。
少し奥まったところにある木陰のベンチに、男を座らせた。背もたれに身を預け、がくりと首を落とす。
彼の服装がスーツであることと相まって、おそらく、仕事をサボっているサラリーマンだと思って貰えるだろう。流石に夜になってしまったら不審な目で見られるかもしれないが、その頃には咲耶たちはもうこの辺りにはいない。
男が握り締めていた携帯電話を、ひょい、と取り上げる。
それにやや嫌悪の視線を向けて、少年はしゃがみこんだ。
「榊。適当に、あちこち歩き回れ。そうだな、逢魔が刻になったら、これを壊してから還っていい」
逢魔が刻とは、夕暮れ時の、古い呼称である。昼と夜とが交わる時間帯、この世ならざるものどもが跋扈するのだと伝えられてきた。
夏至は過ぎてしまっているものの、まだまだ陽は長い。充分な時間は稼げるだろう。
ひゅんひゅんと渦を巻く〈榊〉の中心に、携帯電話を入れる。
その黒いつむじ風が公園の中を進んでいく姿を見送った。
〈榊〉は、物理的な破壊力を持たない。だが、例えば高さ十メートルのところから自然落下させれば、おそらくはあの程度の工業製品なら壊すことはできるだろう。
そして、スーツの男を放置して、ふらり、と、咲耶も足を進めた。
「戻ったぜ」
「お帰りなさい」
「お帰り」
「お帰り」
人数分の挨拶が返ってきて、苦笑する。
すっかり人気がなくなった喫茶店で、カウンターの周囲に固まっているのは、真弓、マスター、そして紫月だった。
その、紫月の隣の椅子に腰かける。
「そっちはどうだ?」
紫月に視線を向け、尋ねた。
「追いつかれてはいない。ここから離れるように命じてあるけど、結構人間離れした逃げ方しているな……」
「お前の逃げ方がそもそも人間離れしてるじゃねぇかよ」
少し困ったように呟く紫月に、二度も目の前から逃走された咲耶は無情に返す。
つい先だって、追っ手をおびき出した〈紫月〉は、実は偽者だ。
彼の使い魔、カルミアが化けたものである。
カルミアの動きは、主人である杉野には判ってしまうだろう。だが、咲耶の元を離れた紫月が、警護のために、見えない形でカルミアを召喚している、ということは充分あり得る状況だ。部下の報告が届いているならば、騙されてくれる可能性は充分あった。
咲耶はここに入る前に、周囲の様子を探っている。車は二台とも消えていたし、取り立てて不穏な気配も感じなかった。
「君の方は?」
「上々だ。心配いらねぇよ」
故意に、軽く答える。
「やっぱり、あそこにいたのは杉野の手下だ。お前と、俺を、あいつのところに連れて来いって命令を受けてた。死にさえしなきゃいい、みたいなことも言ってたらしい。本当に根に持つ男だな」
自分のしたことを棚に放り上げ、続ける。少しばかり心配そうな表情ではあったが、紫月はそうか、と呟いた。
空気を変えるために、大きく伸びをする。
「さて、と。もう三時間程度しかねぇけど、休むか。お前もちゃんと寝ておけよ」
細かく指摘して、腰を上げる。
「どこかに行くの、咲耶さん?」
きょとん、とした顔で、真弓が尋ねた。
「奥で二人は寝られないだろ。上に……」
「さくや?」
小さく紫月が繰り返すのに、ぴたりと口をつぐんだ。
その不自然さに、紫月は首を傾げる。
「あら、まだ自己紹介してなかったの? 守島咲耶よ。あの子の名前」
「真弓さん!」
あまり強く制止もできない咲耶を、不思議そうに二人が見返す。マスターは、さり気なく厨房の奥で調味料の残量を調べていた。
「……人前で、名前を呼ばないでくれって、前からお願いしてるじゃないか」
力なく、ただそれだけを告げた。
「別に、そう大声を上げなくても、守島。いい名前じゃないか」
「あぁ?」
真弓を気遣ってか、口を挟んできた紫月を、今度は遠慮なく睨みつける。
「ええと……響きとか」
「お前は黙ってろ!」
思わず怒鳴りつけるが、真弓はこの一連の流れに全く動じていなかった。
「漢字だって、綺麗なのよ。こう書くんだけど」
さっとエプロンの胸ポケットからメモとボールペンを取り出して、書こうとする。
「見るな、弥栄。それは、お前が知らなくていいことだ」
平坦な声で命じると、咲耶は有無を言わさずに店から出て行った。
戸惑う紫月に、向き直ったマスターが声をかける。
「気にしなくていい。彼は、自分の名前が好きじゃないんだよ。それだけだ」
咲耶が訳の判らない命令をしてくるのは、この二日でかなり慣れた。それに関して、特に反発心も起こらなくなってきている。だが。
「どうしてなんですか?」
紫月の好奇心は、あまり抑えられていない。
しかし、マスターは穏やかに笑んで、続けた。
「守島くんは、君が知らなくていいことだって言っていただろう? じゃあ、私から話すことはできないよ。私だって、生命は惜しい。知りたければ、自分で調べたらいい。とりあえず、時間ができたらね」
屋上のコンクリートは熱をじりじりとスニーカーの底に伝えてくる。
足を、階段室の裏手に向けた。そちら側がやや影になっている。真夏の昼間だけに、さほど長くはないが。
壁に背を預けるようにして、座る。口の中だけで小さく呪を唱えた。
周囲に堅牢な結界を張り、内部に冷気を満たして、ようやく吐息を漏らす。
気が昂ぶっている。それを認めるだけの冷静さは、咲耶にはあった。
仕事の最中には、よくあることだ。警戒心を抑えることが酷く困難になる。まして、今回は自宅すら被害に遭っている。無理もない。
目を閉じ、努めて神経を緩めることに集中する。
他者の〈領域〉内で、更に結界を張ったりすれば、相手を信用していないと明言するも同然だ。勿論、マスターは気にしないだろう。だが、そこに甘えることはできない。
結果、咲耶はこうして一人離れ、自身の無言の欲求を満たしている。
目を閉じ、三十分ほどはそうしていただろうか。
身を起こして、片手を小さく振る。
結界が消えた瞬間、階段室の扉が開いた。
「咲耶さん? 起こしちゃった?」
小声で発せられた言葉に、苦笑する。
「いや。起きてたよ」
ひょこん、と、建屋の向こう側から真弓が姿を見せた。
「まだ怒ってる?」
「怒ってないって」
隣の床を軽く叩く。彼女が立っているところは、日差しがまともに当たる。
軽い足取りで隣に座ったところで、再度結界を張り直した。満たした冷気に、安堵する。
「咲耶さん。じゃあ、何を気にしてるの?」
しかし、ずばりと切りこまれて、息を飲んだ。
見返した先で、真弓は真っ直ぐに見つめてきている。
「……全く。敵わないな、真弓さんには」
自分よりも小柄な女性に、自嘲じみた笑みを向けた。
「弥栄の、ことなんだ。あいつ、義理の父親のことが嫌いで、家を出てきたんだよ」
「そう」
真弓は短く相槌を返す。
秘密にしているかどうかはさておき、他人の事情を勝手に話してしまうことに、気がとがめなかった訳ではない。だけど、まあ、詳しいところは咲耶自身も知らないのだし、当たり障りのない内容ならいいだろう、と勝手に決める。
「最初に会ったのは、仕事の件でだ。家出してきた、って聞いて、親近感があったのも、確かだよ。だけど、あいつは、こうも言ったんだ」
真弓から、視線を逸らせ、ゆっくりと呼吸する。吐息に僅かに震えが混じったのは、無視した。
「家を出たのは、その父親に打ち克つためだ、って」
咲耶には見えないが、真弓は僅かに痛ましげな表情を浮かべた。
「負けたような、気がしたんだ。俺は、ただ、あの家から逃げ出しただけだった。親父を打ち倒して、本当の自由を手に入れることなんて、俺は考えつきもしなかった……」
「咲耶さん」
真弓の声にも、咲耶は殆ど反応しない。ただ眉を寄せ、前方を睨みつけている。
「俺は、きっと、親父から一生逃げ回って過ごすだけなんだろうな」
「貴方は、負けてなんてないわ」
きっぱりと、真弓が告げる。
「貴方のお父様は特別だもの。貴方が息子だからとか関係なく、一体誰が、あの方に盾突けると思ってるの?」
それは、到底慰めとは言えない言葉だ。ぎり、と、奥歯を噛み締める。
「それと同じぐらい、貴方だって特別だったのよ。あの方に反抗して、離反したなんて、貴方ぐらいだわ。他の誰にできることじゃない。だから、貴方は今まで、一人でいることに満足していたのね。だけど、貴方のお友達。確かに、あの子も特別なんだわ」
「……友達?」
ぼんやりと訊き返す。爪が手袋に食いこみ、不快な軋みを伝えてきた。
「弥栄くん。貴方が気づいているかどうか判らないけど、あの子も強い子よ。まだ全然荒削りだけど、ひょっとしたら、貴方と肩を並べるくらいに。でも、勘違いしないで。貴方たちに共通する『特別』は、決して、『同一』という意味ではないの」
その口調に、鋭く咲耶は視線を向けた。
まっすぐに、ひたむきにこちらを見詰めてきた真弓の表情は、しかし、奇妙に無表情を保っている。
唇を引き結び、ただ言葉に耳を傾けた。
「立場も、強さも似ている。だけど、貴方たちは、決定的に思考の方向性が違うのよ」
思考の、方向性。
この二日、嫌と言うほど思い知らされた、紫月の考えなしな行動が脳裏によぎる。
あれを肯定できるかと言われると、確かに難しい。
「これから、しばらく一緒に行動するのだったら、ちょっとそれを考えてみてごらんなさい。貴方たち二人がお互いに補え合えるようになったら、世界の何ものだって敵ではなくなるでしょう」
咲耶が、堪え切れずに小さく声を出して笑う。
「本当に。……敵わないよ、真弓さんには」
それにつられたのか、彼女はくるりと表情を変えた。得意げな笑みを浮かべて、告げる。
「あら、当たり前よ。何と言っても、貴方の従姉なんですもの」