第三章 01
守島咲耶は、午前十一時を回った頃、力なくそのガラス張りのドアを開いた。
室内にいた二人の人間が顔を向ける。
「あら、お帰りなさい、咲耶さん」
「お帰り」
「……ただいま……」
ぐったりと、カウンターに身を投げる。
「お疲れ様」
マスターは、苦笑しながら冷たい水を出してくれた。今日は昨日と違う、オフホワイトのボタンダウンシャツ。ベストは明るめのグレイ、細めのネクタイは光沢を抑えたネイビーだ。彼は、あまり柄物を身につけることはない。
「上手くいったのかい?」
一息にそれを飲み干して、頷く。
「弁護士さんには、結構文句言われたよ。でも、保険関係は処理しておいてくれるって。警察とか消防は何もしてないけど、多分もう手が回ってる筈だ」
暑さと不運とに気力が失せた風情で、咲耶は説明半分、ぼやき半分の言葉を落とした。そのまま話題を変える。
「弥栄は?」
「奥にいるよ。おとなしいもんだ。休めてるかどうかは判らないけど」
尋ねると、両手が塞がっているマスターは軽く視線だけを厨房の奥へ流して言った。
「はい、咲耶さん。日替わりランチで悪いけど、持って行ってね」
横合いから、明るい声がかけられる。
淡い水色のTシャツ、クリーム色のティアードスカートに純白のエプロンをつけた女性が、両手にトレイを持って立っていた。年齢は、二十歳を幾らか超えたぐらいか。柔らかな鳶色の髪を、手馴れた風に一つに纏めている。
「ありがとう、真弓さん」
重い身体を起こし、礼を言いながら受け取った。
この店のランチは十一時半からだ。そろそろ準備も佳境だろう。このままここにいては、邪魔になる。
カウンターの横にある入口から、厨房の中へと入る。数歩先に、目立たない色の扉があった。
「戻った。入るぜ、弥栄」
その奥は、いわゆるスタッフルームだ。掃除道具の入ったロッカーと、二人がけの机と椅子、片隅に仮眠用のソファ。一方の壁の手前にはカーテンが下げられ、内側に冷蔵するほどでもない食材などが置かれている。
弥栄紫月は、ソファにかけて、手にした文庫本を読んでいた。
「お帰り、守島」
「おぅ。ちょっとは休んだか?」
「少しね」
肩を竦めて答える少年は、全く信用できない。
溜息をついて、両手のトレイを机へ置いた。
「食事、貰ってきたぜ。食おう」
頷いて、紫月は立ち上がる。
何の気なしにその姿を見ていた咲耶の目が眇められた。
「おい。その本、何だ?」
ああ、と呟いて、本の表紙が見えるように向ける。
「先刻買ってきたんだ。結構面白いな」
毒々しい色合いの表紙には、『陰陽道-闇の中の歴史』という文字が躍っている。
瞬間、咲耶はその本を奪い取っていた。
「……守島?」
「お前は、何を考えている!」
虚を衝かれた表情の少年を、怒鳴りつける。
「お前は西洋魔術師だろう! なのに、こんなもの読んでるんじゃねぇよ! 死にたいのか!」
立て続けに怒声を浴びせ、咲耶は相手を睨み据えた。それにじっと対峙していた紫月は、やがて口を開く。
「それはいささか大袈裟じゃないか、守島」
「……だから何だってお前はこんな基本的なことも判んねぇんだよ……」
何だかとてつもなく泣きたい気分に襲われて、陰陽師の少年はその場にしゃがみこんだ。スニーカーの爪先が僅かに毛羽立っているのをぼんやりと見つめる。
数秒間耐え抜いて、顔を上げた。腑に落ちない、という表情のまま、相手は見下ろしてきている。
「いいか、弥栄。お前が、今後、術師としてやっていきたいんだったら、他の術理論には一切関心を持つな。これは、最重要事項だ」
「どうして……」
「今から説明してやる。だから、それで納得しろ。大体お前は、知らなくていいことまで知りたがりすぎる」
きっぱりと言い渡す。それを承諾したのか、単純に先を続けさせたいだけか、とりあえず紫月は沈黙した。
この知人の見境ない知識欲は、昨日一日で充分身にしみている。先の長さを感じながらも、咲耶は口を開いた。
「俺が使う陰陽術と、お前が使う西洋魔術は、術理論が全然違う。なのに、どうしてそれぞれが破綻せずに働くのかって言うと、まず第一に、術師がその理論を信じているからだ。勿論、信じている度合いが、即、腕のよさに現れる訳じゃないが、使えるか使えないか、という境界を越えるのは、何よりも信用するかどうか、にかかっている」
ここまでは理解できたか、と、見上げてくる咲耶に、無言で頷いた。
「ここで、だ。もしも、他の術にも正当性があるかもしれない、なんて考えてみろ。それは、即座に、自分の使う術への懐疑へと転換する。迷いがある状態では、術は上手く扱えない。術師としてやっていこうっていうなら、その迷いは死に直結する。疑うな。迷うな。知ろうとするな。ただ、自分だけを信用しろ」
眉を寄せ、その言葉を思案していた紫月は、やがて告げる。
「随分と近視眼的なんだな」
「言ってろよ。ただ、お前が杉野とやりあって勝ちたいってんなら、俺の言うことは聞いておいた方が身の為だぜ」
そして、少年は立ち上がる。
「判ったなら食おう。冷めちまう」
ランチのメニューは、ミックスフライだった。タルタルソースは手製で、玉葱、胡瓜、茹で卵を細かく刻んで混ぜている。僅かに効かせた黒胡椒が、舌先をぴり、と刺激する。じんわりと幸福感すら覚える味だ。
つけ合わせは、長く切った茄子にオクラ。これは薄く焦げ目がつく程度に焼いてある。油が、茄子の表面を艶かしく照らしていた。
小鉢には、人参や大根、がんもどきの煮付け。卵焼き。そして白飯に漬物、味噌汁。
高級料理ではない。むしろ、家庭の味だ。
『家庭』とやや縁の薄い、食べ盛りの少年二人は、しばし無言で食事に没頭した。
紫月が問いかけたのは、皿の上が半ば空になってからである。
「それで、どうだったんだ?」
問いかけに、ん、と小さく咲耶は呟く。
前夜というよりも早朝のことだ。
それなりに疲弊して帰って来た二人の目前には、炎を上げるマンションの姿があった。
既に消防が駆けつけており、野次馬の姿も多いことを見て取って、咲耶は即座に行き先を変更したのだ。
つまり、ここ、昔馴染みの経営する喫茶店へ。
さほど非常識にならない時間まで屋上で時間を潰し、マスターに連絡を入れる。奥の部屋に入れて貰ってからは、紫月を宥めすかしてここへ留まることを了承させたのだ。
その後、ナガタニの本社に向かい、始業直後に竹田へ事の顛末を話しておいた。唯一、と言っていい連絡経路である自宅の電話が使えなくなってしまったのだから、致し方ない。電話で一報入れるだけにしては、事態は大事過ぎた。
不在だった社長には、竹田から報せて貰うように頼んでおく。
その後、先ほどマスターにも告げた弁護士事務所へ向かい、ひとしきり小言をくらいながらも処理をお願いする。
そして元住処を遠目に検分してようやく帰ってきたのだった。
「そうだな。全体的に、半焼って感じだった」
咲耶の感想に、首を傾げる。
「俺の部屋が、まさか全くの無防備だったなんて思ってないだろう? 普通のやり方じゃ、部屋の前で紙一枚だって燃やせないさ。だから、こう、力任せに大火力で焼こうとしたんだろうな。それでも大した威力じゃなかったが」
マンションの最上階、しかも角部屋を選んで住んでいたのは、万が一何かが起きた場合、他の部屋へのとばっちりをできるだけ抑えるためだ。
そして咲耶のかけていた防御の呪の効果で、自分の部屋の外、隣や下階の部屋に火はさほど回っていなかった。尤も、消防の活躍により大量の放水があり、やはり周辺への被害はかなり大きくなっていたと思われる。
一応保険には入っていたし、未成年ということもあって表に立たなくてもいいが、申し訳なさで少々気が塞ぐ。
「力任せ、か」
紫月は一言だけ繰り返した。
その言葉は、前日にも聞いている。
「ああ。実力差を考えても、放火犯は少なくとも俺と同じ術の使い手じゃない」
「回りくどい言い方をするんだな。杉野なんだろう」
きっぱりと、急くように紫月は断言する。
「物証もねぇのに決めつける気はねぇよ」
とはいえ、言うほど不快でもなさそうに笑いながら、咲耶は返した。
「……僕のせいだな。すまない」
しかし、やや俯いて呟いた相手には、きょとんとした視線を向ける。
「は?」
「僕が、君の家に厄介になっていたから。君の仕事についていったりしたから、あの部屋が狙われたんだろう」
「莫迦か。お前は」
一言で切り捨てられて、視線を上げる。
呆れた言葉からは想像できなかったが、咲耶は意外と真面目な表情を保っていた。
「元々は、俺が自分の仕事で関わったことだろう。大体、お前に会う前に、もう奴の使い魔を一体滅していたんだ。お前がきっかけな訳がない。変な気を回すな。心配しなくても、賠償なら、お前の養父からじっくり搾り取る」
不吉なものを感じさせる笑みに、少々呆れながらも、気を緩める。
「……にしても、どうして俺の部屋が割れたんだろうな……」
いついかなる時でも、後をつけられていないことは、確実だ。その辺り、咲耶の警戒心はゆるぎない。
「だって、君、昨日大学に来ただろう?」
だが、あっさりと、紫月は口を出した。
「そりゃ行ったけど」
彼と会ったのは、大学の図書館だ。
「君が学生じゃないなら、門のところで、警備員に名前と住所を書かされてなかったか?」
「…………………………あ」
迂闊にも忘れさっていた事態に、額を押さえる。
名前は流石に偽名を使った。だが、ひょっとしてこれから何度も来るかもしれない場所に、でたらめの住所を記入して、次回書く時に間違えてしまっては困る。
「あれ、尋ねていった人間に渡るものなのか?」
「事と次第によるだろうけど。面会したい相手までは訊かれない筈だろう?」
「ああ」
確か、理由までは書かなかった。
「多分、僕と逃げた相手を捜して、学生じゃなさそうだという算段をつけて、警備課に問い合わせたんだろうね」
そもそも事務局で、杉野のことを尋ねてもいる。そちらからは、連絡は行くかもしれなかった。
「結局お前のせいかよ」
「酷いな、君は」
憮然とした顔で責任を押しつけられて、笑う。連れの珍しい表情に、咲耶も不敵に笑んだ。