第二章 07
二人の少年が、再び非常口から建物外へ姿を現したのは、呼び出してから二時間ほど経過した頃だった。
駐車場へ入ってきた人影に気づき、那賀谷が車から降りる。次いで二人の部下も慌てて後を追った。
「どうなったんだ」
不安を苛立ちで覆い隠し、那賀谷が尋ねる。
「今夜、出現していた妖は全て滅しました。現在は何もいませんよ」
「現在は?」
畳み掛けるような問いかけに、咲耶は肩を竦める。そして、一歩後ろにいた紫月を促した。
彼が持っていたのは、一抱えほどの大きさの鉢に植えられた、観葉植物だ。
「これは、秘書課の入り口近くにあったものです。俺が、昼間にお邪魔していた時にあったものとは違いますね?」
視線を那賀谷が竹田に、竹田が男性社員へと向ける。
「ええと、はい、夕方に業者が交換にきました」
「観葉植物はレンタルなので、定期的に入れ替えにくるんですよ」
焦ったような答えに、竹田が補足を入れる。
「なるほど。今夜の妖たちは、この植物を媒介にして呼び出されたんです」
その言葉に、明らかに男たちが怯む。
「昨日、社長室で俺が破壊した〈出口〉は、壷でした。無機物に嵌めこまれたものは割と簡単に判るんです。ですが、こういった生物となると、極端に判りづらくなる」
「そうなのですか?」
不思議そうに、竹田が問いかけた。
「今、この瞬間も、この植物は呼吸し、生長しています。その生命活動によって、〈出口〉の存在は紛らわされている。一応、全てのフロアを点検して、現状はこれ一本だけだと判断しましたが」
「今後、こういうことを防ぐにはどうしたらいいのかね?」
険しい顔で、那賀谷が尋ねる。
「人の出入りを制限することですね。誰も建物内へ入れず、何も持ちこませなければ、何とかなるでしょう。建物を封鎖してしまえば、完璧ですが」
「そんなことができるか!」
思わず声を荒げる依頼主を、静かに見据える。
「お訊きした筈ですよ、那賀谷さん。生命と金と、どちらが大切だと言うんですか?」
しかし、突き放すかのような咲耶の言葉に、詰まる。
「まあ、一日に一度は様子を見に来るようにします。ですが、このような手段を使われた以上、覚悟はしておいて頂けますか?」
「こんなことがもうあっては困るんだ。守島くん」
きっぱりと、那賀谷は言い渡す。
「判っています。相手の目星も、一応つきました。一両日中には、いい話を持って参りますよ」
だが、さらりと告げる拝み屋に、それ以上は言い募れない。
「この木は、こちらで処分します。大丈夫ですか?」
その申し出に、竹田が頷いた。
「何とかしましょう。どのみち、業者は変えた方がいいでしょうから」
レンタル業者の内部に、こちらに怨みを持つ者がいるのかもしれない。ならば、この先あまりつきあいを続けたくはない。
「お願いします。……ああ、それから」
続いて、咲耶は手にしていた包みを開いた。落ち着いた青の袱紗の中には、掌大の携帯電話と一本のコードが包まれている。
「あ……!」
秘書課の社員が、息を飲んだ。
「コードを抜いて、取ってきました。パソコンは電源が切られているから大丈夫だ、と弥栄は言ったのですが」
珍しく少々不安そうに、咲耶は説明する。
「大丈夫です。ありがとう。これから、上まで取りにいかなきゃいけないかと」
もう危険はない、と言われても、一人で社内へ入るのは勇気が必要だろう。明らかにほっとして受け取ると、社員は何度も礼を繰り返した。
安堵したようにそれを見ていた咲耶が、やがて一同を見渡す。
「では、遅くまでお待たせしておりましたが、もうお帰りになって大丈夫です。どうぞお気をつけて」
一礼して、踵を返す。そのまま駐車場を出て行こうとした少年たちを、慌てて竹田が呼びかけた。
「守島さん! 車でお送りしますから」
電車はまだ動いていない。彼の申し出は、まだ若い少年たちへの気遣いだった。
が、足を止め、肩越しに振り向いた咲耶はそれを拒絶する。
「いいえ、遠慮します。これの近くに、あまりいらっしゃらない方がいい」
片手で無造作に、助手が抱える観葉植物を示す。
真夏の夜に、背筋にざわりと冷たいものが走った男たちを置いて、二人はそのまま姿を消した。
咲耶が選んだのは、少し離れたところを流れる川だ。
コンクリートで固められた護岸の上、慎重に枯葉などを取り除いた場所に、鉢植えを置く。
さほど高くない植物の葉に、上から触れた。
「……悪ぃな」
小さく呟いてから、意識を集中させる。
すぐに熱気が立ち上ると、数秒でそれは炎に包まれた。
数歩後退する。すぐ傍に、表現しづらい表情で紫月が立っていた。
「……どうした?」
「いや。君は、意外と大きな口を叩くんだな、って」
視線を数秒さまよわせ、最終的に炎へを向けて、返した。
「先刻、依頼人に言ったことか? 大して誇張した訳じゃない。少なくとも、この件には確実に杉野が絡んでたことは判った。なら、もう、そっちから攻めればいいだけだ」
ちりちりと、葉が焦げて、奇妙に苦しむような動きで縮まり、そして灰となっていく。
揺れる炎の影が、二人の姿を闇に焼きつける。
「何が気になってんだ?」
唐突に、咲耶は尋ねた。
「何、って言うか……。ちょっと、しっくりこなくて」
言いづらそうに、魔術師の少年は呟く。
「杉野は、結構気が短い。それでいて執念深くて、もう済んだと思われることでも、いつまでも何かがあると蒸し返すタイプだ」
「あー……。そりゃ傍にいたくねぇな」
養い子にやや同情したように、咲耶は返した。
「その割には、先刻、あっさり引き下がったな、って」
眉を寄せ、考えこむ。
「正直、僕は、あそこでもう一体ぐらいけしかけてくるかと思っていたよ」
杉野孝之という男の、最も昏い側面に精通している少年の言葉は、重い。
「引かざるを得ない何かがあったか……?」
聞こえるかどうかという声で、呟く。
一応、先ほど依頼人と会う前に、あのビルの全ての出入り口に軽く結界を張ってきた。何か、呪術的な代物が持ちこまれそうになったら破壊する、その程度のものではあるが、予防としては充分だ。
そう、思っていた。
しかし、それでも、朝になって社員が出勤してくるまでは大丈夫だろう。
事態がそれを要求すれば、咲耶は数日の徹夜ぐらいは難なくこなすが、今はそれほどの状況ではない。
この鉢植えの処分が終わったら、一旦帰って仮眠ぐらいは取るべきだ。特に、こういったことに慣れていないだろう紫月のためにも。
そう結論づけて、咲耶はじっと炎の様子を見ていた。
「あの小僧が……!」
罵声を上げて、男は机の脚を蹴りつけた。押しつけられていた壁にぶつかり、がん、と強い音と衝撃が返る。
苛立たしげに、傍らに置いてあった電話を取り上げた。登録された番号を押して、受話器を耳に当てる。
数秒後、それはすぐに繋がった。
「そっちの首尾はどうだ」
へりくだり、もごもごとごまかすような声を、苛々と聞く。
「役立たずどもが! いい、私がする。それを置いて、下がれ!」
怒声を浴びせ、受話器からかたん、という小さな音が聞こえるのを待つ。
それは、プリペイドの携帯電話が、床に置かれた音だ。
その数秒の間に、彼は手早くノートを開いていた。幾つかの同心円と、アルファベットに似た記号が散らされた図に片手を乗せる。
そして、彼は低い声を発した。
朗々と、歌うように。
植物も鉢も土も焼き尽くしてしまうと、その灰を川へ流す。
これで、炎と水との浄化が成された。
長く、伸びをする。まだ夜明けは訪れていないが、さほど遠い訳ではないだろう。
紫月も、流石に目を擦っていた。
「待たせたな。帰るか」
白い巨鳥となった式神、〈桂〉を呼び出し、彼らは帰途についた。
だが、自宅に近づくにつれ、周囲が騒がしさを増していく。
守島咲耶が住んでいたマンションは、夜空に激しく炎を上げていた。