第二章 04
寝つけずに、弥栄紫月は幾度目か、寝返りを打った。
今日初めて会った少年の部屋に泊まっている、という状況で、気が休まらない、ということはある。
夜に、もう一つの個室で寝ていい、と、咲耶は告げた。自分はリビングでいいから、と。
勿論反対したが、咲耶は頑として譲らなかった。幸い、夏場でさほど寒くはない、と笑って。
一人になることで、確かに多少緊張は減っただろう。
だが、これは。
溜息をつき、しばらく迷い、そして身を起こす。
そっと扉を開き、リビングへと向かった。
照明が消され、ベランダに通じる窓から漏れる月明かりの中に、咲耶は座っていた。服装は、昼間と変わっていない。革の上着や手袋まで嵌めていることからして、また着替えたのだろうが。
「起きたのか」
「まあね」
むっつりと声をかけられて、紫月はさらりと答えた。
「それで、君は何をしているんだ?」
「見ての通りだ。……座ってる」
彼の目前で、電話の呼び出し音が響いた。それは一度でファクシミリに切り替わり、合成音声が小さく相手に次の行動を促している。
その途端、電話は切れた。そして、数秒も経たずにまたかかってくる。
この状態が、もう十分は続いていた。紫月の睡眠を妨げていたのも、これだ。
「全く、何を考えているんだ」
「君と話したいんじゃないのか?」
溜息混じりに零した愚痴に、あっさりと答えが返ってきた。咲耶は一切表情を変えない。
「それぐらいは判っている。問題は、何を話したいのか、だ。受話器を上げた瞬間に、この部屋いっぱいに妖が溢れ返ったなんて御免だぞ」
紫月が眉を寄せた。
「そんな危険があるのか?」
「もっと酷いことだってありうるさ」
肩を竦め、咲耶は再び鳴り出した電話をうんざりしたように見つめた。
「だからって、相手が諦めるまで、これを放っておくのか? 君に対して悪意があるなら、相手は絶対に諦めないか、もっと効果のある手段に切り替えるだろうね」
数秒間堪えた後に、咲耶は低く呻いた。諦めた表情で、立ち上がる。
「片付けちまわないといけないんだろうな。弥栄。あんたはあっちの部屋に戻っててくれ」
「嫌だ」
即座に返された拒絶に、視線を向ける。
「あのな、弥栄」
「ドアの向こうで何が起きてるのか判らないのに、ただ息を潜めて隠れていろって? とてもじゃないが、そんなことはできないよ」
きっぱりと言い放たれて、咲耶はあからさまに嫌そうな顔になる。が、諦めたか、片手で床を示した。
「まあ、見えるところにいた方がいいかもしれないしな。そこに座れ。俺がいいって言うまで、今度は絶対に動くなよ」
「守島……」
「ここは俺の部屋で、これは俺にかかってきた電話だ。俺のやり方で、対処する。部屋に戻るか、ここに座るか、だ」
最後通牒のように言い渡されて、流石におとなしく頷いた。部屋の片隅に寄せられた座布団の上に、今度もきちんと正座するのを見て、咲耶が苦笑する。
その前に立つと、咲耶は片手を紫月の明るい色の髪の、数センチ上に被せるように延ばした。口の中だけで、一言、二言呟く。
「何をしたんだ?」
「結界を張った」
短く、これ以上説明を拒むように返し、電話へと向き直る。
次に電話が鳴った瞬間に、意を決して受話器を取り上げた。
「もしも……」
『守島さん! やっと繋がった!』
聞き覚えのある声が、安堵の叫びをぶつけてくる。
「竹田さん? 貴方ですか?」
『ずっと電話していたんですよ! どうして出てくださらなかったんですか!』
秘書課長は、上ずった声で非難した。
「うちの電話はファックスだけだ、って、昨日言っておいたじゃないですか。一体何があったんです?」
ともあれ、尋常ではないことは察せられる。苦情は早々に諦めて、咲耶は問いかけた。
『本社が、大変なことになっているんです。すぐに来て貰えますか』
「大変なこと?」
一呼吸置いて、竹田は怯えた声を上げた。
『社内に、化物が徘徊しているんですよ!』
至極冷静に会話をしていた咲耶は、受話器を置いた途端に立て続けに悪態をついた。
「どうしたんだ?」
のんびりと、紫月が尋ねてくる。まだ一つ二つ罵ると、苛立たしげに少年は客に向き直った。
「仕事の電話だ。悪いが、俺は出ないと」
「僕も行こう」
未だ結界の中で正座しつつ、紫月が申し出る。
「弥栄、いい加減に……」
「君の仕事だというなら、杉野が関わっているんだろう? だから僕が行く、と言っているんだ」
「杉野が関わっている、というだけの物証はない。推測だけだ。そもそも、だからって何でお前がついてこなくちゃいけないんだよ」
論理的に窘めるが、しかし紫月は退かない。
「可能性だけでも、充分だ。僕があいつの元を離れて、まさかずっと逃げ隠れして生きていくつもりだったと思っていたのか?」
薄く、笑みを浮かべて、告げる。
「僕が家出したのは、僕の存在をあいつに思い知らせてやるためだ。ちょっとばかり予定は狂ったが、まあ、早くて困ることじゃない。君が駄目だ、と言っても、何とかしてそこへ行ってみせる。僕だって、全くの無力という訳じゃないんだ。結局は同じことになるんだから、今一緒に行った方が手間が省けるだろう?」
咲耶は、何か得体の知れない生物を見るかのような表情で、紫月を見つめていた。
風が髪の毛を吹き乱す。
とはいえ、こんな速度で夜空を飛んだならば、本当はこの程度の風では済むまい。風防の類が全くない、鳥の背に乗っているのならば尚更。
既に時刻は夜半を回っている。電車は動いていないし、タクシーでは遅すぎる、と咲耶は断じた。
結果、二人は再び白い鳥の形を取った式神に乗っていた。
確かに早い。直線で移動できることもあるが、交通機関を使う場合の半分の時間もかかっていないだろう。
そのビルを視界に入れるかどうか、という距離で、咲耶は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「ダース単位じゃねぇかよ……。大盤振る舞いだな」
「判るのか?」
隣から、紫月が尋ねる。
「大体は。俺は、特異体質でな。妖の種類が、臭いで判るんだ」
「臭い?」
「ああ。今、あそこにいるのは、多分西洋系の悪魔だ」
昼間、あのビルの社長室で滅したものも、そうだった。あの時と比べて多少の違和感はあるが、おそらく固体の差に依るものだろう。
「どんな感じなんだ?」
好奇心に駆られた風に、紫月が更に訊いた。何度も訊かれたことなのだろう。咲耶は肩を竦めて告げる。
「それは、酷く説明しづらい。できたとしても、きっとお前の方が理解できないと思うぜ」
〈桂〉を、人気のない路地に着地させる。
竹田は、駐車場で待つ、と言っていた。少年たちは急ぎ足でそこへ向かう。
街灯の下、歩道でうろうろと歩き、周囲を見回していた人影がこちらに気づく。
「守島さん! こちらです」
大きく手を振るその後ろに、のっそりと大柄な人物が現れた。
「これはどうしたことだ、守島くん」
怒りに満ちた声を那賀谷社長からかけられて、咲耶は肩を竦めた。
「どういう状況なのかは俺が訊きたいことですよ」
「……そちらは?」
那賀谷が更に激昂する直前、制服姿の紫月を見咎めて、竹田が尋ねる。
「ああ。俺の、助手みたいなものです」
陰陽師の紹介に、紫月は無言で会釈した。
無理があることは判っている。だが、那賀谷たちがそれに気づくかどうかは、また別の話だ。
十七歳の少年が拝み屋である、という奇妙な事実に、同年代の助手がいるという奇妙な補足は、さほど不審に思われる状況ではない。
思った通り、二人はやや驚いたような表情だが、出鼻を挫かれたのか、疑問を投げかけてはこない。
「社員が、忘れ物を取りに戻ってきて、化物と遭遇したんです。車で待っています。あちらへ」
竹田が滑らかに現在の状況を説明した。
駐車場の奥、一台の車の後部座席にその男はいた。手に缶コーヒーを持っているが、明らかにそれは震えている。
「大丈夫ですか?」
扉越しに声をかけると、ぱっと顔を上げた。
見覚えがある。昼間、秘書課で数分ほど言葉を交わした社員だ。
「来てくれたのか……」
ほっとした顔で、呟く。
意外な信頼感に内心驚くが、紫月の手前、咲耶は平静を装った。
「何があったんですか?」
「家に帰ったところで、携帯を会社に忘れたことに気づいたんだ……です。普段、運転中は電源を切っているし、かなり時間が経つまで、ないことに気がつかなくて」
途中、上司たちが傍にいることに思い至ったのか、言葉遣いを正す。
「手元にないと不安なので、また会社に戻ったんです。十二時過ぎぐらいに、着きました」
「明日でもよかったんじゃないですか?」
不思議そうに、携帯を所持しない少年が尋ねる。
「会社になかったら、どこかで落としたのかもしれないし、色々手続きしないと。チャージもしてありますし、もし誰かに悪用されたら困るじゃないですか」
「携帯電話で、買い物したりできるんだよ」
小声で紫月が説明する。この少年は、まださほど浮世離れしていないらしい。
きょとん、とした顔の咲耶に、硬い笑顔を浮かべて、社員は更に口を開いた。
「会社に着いて、裏口を開けたら、ライオンの頭に人の身体をした化物が立っていて。こう、頭から飲みこんでくるみたいに口を開いてきたから、逃げ出したんです」
大通りまで走り、公衆電話を見つけたのだという。非常時連絡用に、上司である竹田の電話番号を手帳に書いてあったのは幸いだった。
「じゃあ、一時間以上経ってますね。皆さんは、その後に会社に行ってみたんですか?」
「いえ、まずは守島さんに連絡しようと」
竹田と、更に連絡を受けた那賀谷がここに集まったのだ。
「いい判断です。裏口は開きっ放しなんですか?」
「扉は、手を離すと重みで閉まるようになっています。でも、鍵は開いたままでしょうが」
この一時間に、無関係の人間が入りこんでいるという懸念は拭えないが、まだましか。
「判りました。行ってみましょう」




