第二章 03
咲耶は、再びキッチンに立っていた。リビングとの間の引き戸は開いたままだが、紫月からは直接見えない位置だ。
飲み干したアイスコーヒーを足しに来たのだが、少し一人で考えたかったのもある。
ナガタニの本社に悪魔を送りこむために使われた壷。それを古物商に売った、杉野という大学教授。その教授の養い子である弥栄紫月の証言では、杉野は西洋魔術を使い、呪殺さえもやってのけているという。
「……物証は少ねぇな」
腕組みして、呟く。
まあ、仕事を請けて一日目の情報としては、上出来だ。
明日は、やはり件の教団とやらに接触してみるべきか。
刺激を受けて、何か仕掛けてくるかもしれない。
つらつらと考えこんでいると、居間の方で小さく電子音が響いた。
「守島? 電話みたいだけど」
全く動かない咲耶を不審に思ったか、紫月が声をかけてきた。
「ああ、うちのはファックスだけだから、放っておいていいぜ。触るなよ、危ねぇから」
「……ッ!」
上の空でそう返した語尾に、苦痛の叫びが被る。
慌てて、咲耶が身を翻す。
「だから、触るな、って……」
視界に入ってきた少年は、畳の上に膝と肘をつき、まるで突っ伏すような姿勢になっていた。
先ほどと、位置は全く動いていない。
数秒間の沈黙の後、咲耶は口を開く。
「……痺れたのか?」
「触る、な、よ……っ」
僅かに視線を上げ、息も絶え絶え、という風情で返される。
「情けないな。何やってるんだ」
とりあえず場所を空けてやろう、と、卓袱台に手をかける。警戒心に満ちた視線を向けられて、早々にそこを離れた。
「先刻、足を崩していいって言っておいただろ」
「次からはそうさせて貰うよ……」
ゆっくりと身を起こし、痛みに怯みながらも足を延ばして座る。
「自分の足じゃないみたいだな」
不思議そうな声音に、肩を竦めた。
「正座するのは初めてなのか?」
「そうだな。あまり床に座ったことはない」
「現代っ子め」
揶揄した言葉への返事に苦笑して、再び咲耶はキッチンへと戻っていった。
そろそろと脚を曲げ、膝立ちになると、紫月は紙を吐き出し続けているファクシミリへと近づく。
印字された文字列の中に、見慣れた名前を見つける。
杉野孝之。
反射的に延ばした紫月の指先が、紙に触れる直前に眩い光を発した。
「うわ……!」
再度の悲鳴と共に、空気を揺るがすような衝撃と光を認識し、咲耶は舌打ちして居間へと駆け戻った。
紫月の肩を強引に掴み、ファクシミリから引き剥がす。
その一瞬で周囲から光が消え、紫月は目を瞬かせた。
「大丈夫か、弥栄!」
「あ……ああ」
目を見開いて、紫月が小さく呟く。
「しっかりしろよ。見せてみろ」
強引に、ファクシミリへ向けていた手を引いた。
その指先は、少しばかり赤みがかっていた。
だが、それだけだ。
「なんで……」
「大丈夫だって、言っただろう」
やんわりと返して、紫月はその手を引き戻す。
奇妙な考えが浮かび、咲耶の眉が顰められた。
「お前、夕方会った時に足を怪我したっていうの、どうなった」
「もう治った。ちょっと捻っただけだったから。それより、今のは何だったんだ?」
先ほどの現象の方が気になるように、紫月は家主を見上げた。相手は、中腰だった姿勢を正す。
「何、って、そりゃお前が結界に触っちまったからだろ」
「結界?」
きょとん、と繰り返す言葉に、前髪をかき上げる。
「杉野はそんなこともしてなかったのか? 無用心だな」
呆れる傍ら、考えを纏めた。
「つまり、通信機器ってのは厄介なものなんだよ。この場所と、他の遠く離れた場所を、簡単に繋いじまう。電話は勿論だし、テレビやら、インターネットに繋がってるならパソコンもご法度だ。だから、俺は、最低限の手段として、その電話のファックスだけを使って、更にその上で妙なものが入ってこないように、結界で固めてる。先刻のは、お前がそれに触っちまったからだ」
正直、その対処は全く手加減などしていない。肘ぐらいまでは肌が焼け爛れていても不思議はなかった。
なのに、この少年は。
「それで、危ない、か。勝手なことをして、悪かったよ」
当人は存外素直に謝ってくる。
「じゃあ、あの内容はなんだ?」
しかし続けて問い質されて、視線を逸らせた。
確かに、それについては咲耶が迂闊である。
龍野は仕事が速いし、納品はいつもファクシミリで送って貰っている。今日、紫月を泊めるのが予定外だったからと言っても、帰宅してからかなりの時間が経っている。対処は可能だった筈だ。
「あー……。あれは、な」
何とかごまかそうと思っていると、ふいに紫月は身を引いた。
「まあ、いいよ。君の仕事絡みなんだろう」
そのまま、先ほどまで座っていた座布団に戻っていく。
後姿を見送って、咲耶は首を捻った。
結局その後、疲れているだろうから、と、手早く準備をした風呂場に紫月を押しこんだ。
あからさまな言い訳だが、それを察してくれる相手に甘えた格好だ。
まあ、この真夏の炎天下を走り回ったりしていたのだから、妥当な行動でもある。
そして、一人、居間に座り、送られてきたファックスを手に取る。
大き目の活字で印字されたその一行目に書かれた、名前。
『杉野孝之』。
彼の経歴は、簡素だった。
犯罪歴がある訳でもない人間ならば、当然だ。
ごく普通に生まれ育ち、聖藍大学に進学。その後研究室に残り、準教授、教授と昇進している。現在、四十一歳。少々、昇進が早いと言えなくもない。
また、十八年前、まだ学生だった頃に、同級生だった女子学生を彼の両親が養女に迎えていた。
しかし、一年も経たないうちに、彼女は失踪してしまっている。もう一人、彼らの同級生だった男子学生も、同時に。
色恋沙汰のもつれか、と当時は噂になったらしい。
失踪した女学生の名は、杉野愛美。そして、男子学生の名は、弥栄誠一。
咲耶の眉間の皺が、深くなる。
そして、次の一枚。
書かれている名前は、『弥栄紫月』。
本名は推定。誕生日は不明。両親は、おそらく弥栄誠一と杉野愛美であるのだろう、と結論づけられた。
彼が発見されたのは、十四年前。
とある山間の小さな村。その中ですら、一軒ぽつんと離れた家に住む若い一家が、数日姿を見せないことに、村人が気づいた。
その地とは、縁もゆかりもない一家だったが、それでも波風を立てないよう、静かに暮らしていたのだ。
村人が家へ様子を見に行って、それを発見する。
狭い家の中に撒き散らされた、おそらくはかつてひとであったものを。
生存者は、一名。幼い子供が、押入れの中にじっとうずくまっていたのを救助された。
酷く衰弱していたその子供は、一体何があったのか、全く覚えていなかった。
自分の名前や、家族の存在すら。
恐ろしい目にあったのだから無理もない、と、大人たちはそれを追及することを諦めた。
彼らの惨状は、おそらくは野犬にでも襲われたのだ、ということで、事件は収められたのだ。
しかし、問題があった。その子供は、出生届が出されていなかったのだ。
彼のことは、生前そこに住んでいた夫婦の子供として周囲に認識されていた。紫月という名も、村の住人が覚えていたものだ。
遺品や遺体の情報から、そこに住んでいたのは弥栄誠一と杉野愛美だ、という結論が出る。
二人の失踪から、およそ四年。
彼らの親族は、二人がまだ幼い頃に亡くなってしまっていた。紫月には、血の繋がった人間はもう存在しない。
ただ、愛美には、他の家族がいた。
連絡を受けてすぐ、杉野孝之は弥栄紫月を引き取りたい、と申し出た。
旧友と、義理とは言え姉の忘れ形見を放り出したくはないと。
事件が事件だったため、行政は慎重に対処に当たった。
やがて杉野が正式に里親として紫月を引き取り、その後も数年は頻繁に様子をみていたらしい。
だが、やがて特に問題なし、として、彼ら家族のことは解決済みのケースとなっていったのだ。
ふぅ、と小さく溜息をつく。
養子と見なされながら、籍も入っていない、と言っていたのはこのことだろう。
想像していたよりも、凄絶な事情だったのは確かだが。
とん、と卓袱台の上で紙を束ねる。文箱の一つに収めて、立ち上がった。
そろそろ夕食の準備を始めなくてはならない。
あまり時間をかけると、客がのぼせてしまうかもしれないのだし。
苛立ちに、唇を噛む。
携帯電話が鞄に入っていないことに気づいたのは、帰宅して食事も終わらせ、のんびりとしていた時のことだった。そういえば、夕方に会社で充電していた記憶がある。
明日の朝まで放っておこう、という選択肢は、彼の頭にはなかった。気づいたその時にはもう家を出る準備を始めている。
幸い、車通勤だ。電車しか移動手段がなかったら、取りに戻るのは不可能だっただろう。もう、日付が変わりそうな時間なのだ。
不安を押し潰すように、彼はアクセルを踏みこんだ。
車を駐車場に停め、夜の街路を急ぐ。
とっくに正面玄関は閉まっている。裏口に回りこみ、警備会社への通報を解除するためのカードキーを差しこんだ。
扉の鍵を開き、ドアノブを回し、引く。
次の瞬間、内部の暗闇から現れた獅子の顔と鉤爪のついた人の手に、彼は絶叫した。




