第二章 02
「逃げた、だと?」
男は、苛々と言葉を放つ。
その目の前で、跪く、というよりはうずくまるように身を縮めている男が、おどおどとした視線を向けてきた。
「子供一人、連れて来られんのか、お前たちは!」
怒声に、びくり、と身体を震わせる。
忌々しげにその姿を見下ろして、舌打ちした。
「何としても見つけてこい。一刻も早くだ。多少傷がついても構わん。死んでさえいなければ、役に立つ」
悲鳴のような、裏返った声で戻ってくる返事にさっさと背を向けて、男は部屋を出た。
今夜の予定は延期せざるをえないだろう。準備の時間を考えると、もう到底間に合わない。
不可抗力とはいえ、あのような下賎な輩に謝罪しなくてはならないことを思うと、腹の底が煮える。
それは、連鎖的に他者に対する怒りへと伝播する。
結果的に空いてしまった予定を埋めるために何をするか、男はぼんやりと構想を組み立て始めた。
「……意外だな」
部屋に通された紫月の第一声はそれだった。
「そうか?」
キッチンから咲耶が返す。
この少年が住んでいたのは、八階建てのマンションの最上階。2DKの間取りの、廊下と水回りを除く居室の床は、全て畳敷きに改装されていた。
小型の卓袱台の前に出された座布団に、きちんと正座する。
ここまで来る間に、流石に陽は沈んでいた。だが、部屋の中には他の人間の気配はない。
「家の人は?」
流石に、初対面の相手の家に世話になるのだ。紫月の気遣いは、しかしあっさりと無駄になった。
「いねぇよ。俺は一人暮らしだから」
軽く答えると、咲耶はアイスコーヒーを運んでくる。
「一人暮らし?」
「ああ。もう、二年ぐらいかな」
足を崩していいぞ、と告げて、家主は隣に座った。
「大学生、なんだっけ。学校が家から遠かったとか?」
「いや、十七だ。学校には行ってない」
「え?」
思いがけない言葉を聞いた、というように、紫月がきょとんとする。
「中学は卒業したさ。その後に就学の義務はないんだから、別に不思議じゃねぇだろ」
「それは……そうだけど」
腑に落ちなさそうな紫月に、思わず苦笑する。
「俺が、自分で決めたんだ。生きていくのに、これ以上の知識は必要ない。だから、中学を卒業したら、家を出た」
「ご両親は」
「何も言ってないけど、知ってるだろうな。まあ、家出だよ」
「家出……」
ただ言葉を繰り返す紫月に、お前と一緒だな、と言って、咲耶は笑う。
紫月が借りた部屋は、ワンルームだ。しかも、知り合いの大学生の伝手を辿り、何ヶ月もかかってやっと借りられたものだった。
同じ歳の少年が、家出して住んでいる、部屋。
かなり殺風景だ。まず、テレビなどはない。部屋の片隅に電話台があって、今時珍しくなりかかっているファクシミリ付の電話が置かれている。電話台の下の棚には、幾つか、黒い文箱がしまわれていた。
衣類は、多分違う部屋にあるのだろう。他の家具といえば、この卓袱台がある程度だ。
「ま、そこそこ家賃はかかっちまうけどな。拝み屋ってのは、一回の収入が割と高いものなんだよ」
「拝み屋?」
幾度目のことか、問いかける。知らないことを放っておけないのは、紫月の性分だ。
咲耶は、グラスを煽った。それを卓袱台の上に戻し、口を開く。
「ああ。昼間、見ただろう? 俺の式神」
一つ頷く。そう簡単に忘れられるものではない。
「どういうものなんだ? あれは」
その問いには、値踏みするように見返された。
「陰陽道、という言葉を聞いたことはあるか?」
「ないと思う」
その答えに、咲耶は膝の上に頬杖をついた。数秒、考えこむように沈黙する。
「じゃあ、大雑把にだけ話すぞ。陰陽道、っていうのは、陰陽五行を理として世界を成立させる、呪術の一つだ。これは、およそ六世紀頃に大陸から原理が渡ってきて発達し、当時の政治に取り入れられた。平安時代なんて、陰陽師の許しがなければ貴族はくしゃみもできなかったぐらいだ。源氏物語とか、読んだことはないか?」
「授業でやったな。確か」
日本文学には、さほどの興味を持たなかった。それ以上のことを知らない紫月は、興味深く話を聞く。
「式神っていうのは、その陰陽師の使役だ」
「使役……。使い魔みたいなものか?」
「俺はそっちの方がよく判らないが、まあ似たようなものっぽいな」
字面だけで判断して、無責任に頷く。
「つまり、君は、その陰陽師だと?」
「ああ」
頬杖をついた、その手で半ば隠れた唇が、笑みを作る。
「信じられないか?」
「いや」
その返事は、やや早すぎた。ごまかすように、紫月は目の前のグラスに触れる。
「……陰陽師、ではなくても、そういう、……ことをする人間がいることは、知っているから」
「例えば、杉野孝之、とか?」
弾かれるように、顔を上げる。
咲耶の笑みはそのままだ。だが、その視線は鋭く紫月を見据えている。
「君は……、何を企んでいる?」
「人聞きが悪いな」
肩に落ちてきた長い黒髪を後ろに払うと、咲耶は身を起こした。
「俺は、拝み屋だ。陰陽師の技を使って、仕事をしている。今請けている仕事が、どこからか呪いをかけられている、ってものだ。お前の養い親がそれに関係しているかもしれない。心当たりはないか?」
鎌をかけるだけの、問い詰めるだけの理由はある。
大学の図書館で、式神を出現させた時に、紫月があまり動じなかったこと。
そして、その場にいた追手の発した、言葉。
「こんなところで」
あれは、彼らが、式神やそれに類するものを見知っている、ということだ。
紫月個人には、また拒絶されるかもしれない。
その予測はあった。
だが、初対面の時よりは、彼らはやや打ち解けている。そして、咲耶は仕事に対して妥協はしない。
小さな可能性に賭けてのことだったが、予想に反して、紫月は侮蔑に満ちた口調で吐き捨てた。
「あいつが、人を呪っているっていうのか? そんなことはしょっちゅうだ。あいつが今まで一度も呪っていない人間が世界にまだ残っていることが、奇跡に近い」
ぽかん、と口を開けて、相手を見つめる。
「……随分な言い様だな」
「あいつを擁護する言葉なんて、僕は持っていないよ」
更なる言葉に、眉を寄せる。
「何だって、杉野をそこまで嫌ってるんだ?」
仕事のためなら、ここまで尋ねる必要はなかった。
それは、判っている。だが。
「……君には、話す必要のないことだ」
想像通りに、硬い声で拒絶される。
内心溜息をつき、咲耶は思考を切り替えた。
「じゃあ、話せることなら、訊いてもいいか?」
すぐさま切り口を変えた咲耶の言葉に、ぎこちなく紫月は口を開く。
「それも、君の下心のうちか?」
「そうだな。これは、アイスコーヒーの分だ」
茶化すような返事に、少年は視線を落とす。
「まだ、飲んでないけど」
「ええと、じゃあ、確認するぞ。杉野は、呪術を使って他人を呪っているんだな?」
「ああ。色々と理由をつけた儀式なら、三日と置かずにやっている」
改めて咲耶が尋ねるのに、生真面目な顔で紫月が頷く。彼の前に置かれたグラスの中身は、半分ほど水位が減っていた。
「杉野の使っている術は、どんな呪法だ?」
「呪法?」
難解な言葉を使っているつもりはないのだが。咲耶は、僅かな苛立ちを押し殺す。これは、紫月のせいではない。
「あー。例えば、俺が使うのは、先刻も言ったが、陰陽道の術だ。他にも、仏教やら神道やらで、色んな流派があったりする。そういう分類で、杉野は何を使っている?」
かなり大雑把な説明になったが、素人相手に話すにはこれが限界だ。
幸い、紫月は少し誘導すればすぐに何を訊きたいのか察してくれた。
「だったら、多分、西洋魔術だな。流派まではちょっと判らない。杉野は色々と文献を当たって、殆ど独学で始めた、って前に言っていた」
まあ、西洋魔術の流派については、咲耶もよく知らないし、知るつもりもない。彼が取るべき対応も、さほど変わる訳でもなかった。
「じゃあ、杉野の呪術は、本当に効いていたのか?」
次の質問には、紫月は眉を寄せた。
「それは、ちょっとよく判らない。僕は、効果を知る立場にはなかったから。ただ、依頼してきた人たちが礼を言ってきたり、杉野に心酔したりしていたから、それなりに成功率は高かったんじゃないかな。それに、あれは即座に成否が判るものでもないだろう」
「どういう意味だ?」
「依頼してきた相手の意向だよ。ゆっくりと効果が出るように、って。杉野はどちらかと言えばせっかちで、すぐに結果を知りたがるタイプだけど、でも、健康な人間はそうそう突然死なないものだろうからね」
陰陽師の少年の顔が、嫌悪に歪む。
「……呪殺をしていたのか……」
「結局のところ、呪術を使ってでも成し遂げたいことなんて、殺人ぐらいのものだよ。他の、大抵のことはそんなものに頼らなくても何とかなる。……ああ、大学に合格したいとか望んだ奴もいたな」
淡々と告げる紫月をまじまじと見る。
「どうかしたのか?」
「いや」
溜息をついて、乗り出しかけていた上体を戻した。紫月のことは、とりあえず彼の仕事には関係ない。
今のところは。
「そうだな……。後は、その呪術を一体どこで行っていたか、だな」
ごまかすような気持ちで、そう尋ねた。
実際は、地球の裏側から放たれたとしても、呪術は正常に働く。この力に、距離などは関係ない。
「場所は、礼拝堂の地下だ」
「礼拝堂?」
律儀に答えてきた紫月に、首を傾げる。西洋魔術やキリスト教に漠然としたイメージしか持たない彼ではあるが、それでもそこが似つかわしくない場所だ、ということぐらいは察せられた。
「教団の敷地内にある、礼拝堂だ。その地下に、杉野は儀式用の部屋を持ってる。後は奴と僕の部屋と、それに書庫を幾つか」
「教団、て、まさか、『聖エイストロム教団』か?」
だん、と片手を卓袱台に衝き、ずい、と顔を近づけて問い質す咲耶に、気圧されながら、紫月は頷いた。
「結局、繋がってたって訳か……」
「言っておくけど」
呟いたところに声をかけられる。学生服姿の少年は、生真面目な顔で家主を見据えていた。
「教主様や、大抵の信者の方は、みんな、真面目な教徒だ。杉野のやっていることとは、関係がない」
「関係ない?」
少なくとも、この件に杉野が関わっているのならば、動機は教団の土地問題だろう。関係がない訳がない。
だが、紫月は続ける。
「杉野は、あの教団を隠れ蓑にしているんだ。教主様は善良な方だから、あいつの欺瞞に気がつかない。あいつは、あそこに隠れて、自分の穢れた欲望を達成しようとしている」
膝の上に置かれた拳が、きつく握られている。
「噂は聞いてる。教主っていうのは、評判のいい、温厚で誠実な人柄だってな」
話の方向性を変えようと、咲耶が応えた。
一瞬、紫月の唇に、今まで見なかった穏やかな笑みが浮かぶ。
「……この十四年間、僕を人間として扱ってくれたのは、あの方たちだけだよ」