無幕
夜の中には、どれほど排除しても闇は紛れこむ。
星さえも見えない街の光の中、それでも彼の視界には幾つもの暗がりがわだかまっている。
「もう少し東だ。小さな祠があるだろう」
独り、小さな声で呟く。
両手は自然な形で下ろされている。携帯電話を使っている風ではない。無線機器が耳に挿しこまれてもいない。
彼の、指なしの手袋が嵌められた掌に握られているのは、一枚の細い紙。
「文句を言うなよ。最初に決めたことじゃねぇか」
街路に人の気配はない。
ただ、彼は一人呟く。酷く表情豊かに。
眉を寄せ、口を歪め、そして不敵に笑んで。
「お前の力を、これでも俺は買ってるんだぜ?」
その後、言葉を継がなかったところを見ると、どうやら相手は沈黙したらしい。
やれやれ、と言いたげに、周囲を見やる。
白い、コンクリートで覆われた地面。路肩に敷かれたグレーチングに反射する鈍い光。
吹き溜まった木の葉が、惨めに茶色く枯れている。
やがて、何が契機になったか、少年は再び口を開いた。
「……よし。そこで待機だ。今から追いこむぞ」
にやり、と唇が笑みを刻む。
風が、その長い髪を吹き散らした。一つに結った、白い組紐が夜空に鮮烈に舞う。
スニーカーを履いた踵が、とん、と、足場を小突く。
無機質な白い光を放つ、街灯の頂きを。
ありえない場所に立つ少年は、紙を持っていない方の手を、まっすぐ前に突き出した。
「疾れ。榊」
彼の遥か下方、白い光に照らされた白い大地に、小さな竜巻のような風が吹いた。
周囲の闇のように黒い、風が。
それはまるで、水を切って進むかのように、地面から吹き上げられながら、一直線に街路を進んでいく。
一分も待たぬうちに、前方から、どぉん、と鈍い音が響いてきた。
「追い立てた。頼むぜ、相棒」
楽しげに、実に楽しげに歌うような口調で告げる。
それが、言い慣れた言葉であるかのように。
ばきばきと、灌木が圧し折れる音が響く。
むき出しの足に刺さることなど考えもしないように緑地帯に突進するのは、人間ではない。全長が四メートル以上はある、大猿だ。両手を軽く地面について、きょろきょろと周囲を見回している。
この街中に猿がいることは確かに不思議だが、更にそれは全身に黄緑色の毛が生えていた。
その時点で、不思議、という事態を超えている。
緑地帯は広場のように開けた場所にある。ビルの壁などをよじ登って逃げられる場所ではない。
そして、その隅には、小さな祠が作られていた。
「……誤差、約四メートル。何やってるんだ」
舌打ちをして、彼は右手に握った物体に、左手を添えた。
一見、薄めの巻尺のようだ。円形のカバーは真鍮で作られていて、側面からちょこんと飛び出した紐の端部は銀色の凝った作りをしているが。
それを掴み、ゆっくりと引き出す。カチ、カチ、カチ、と音を刻みながら伸びる紐には目盛りなどはついておらず、真紅の細いリボンのようだった。
「五……、三……、二番。爆破」
小さく呟いた瞬間に、大猿の周囲で立て続けに三回、ぼん、と空気が破裂した。
煙と熱風が、大猿の周囲を巡る。
ばちばちと音を立てて、それに添うように広がった白い光が、網のように化物の周囲を包みこんだ。
大猿の絶叫が、夜空に響く。
尤も、それを聞く人間はこの地に二人しかいないが。
ふぅ、と息をついて、奇妙な器具を手にしていた少年は片手を上着のポケットに突っこんだ。中から、細長い紙を一枚、取り出す。
それを唇近くに寄せて、囁く。
「捕らえた。早く頼む。相棒」