ケーキよりも甘いキス~初恋ショコラ~
ここは都市部にある、某コンビニ。近くにオフィス街があり、出勤時、昼食時、退勤時はなかなかに混みあう。特に今は期間限定スウィーツをこのコンビニグループで大々的に売り出しているため、これまでに比べて一層客足が途絶えないようだ。
今も若いOLたちが昼休みに店を訪れ、宣伝用に貼られたポスターをうっとりと眺めつつ、限定スウィーツを手に取っている。プラスチックケースに金のリボンがかけられた、とてもお洒落で上品なパッケージだ。カロリーオフのチョコレートケーキと言うことで、女性層を中心に売り上げを伸ばしているようである。
そんな女性達が賑わう店内に、一人の若い男性が入ってきた。スラリと背が高く、艶やかな黒髪と端正な顔立ちは、まさに和風美青年と呼ぶに相応しいだろう。
印象が重くなりがちな黒のスーツを見事に着こなし、ただ歩くだけでも周りの女性達がため息をつき、頬を赤らめ、瞳を潤ませている。
しかしその男性はそんな女性達の視線には目もくれず、店内を軽く見渡した。そして目当ての物を発見したのか、長い脚を優雅に動かして歩を進める。
彼が目指したのは、若い女性達がこぞって手を伸ばしているスウィーツコーナーだった。
宣伝用に貼られているポスターへと、彼は切れ長の目を向ける。テレビや雑誌で見ない日はないといわれている国民的アイドルグループが、キラキラと眩しいほどに輝く笑顔で写っていた。彼らの手には限定スウィーツであるチョコレートケーキがあり、そしてキャッチコピーとして『ケーキと僕のキス、どっちが好き?』と、大きく書かれている。
「そんなもの、私とのキスに決まってます」
「そんなもの、俺とのキスに決まってるだろうが」
ふと呟いたセリフに、丸被りしてきたもう1つの声。聞き覚えがあるその低く響く美声に、若い青年が横を見る。
そこには同じ会社で働く人物がいた。同じ会社と言っても、自分は社長第一秘書で、彼は海外事業部の部長補佐。そう接点のないように思えるが、自分の従兄弟が彼の秘書を勤めていたこともあるので、他の重役達よりは見知っている。現在その従兄弟は、体調の思わしくない妻のために育児休暇中だった。
「どなたかと思えば、野口部長補佐でしたか。こんなところでお会いするとは、珍しいですね」
青年がにこやかに微笑むと、男らしいながらも艶っぽい笑みが返ってくる。野口という男も、竹若に劣ることなく美形だった。いや、タイプの異なる美形なので甲乙つけられず、どちらが上だとは言えない。いうなれば、どちらも極上だった。
野口も竹若ほどではないが、そう変わらないほど背が高い。また厭味なく似合っている高級スーツの上からでも分かる適度に筋肉の付いた体のラインは、彼の男っぷりを否が応でも上げている。
和風美青年と美形紳士。この美の競演を、女性客達は遠巻きに熱く見つめていた。
熱心な視線が向けられていることに全く気が付いていない二人は、その場で話始める。
「そういう竹若君も、十分珍しいぞ。なんだ?社長のお使いか?」
「いえ、私は……」
と言いながら、竹若と呼ばれた青年は棚に残っている残り一つのチョコケーキへと手を伸ばす。
が、同時に横からも手が伸びてきた。
その手の主は、竹若の隣にいる野口だ。
「何か?」
穏やかな笑みを崩すことなく、竹若がわずかに首を傾げた。そんな彼に、野口は苦笑する。
「“何か?”じゃない。そのチョコケーキを買いに、俺はわざわざ来たんだ」
「奇遇ですね。私もこのケーキを買いに、こちらへ来たのですよ」
お互いが手にしたチョコケーキを譲らなかった。絶妙に均衡する力加減なのか、ケーキは竹若の方にも、野口の方にも動かない。
だが、彼らは力を入れていないわけではないのだ。その証拠にケーキのパッケージを掴む彼らの指先は、力を入れるあまりに白くなっていて、腕が微妙に震えていた。
無言で行われる力の応酬。彼らを取り巻く空気が冷たくもあり、熱くもある。お互いがまったく目を逸らすことなく、だが指先には限りなく意識を集中させていた。
静かな時間が流れる。とはいえ、彼らの間にある空気は、一切静かなものではなかったが。
一向に進展しない事態に、野口が先に口を開く。
「こういう時は、年上に譲るのが筋ってものだと思うが?」
それを受けて、竹若も口を開いた。
「年上であれば、目下の者に譲るというのも度量の見せどころかと」
野口の目が緩やかに弧を描けば、竹若の目も涼やかに細められる。
「ははっ。竹若君も、なかなか言うなぁ」
「ふふっ、それほどでも」
はたから見れば、笑顔で交わされる和やかな会話風景だ。しかし、二人の目はけして笑っていない。それどころか、ケーキを掴む手にはますます力が入り、パッケージの蓋の部分が少々凹み出した。
「済まないが、これを君に譲るわけにはいかないんだよ。俺の恋人が、楽しみに待っているんでね」
「それはこちらも同じです。私の恋人も、このケーキを朝から楽しみにしているんです」
「そうか」
「ええ」
「……」
「……」
「ははっ」
「ふふっ」
「…………」
「…………」
「はははっ」
「ふふふっ」
笑顔を浮かべつつ、掴んだケーキを引き寄せようと、二人の腕がブルブルと大きく震えだす。
どちらの側にも動かないケーキ。そして、なお凹む蓋。容器の側面には、うっすらとヒビまで入り始める。
「いい加減、放さないか!」
「そちらこそ!」
自分が溺愛する恋人の笑顔が見たい男達のバトルは、簡単には終わりそうになかった。
≪オマケ≫
竹若も野口もまったく譲らず、遠巻きに見ていた女性達が若干引き始めた頃。
「すいません、失礼いたします」
と言って、店員が納品されたばかりの品物をショーケースに並べてゆく。その中には彼らが残り一つを争っているチョコレートケーキがあり、店員の手によってたくさんのケーキが次々と並べられていったのだった。
【SIDE:苺】
コンビニから戻った野口は、駆け込む勢いで海外事業部のドアを開ける。室内には一人の女性の姿しかなかった。他の社員達は昼食を食べに行ったり、会議に参加していたり、外出をしていたりということで、パソコンと書類を交互に睨みつけている女性しか残っていなかったのだ。
そんな女性に、野口は近付く。
「理沙、少しは休憩しろ。あまり根をつめると、能率が落ちるぞ」
ポンッと肩を叩かれた女性は、弾かれたようにビクリと肩を跳ねさせて顔を上げた。
「えっ?あ、補佐。お帰りなさいませ」
数度瞬きをし、“理沙”と呼ばれた女性がフワリと頬を緩ませた。彼女は海外事業部部長補佐である野口付きの秘書であり、そして、彼の愛して止まない恋人でもあった。
仕事熱心な彼女は大した休憩も取らずに、朝一番から自分が担当する韓国エリアよりひっきりなしに送られてくるメールの処理に追われていた。それを労おうと、野口は理沙が食べてみたいと常々口にしている限定スウィーツを買いに出掛けていったのだった。
勤務中は上司と部下という姿勢を崩そうとしない頑なな理沙であるが、ふとした瞬間に表情が私的なものに変わる。そんな彼女の様子に、野口も表情を和らげた。
「これでも食べて、一息入れろ」
「何ですか?」
差し出された小さなビニル袋を広げ、理沙は中を覗き込む。そして、更に頬を緩ませた。
「“初恋ショコラ”ですね」
嬉しそうに呟く理沙。
「良く買えましたね。家の近所のコンビニだといつも売り切れで、食べるのは半分諦めていたんです。わぁ、嬉しいな」
誰が見ても“仕事が出来る大人の女性”という雰囲気を持った彼女が、少女のように軽やかに笑った。そのギャップに堪らない魅力を感じている野口は、殊更口角を上げる。
「会社の近くにあるコンビニは、かなり多めに仕入れていると言う話を聞いてな。ほら、この辺りはオフィス街だから、OLが多いだろ?その客層を狙ってのことらしい」
「そうだったんですか。帰る方向とは逆だから、そのコンビニには行ったことがなくて。野口部長補佐、わざわざ買ってきてくださって、ありがとうございます」
ペコリと頭を下げる理沙に、野口は彼女が座る椅子の背に手を掛け、正面から向き合うようにクルリと自分の方に向けた。
「今は誰もいないんだから、そんな野暮ったい役職で呼ぶな」
「で、ですが、勤務中ですので」
突然のお願いに、理沙が狼狽を見せる。そんな彼女を可愛いと思う野口は、クスッと苦笑を零す。
「昼休みの時間だろ。だから、“補佐”も昼休みだ」
「い、いえ、その、ここは職場ですし」
「誰も見ていないし、誰も聞いてない。だから問題ないだろ?」
「そ、それは……」
なおも言いよどむ理沙。
彼女の正面に立つ野口は、両手を延ばして椅子の背を掴んだ。結果、理沙は彼の腕に囲まれた形となる。
「あ、あのっ、野口補佐!」
伸ばされた左右の腕をチラチラと見遣って、理沙は困惑の表情を浮かべた。
「ん?誰だ、それは」
慌てる彼女にクスリと笑いかけ、なだらかな理沙の額にチュッとキスをした。
「補佐、やめてください!」
「俺の名前は“補佐”じゃない。だから、やめない」
クスクスと意地悪く笑い、再び彼女の額に唇を寄せる。そして瞼、頬と次々にキスを降らし続け、魅惑的な口元へと己の唇を少しずつ近付けてゆく。
「俺の名前を呼んでくれない唇は塞いでしまうぞ?」
耳に心地よい低い声が楽しげに囁き、その吐息が理沙の唇にかかった。顔を真っ赤にし、羞恥で涙目になっている理沙はオロオロと視線を彷徨わせ、そして観念したのか、小さな声で呼んだ。
「……忠臣さん」
しかし、野口は彼女の小さな声を攫うかのように素早く唇にキスをする。一瞬で更に顔が赤くなる理沙。
「な、な、何するんですか!?」
パッチリとした目でキッと睨みつけ、攻める響きを含む理沙の声。だが、その程度の態度は逆に野口を煽ることにしかならない。
「そんなに顔を赤くして、目を潤ませる恋人を前にして、大人しくしていられる男なんかいない」
そう言って、また彼女の唇を素早く塞ぐ。今度はより強く、より深く。理沙が拳で彼の胸を何度も叩くが、離れるどころか逆にしっかりと抱きしめられてしまう。
首を振りたくても、大きな手が理沙の後頭部をしっかりと覆っている。身を捩りたくても、逞しい腕が背中にしっかりと回されている。理沙は空手二段ではあるが、野口の力にはまったく敵わない。
自分の意思とは関係なく、唇を奪われ続けた理沙であった。
その柔らかくて甘い唇を十分に堪能した野口は、静かに顔を離して理沙の瞳を覗き込む。
「なぁ。ケーキより、俺とのキスの方がいいだろ?」
目元を細めて艶っぽく囁く野口に、理沙の顔はこれ以上ないほど赤く染まったのだった。
【SIDE:タンポポ】
竹若は購入したばかりのチョコレートケーキが入った袋を極力揺らさないように気をつけながら、足早に来た道を戻っていた。
勤める会社の傍にはゆったりとした公園があり、木陰にはベンチが数多く置かれている。そのうちの一つに、竹若は目を向ける。
そこに座っているのは、茶色の髪がやわらかく揺れる、小柄な女性だった。小さな手で型の古い、だが、とても丁寧に手入れされているカメラを持ち、楽しげな表情でファインダーを覗いている。
そんな彼女を微笑ましく思いながら、竹若は更に足を速めて近付いていった。
「ユウカ、お待たせしました」
呼びかけたとたんにパッとこちらを振り返った女性に、手にしている袋を軽く持ち上げて見せてやった。
「うわぁ、良く買えましたね。売り切れだろうって、諦めてたんですよ」
受け取ったユウカは、満面の笑みを浮かべている。
「ふふっ。運よく、納品のタイミングと合いましてね。おかげで無事に買えました」
「そうでしたか。和馬さんって運がいいんですね」
ニコニコと見上げてくる可愛い彼女に、竹若の表情も自然と嬉しそうなものに変わっていく。
「運ではなく、ユウカへの愛の力だと思いますよ」
冗談ではなく本心からそう告げれば、愛して止まない彼女の顔がドカンと赤くなる。
「そ、そ、そういうこと、言わないでください」
「そういうこと?ああ、“ユウカへの愛の力”ということですか?」
「だから!言わないでください!!」
更に顔を赤くして、ワァワァと騒ぎたてるユウカ。日本でも指折りの大企業本社に勤め、二十歳を過ぎているのに、彼女の行動はとても子どもっぽい。だが、そんなところも竹若を惹きつける彼女の魅力なので、彼としては笑顔で見遣るだけだ。
「そんなに大きな声を出したら、喉を痛めますよ。今日は特に空気が乾燥していますからね」
「……出させているのは、誰のせいですか」
恨みがましい口調で、ボソリと呟くユウカ。すると竹若は腕を伸ばし、彼女の頬を包むように手の平で覆う。
「でしたら、責任を持ってその可愛らしい唇を塞いで差し上げますよ。……私の唇で」
ニッコリと微笑む竹若にユウカは声も出せず、目を白黒させながらパクパクと口を動かしたのだった。
ちょっとした恋人ならではのコミュニケーション(?)の後、ユウカが手作りした弁当を二人で食べる。そして、いよいよ、ユウカが心待ちにしていたデザートタイムだ。
ワクワクと期待に満ちた顔で、パッケージの蓋を開け、添えられていたプラスチック製フォークで、しっとりとしたチョコレートケーキを掬って口に運ぶ。
「美味しい!」
パッと顔を明るくして、ユウカは一口、また一口と食べ進める。そんな彼女の口元を眺めながら、竹若は先ほど取り去られたパッケージの蓋に目を向けた。そこに書かれている文字を見て、フッと目を細める。
「ユウカ」
「はい?」
モグモグと口を動かしながら、ユウカは竹若に顔を向けた。その瞬間、ガバッと肩を抱き寄せられ、あっという暇もなく、竹若にキスをされた。
「んんっ!?」
ギョッと見開いた目には、うっとりと閉じられた彼氏の切れ長の瞳。しかし、ユウカとしてはうっとりしている場合ではない。
「むっ!うう!」
右手にフォーク、左手にケーキを持っているため、抵抗らしい抵抗も出来ない。必死に首を振って、キスから逃れようとしている。白昼堂々、人が行き交う公園でキスをするなんて、恋愛初心者のユウカにはハードルが高すぎるのだ。
だが、そんな可愛らしい抵抗をされても、愛する彼女の唇をやすやすと手放すはずもない竹若。彼女の肩に置いた手に一層力を篭めて彼女の動きを封じ、じっくりと唇を合わせ、そして時折、舌先でチロチロとユウカの唇を舐める。
竹若にとっては至福の一時、ユウカにとっては地獄の一時が、緩やかに流れていった。
ようやくキスから解放されたユウカは、ベンチのギリギリ端までズザザッと座面を下がった。
「何するんですかぁ!!」
怒りと羞恥で顔を赤らめているユウカの怒鳴り声にも動じず、竹若はクスリと小さく笑う。
「蓋に書かれた“カロリーオフ”という文字が目に入りまして」
「は?」
「ならば、それほど甘くないでしょうから、私でも食べられるかと思いまして」
「へ?」
「なので、味見をさせていただきました」
ニッコリと綺麗な顔で綺麗に微笑む竹若。しかし、羞恥地獄の真っ只中にいるユウカには、見惚れる余裕などない。
「だからって、こんな風に食べなくたっていいじゃないですか!!食べたいと言ってくれたら、分けてあげますよ!!」
「こんな風に食べたっていいじゃないですか。私たちはれっきとした恋人同士ですし、何の問題があるのでしょうか?」
「問題だらけじゃーーーーー!」
昼下がりの公園に、ユウカの絶叫が響き渡った。
蓋の凹んだ初恋ショコラは、お店のご厚意により無料で引き下げられました(苦笑)