第2話 天王
そこは広く公開され、同時に秘された場所だった。
火迦神領思鉄島の都の中心部。堅牢さよりも華やかさをもって身を
鎧った新城郭の最も高き所。都に住まう誰もが遠望できる光輝の頂。
統治の象徴たるそこ。明け暮れとなく在り続けるそこ。
天王の塔、とは誰が言い出したことか。
この天空の秩序は天帝という神の如き存在によって成立しているので
あり、全ての人間はその庇護の下に生活を営んでいる。知らぬ者など
いない。しかしそれは遠く見えないものだ。お上の出来事だ。
だが、あれは見える。あの尖塔は誰の目にも隠されていない。目に見
える形でそこに在り、そこにおわす御方こそが生活の豊かさをもたら
してくれるのだ。道々に笑い声が起こり、食卓に並ぶ皿は増え、労働
と休息の充実を生きられるのだ。
自分たちの筆頭たる人がいるのだ。王が。天空の王が住まうのだ。
天王。そんな思いで産まれ、人口に膾炙していった造語である。
多くの思いが視線となって集まる塔の内側には、はたして、火迦神の主
がくつろいでいた。その武威と覇気もさることながら、火色の髪と金銀
の瞳に彩られた美貌だけで既に傾城傾国であるところの、その人。
火迦神ベルマリア。
塔の最上階にある私室で、彼女は今、一着の服を相手どって七転八倒の
騒ぎを起こしていた。肌着のみというあられもない姿で、寝台の上にゴ
ロゴロと1人で転がりまわっているのである。涎すら垂らして。
「テッペイはさあああ、テッペイはさあああ、もおおおおっ!」
両手で掴み、顔をうずめるようにしているのは奇妙な衣服だ。青く麻の
ように見えるが、その質感は滑らかだ。荒々しいようで繊細。不思議な
見た目はいっそ古風ですらある。
いや、本当に古い謂れのある品なのかもしれない。魔法の才豊かな者に
は感じられるだろう。その衣服から発せられるただならぬ魔力を。
デニムシャツ、という名を知る者はこの世界にいまい。
「いっつもいっつも……いつもいつもいつも! 本当にもおおおっ!」
暴れるベルマリア。それは幼子がダダをこねる様に酷似している。この
天空に7つの浮島を領有し、もはや1家としては最強の軍事力と経済力
とを誇っている覇王が……何という乱心か。
ひとしきり暴れて息が上がったようだ。青い服に噛みついているかのよ
うなうつ伏せで、ふうふうと鼻息も荒い。頬も紅潮している。
大きく深呼吸。
上体を起こしてペタリと座り、今度は静かに服を抱き締めた。小さく
か弱いその有り様。スンスンと小さな呼吸の音。それは嗚咽だろうか。
服にうずめた顔は見えない。
「やっぱ、いい匂いするよなぁ」
満足げな笑顔だった。
静まった部屋の様子を見計らったものか、唯一の扉が控え目にコンコン
と鳴った。それに対する返事は実にいい加減なものだ。「あー」である。
「お楽しみのところ失礼いたします」
入室してきたのは颯爽とした女騎士だ。煎茶色の短髪に翡翠色の双眸。
2色の才持つ腹心中の腹心、キッカだ。この極めて私的な尖塔へ登る
ことを許された3人の内の1人である。もう1人については、扉の外
で待機している猫耳のメイドがそれだ。アルメルである。
最後の1人はここを訪れたことはない。それどころか尖塔を見上げたこ
とすらないだろう。存在すら……城が完成した事実すら知らないかもし
れない。その彼をこそ招きたいと願われているのだが。
「ん、ひと段落ついたとこだ。気にすんな」
胡坐である。肌着のみという姿でそんな格好をし、子供のような口ぶり
で話す。それは世間一般に鮮烈な輝きをもって示されている姿とあまり
に乖離している。或いは影武者の類であろうか。
「先に保護した不明船ですが、やはり彼の息がかかった船のようです」
「証言がとれたのか?」
「いいえ。船員の誰1人として口を割りません。ああ、勿論、拷問の類は
しておりませんとも。許可があれば実施しますが……ああいった手合い
には暴力は通用しないでしょうね。自死されるのがオチでしょう」
ほう、と呟いたその顔。火の窯の鉄扉が僅かに開いたような……そんな
僅かにして強力なる覇気。口の端を上げる笑みは迫力を伴う美しさだ。
「船内をくまなく検査し、これを発見したのです」
そう言って、持参した包みを開いた。飾り箱だ。宝石箱にしては大きく、
宝箱にしては小さすぎる。意匠は見事なもので、銀が螺旋を描くように
優美に側面を巡っている。
「“魔石封じ”か」
「はい。これほどの物となると出所は限られます。今確認をとらせていま
すが……恐らくは」
「ああ、こりゃレギーナの奴がテッペイに渡したモンだろうな」
笑顔で箱を手に取るベルマリアを見守るキッカは、少しひきつり顔だ。
若干腰が引けている。今にも箱を奪い取らんとする構えにも見える。
蓋をさする様子に、ビクリビクリと両手が動いている。
「べ、ベルマリア様……!」
「わかってるって。開けないって。俺だってゴキブリは嫌いだって」
安堵した脱力をみせるキッカ。箱は脇机の上に置かれた。
「……そこにしまわれているのですね、恐るべき魔石が」
「多分な。お父様の話では、見た目は黒く小さな物だそうだが……谷を
埋めるほどの魔蟲すら呼び寄せる魔石……悪魔石の欠片がな」
とんでもない話だぜ、と結論付けて、美しい肢体が着衣をはじめた。
肌色が隠されていく度に発現していく威風がある。見た目だけの話
ではない。それはある種の儀式なのだ。表情が、姿勢が、在り様が
変容していく。成っていく。天王と呼ばれる者へ。覇王へ。
天空で最も新しく、最も強い貴族であるところの……火迦神家の長。
類稀な3色の天才であり、苛烈な軍才をもって覇を唱える美貌の人。
火迦神ベルマリアが世に知られる姿で、今まさに立ち現れたのだ。
「船員たちは居心地の良いように軟禁しておけ。朝廷の探索への警戒は
代わらず厳戒に。まぁ、それどころじゃないだろうけどな」
「天敵、ですか……」
嬉しそうにその単語を舌に乗せたキッカである。
「この上ないその称号を、まさか、ひょろひょろだった彼がなぁ……!」
「この上ない援護射撃だ。3年前も、今回も……あいつは俺の羽ばたき
やすい空にしてくれるよ。やりたい放題だぜ」
「ふふふ……天敵は一時に1存在のみですからね」
軽快に出ていく主従である。その向かう先は作戦会議室であり、そこで
話し合われるのは覇道の道筋における瑣末事に過ぎない。7つの浮島を
領有する最大勢力であるも、それはベルマリアの宿願にとっては途上の
ことでしかないからだ。彼女の視線は変わらず遠い時空間を見ている。
「幾つ獲りますか?」
「7つ獲る。闇右京領から遠いところを優先して、一気にいくぞ。数十年
ぶりの天敵認定と、その対象の奇異さに、どこもかしこも浮き足だって
やがる。朝廷も大混乱だ。こんな機会はまたとない」
その口ぶりとは異なり、ベルマリアの表情に喜色はない。眼差しには切
実な真剣さが宿り、微かな嫌悪感が眉根に皺を寄せている。
「派手にやるんだ」
小さく、しかし決意を込めた呟き。
「わかった風な顔で胡坐をかいてる連中に、天空にこの俺が在ることを
思い知らせるんだ。嵐のように侵略し、従うか滅びるかどちらかしか
ないのだということを、刃の上で示してやるんだ」
膨れ上がり、周囲を燃やし尽くさんとする覇気。これが彼女の本質か。
先に寝台の上で転がっていた人物なのか。
「わからせる必要はない。むしろ混乱させろ。怯えさせろ。自信を打ち
砕いて不安の虜にしてやるんだ。ここからの侵攻は統治など二の次だ」
心得ております、と答えたキッカの声に震えがある。腹心をして怯え
させるほどの迫力があるのだ。
狭い螺旋階段を降りていく2人。終わりの扉が見える段になって、従う
キッカが1つの疑問を口にした。
「彼については、いかがしましょう?」
先を行くベルマリアがピタリと足を止めた。振り返らず、返答もない。
それは言葉の先を促しているのか、それとも怒りなのか。
「特務の高速船を3隻、境海に潜伏させておりますが……初期の指示の
ままに、かなりの距離を置いています。現状では位置より他に情報を
得ることはできません。内部というか……背部の様子を知るためにも
高度をとらせてみてはいかがでしょうか?」
静止と沈黙。それは果断の人であるベルマリアをして珍しい様子だ。
偵察部隊の航空船を雲から出すか否か……たったそれだけのことを
即決できないでいる。
「……現状のままでいい。隠密性を最優先しろ」
ようやくの応答にすら迷いの音韻が感じられる。キッカもそれを察した
のか返事を返さない。静けさがその先を促している。
「3年……いや、5年待ってもいい。俺はあいつを信じる」
ベルマリアは語り出した。ちらと見せた横顔には隠せない弱さがある。
「3年前、あいつは悪魔石を喰った。その後の凄まじさはお前も見たろ?
変化に変化を重ねていく恐るべき在り様……一時も同じ姿に留まらない
混沌。一度なんて境海を越えて天空へ昇ってきそうな素振りだった」
声音に恐れがある。それは生物としての当然だ。全ての生物は自分より
強い者と、予測できない危険な者とに恐怖と警戒心を持つようにできて
いる。そうでないと生き残れないからだ。
「お父様から伝え聞いた言葉……テッペイの言葉が真実だ。倒したんだ。
あいつは3年もかけてあんな化物を……悪魔石を倒したんだ。俺たち
が見たのはその途中経過に過ぎない。想像を絶する戦いを超えて……
テッペイは人間としての自分に戻ってきたんだ」
言葉が熱を帯びてきた。瞳には光が戻り、拳は握られている。
「あいつは……戦士だ」
はい、と即答でもってキッカが同意した。
「誰かのために、何かのために、己の命を燃やして戦う者だ。傷ついても
苦しんでも、必ず最後は勝利する。なぜなら全てを費やすからだ。己の
取り分なんてない。残さない。全部使う。誰かのために、何かのために」
熱く重ねていく言葉にどんな感情を読み取ればよいのだろうか。興奮か、
怒りか、苛立ちか、悲しみか……思いの込められた言葉たち。
「あいつの戦いは終わってない。だから3年をかけても帰ってきたんだ。
今回だってそうだろ? まだなんだ。悪霊兵団を滅ぼし、天帝を敗退
させたとて……それがあいつの結末のわけがない。足りない。あいつ
が全部を失くしちまうにはまだまだ足りないんだ。戦いは続いている」
それは或いは祈りなのかもしれない。秘された塔と世俗とを結ぶその
場所で、3色の天才と2色の秀才という主従が、畏怖と愛慕とを込め
て1人の男を語っている。帰還を信じて。
「俺はまたあいつと会う。必ずだ。そのためだったら何でもするぞ。例え
全人類を敵に回したって構いはしない。それが俺の戦いだからな」
そう締めくくり、最後の階段を降り切った。重厚で容易ならぬ扉が閉じ
ている。開け、とベルマリアが言う。その言葉自体が鍵となっているも
のなのか、扉はゆっくりと重々しく開いていった。
精鋭の兵士たちが隊伍を組んで控えていた。赤羽家以来の近衛戦士団は
今や総勢100名に達している。誰しもが命懸けの忠節をもって武器を
握る者たちだ。死ねと言われれば即座に死ぬだろう者たちだ。
その外側には武官や文官が多く膝をついている。火迦神の長に裁可を仰
がなければならない事は多く、それゆえベルマリアは多忙な毎日を過ご
しているが……この塔に登った時には何人も邪魔することはできない。
アルメルは政治に関わらず、キッカは誰の指図も受けないのだから。
諸々を見渡して、ベルマリアは宣言した。
「征旅に出る」
それは火迦神が天空の半分を支配するに至る軍事行動の、その幕開けと
なる言葉だ。戦火が物凄まじい勢いで空を覆わんとしている。一方では
天敵たる大怪獣が動きを見せている現状、既存の秩序はもはや失われた
に等しい。天帝および朝廷の動きは鈍い。
時代の揺るがす震源は2つ。あいや、2人と言うべきか。
その2人が愛し合っていることを知る者は、幾人かいるだろう。
しかしその2人が殺し合うことになると知る者は……誰もいない。