第1話 誕生
それは1つの世界の終わりのようにも見えた。
月をも隠す黒煙を吹き上げつつ、巨大な質量を持つ浮島が落下していく。
避難する人影など見えない。その代わりにか何十万という色とりどりの
獣が島中に現れていて、煙の上がる場所へと馳せ参じていく。
散在する村々から続々と集結していく獣たちに表情はなく、ただ迷いの
ない有り様でもって駆ける。それを見送る小さな顔たちに浮かぶ表情は
恐怖と悲痛より他にない。
この日この夜、7歳未満の子らは見捨てられた。それは絶望に違いない。
さりとて7歳以上の者たちを責められまい。彼らは既に人でなし。人と
して生きるための選択が、その依存を裏切って、彼らを人でなくした。
どこにも助けはない。誰かを助けられるはずの者たちは獣へと亡くなり、
自分で自分を助けられない童らは途方に暮れるのみだ。救いなき月夜。
煙を避けるように航空船の大艦隊が浮いているが、それらも童らを助け
るつもりはないようだ。それどころか中央部から火炎が乱れ飛んでおり、
船という船が赤く染め上がっている。浮力を失い墜ちていく船すら。
何もかもが破滅的だ。煙火の中に演じられる救いなき悲劇だ。
狂うことこそが正解なのだろう。ここに正常なものなどない。
であるから、逆説的に当然なのだ。それがいることは。
化物の王がいる。この狂乱の中心地であるところの、未だ燃える廃墟の
都において、夜闇にも黒々とした巨体を蠢かせる存在。8色に光る獣の
群れを薙ぎ払い、城よりも大きなその身を晒した怪物。
無数の糸を滅茶苦茶に丸め合わせたなら、その姿の類似形を生み出せる
だろうか。統一性といったら黒い色より他にない。大小様々な大蛇なり
触手なり蔦草なり臓器なりが、それぞれに形状を変容させつつ、互いに
絡みあってなお動き続けている。億万の蛇の王。蠢動する縺れ。
いや……たった一言か。
怪獣。
怪獣だ。
雲霞のように群がる多色の獣たちを物ともしない。時に翼にも似た何か
でもって打ち払い、時に船をすら一呑みにしそうな大顎でもって噛み砕
き、或いは無数の槍のような物で貫き、或いは無数の刀剣のような物で
断ち切って……その手段は目まぐるしく変化し、どれもが圧倒的だ。
ただ……どうしたことか、夜に響き渡っているのは勝利の凱歌ではない。
悲嘆だ。慟哭だ。哀惜だ。まるで自らを寸刻みに傷つけでもしているか
のように……その怪獣は泣いているのだ。
何と痛々しい……そして何と憤ろしい咆哮なのか。
そうせずには、吠えずにはいられないのか、怪獣よ。
狂気が支配するこの時空間に、唯一お前だけが正気であるかのようだ。
他方、怪獣はこの滅びの島に根付いてでもいるのだろうか。
その手とも根とも知れない物を幾本も足元に突き刺している。
しかもそれらは地中を伸びに伸びて、思わぬ場所から姿を現す。
村々だ。
既に童を除き無人と化したこの島の各所で、黒いソレは地中より出現し、
機敏にして強引な動きを見せた。幾つにも分岐し、家々をくまなく探し
て童たちを捕まえたのだ。連続する悲鳴と絶叫。
見捨てられた者たちを残さず捕らえる黒い触手のようなもの。
それは狂気の夜に相応しい光景かもしれない。悪夢の極みだ。
しかし、集められた童たちは意外な思いをすることになる。村ごとに
黒い球状の中に入れられるのだが、それは捕食のように見えてまるで
異なる。消化液でも牙でもなく、そこに待っているのは。
一体の像。頭髪はなく、穏やかに微笑んだ顔の、黒い塑像。
「皆さん落ち着いてください。大丈夫です。ここは安全なのです」
その像が話しているわけではないが、どこからか大人の声が聞こえる。
女性の声だ。繰り返し繰り返し、怖がる必要はないのだと訴えている。
応答しているのではない。ただ繰り返す。安心してほしいと。
そうしながらも球状の物は地中を移動していく。中央へと。中心へと。
見捨てられた者たちを運んでいく。黒い黒い怪獣の元へと。
移動を終え、球が開いたならば、そこには大空間が童たちを待っている。
次々と運ばれてくる童たち。既に千人を超える数が集められているのだ。
どこだ、ここは。
そこは地中だ。地中に形成された怪獣の「袋」なのだ。床は平らかに
して寝床のように柔らかく、壁から天井にかけて半球状の壁には発光
部位でもあるものか、空間を仄かに照らしつつも星空のようだ。
1人、また1人と泣きつかれた童らは眠りに落ちていく。そこかしこで
身を寄せ合い、心細げに互いの服を握り合って。誰からか始まった寝息
の唱和に参加していく。安らかな静穏が童らを包んでいる。
地表はまるで違う。
怪獣は絶えず攻撃に晒されている。獣たちはその数を減じつつも未だに
数えきれないほどおり、執拗に魔法を放ち獰猛に牙を向いている。生真
面目なほどの戦闘意欲だ。
そうする間にも島は落下を続け、ついには雲の平原へと迫った。境海だ。
下部の山並みが夜に染められた白へ突き刺さり、進む速度のままにそれ
をかき乱して……しかし、島は沈みきらない。浮きつ沈みつしながらも、
まるで雲の海をゆく大船ででもあるかのように、月光の下に在り続ける。
それは地中におけるもう1つの死闘の結果であった。
浮島が浮島で在り続けるための核、それは魔石だ。浮力以外にも多くの
魔力をもって島を支えるものだ。莫大なその力……この夜に天帝の操る
ところのものとなっていたが。
その魔石には、今、黒い触手が絡みついている。
怪獣だ。怪獣が魔石を取り込もうとしているのだ。既にその試みは島の
浮力を制御するまでに及んでおり、刻一刻とその支配権を奪っている。
突如として轟音が起こり、次いで大質量が境海の下へと落下していった。
島の端々でそれは連続する。崩れていくのだろうか。この天空に悪夢を
現出したことを恥じて、やはり消え終わっていくのだろうか。
黒い線が飛びだしてきた。幾つも幾つも……島の崩壊はそれらが意図的
に行っていたようだ。自らの拠り所を解体しようというのか、怪獣よ。
否。
一周り小さくなった島の外側に、黒い線が形成していくものがある。
翼だ。恐ろしく大きいが、それは翼に違いない。蝙蝠か翼竜のもつ
それと類似した巨大なる翼。羽ばたくわけではない。風に乗り揚力
を得るためのそれ。大きく4翼。小さく8翼。12翼。
浮島そのものを我が身とする気か、怪獣よ。
本体と言っていいのかどうか。多色の獣に群がられ、それを嘆きの中に
殲滅しつつ、島の各所に取り残された童たちを回収していく。その童ら
に安らかな一時の寝床を用意しつつ、島の核たる魔石の支配権を天帝と
争い、まさに勝たんとしている。更には浮島をつくり変えて。
見よ。今、天空に誕生せんとするその凄まじきを。
村を、町を、都を。平原を、丘陵を、林を、森を。
人の営みを支える全てを背負い、境海の白に黒い巨翼を広げる雄大な姿。
既に魔石の支配を確立したものか、その飛翔は安定していて揺るぎ無い。
進行方向に現れたそれは頭か? それとも船の衝角のようなものか?
数百の龍が身を寄せ合っている風にも見えるそれ。雲の峰を掻き分けて。
進行方向逆に長く長く伸びているのは尾か? それとも尾翼か?
悠然と振れる様子はどこかのどかですらある。雲の内部を探るように。
大怪獣だ。
これはもはや大怪獣としか言えまい。
既存のいかなるものとも異なる存在。まだ燃え残り、煙も上がる背を
気にするでもなく夜空を飛びゆく巨影。人も獣も小さい。ただ月のみが
共に回遊を楽しんでいるかのようだ。
規模の巨大なるものは、ただその巨大さだけで、偉大である。
今夜天空を飛ぶ大怪獣はそれだ。偉大だ。偉大なる化物の王だ。他の
追随を許さない圧倒的な存在が生まれたのだ。島に寄生しているので
はない。こうしている間にも裏面は黒く蠢動する何かへと変じていく。
重ねて言おう。大怪獣が現れたのだ。この天空に。
人間社会の理だけが唯一絶対であった場所に、異物として、偉大なる1
が生じたのだ。夢想だにしない現実が立ち現れたのだ。
それを見届け、燃え墜ちていくものがある。大艦隊の最後の1隻だ。
25隻を数えた艦隊はそのことごとくが境海の下へと墜ちていった。
この1隻もまた後を追うようだ。甲板に独り立つ者は。
うら若き美女だ。
その身は炎をドレスのようにまとい、長く波打つ髪もまた炎の彩り。
強い意志を感じさせる面立ちに微笑みを浮かべ、体重の一切を感じ
させない佇まいで大怪獣を見つめている。
さもあらん、その女性は炎の創り出した幻影に等しい存在のようだ。
彼女の立つ甲板には幾つもの黒いものが転がっている。かつては人間で
あったのだろうそれら。誰1人としてこの夜を越えられなかったようだ。
誰1人として……足元の小柄な焼死体は、あるいは彼女のものか。
吹き荒ぶ夜風がついに炎を乱し、女性の幻は掻き消えていった。時を
同じくして船は境海に突入し、消えていく。チラリと最後に閃いた火
が合図となったものか、大怪獣の飛翔に変化が生じた。
旋回を始めたのだ。
緩やかで大いなる針路変更だ。時の流れが遅くなったようにすら見える。
雲の大海原に波頭のように白く何かを砕いていく。巨翼が角度を変える。
月の見守る大旋回を終えた時、大怪獣は空中に静止した。それは先ほど
炎の幻影が消えた辺りか。その空域へ至った大怪獣は、その腹……とい
う表現でよいものか……から、黒い線を伸ばしはじめた。
それは脚か? それとも触手か? あるいは釣り糸のようなものか?
地上から見上げたなら、それらは灰色の雲の中から突き出された腕だ。
黒く長々として、天から地を探るように伸ばされた腕。何本も何本も。
事実、それらは探っているのだ。拾いにきたのだ。落とし物を。
大艦隊25隻分の魔石を。
散らばるそれらを余すことなく回収し、本体へと取り込んでいく。それ
が食事とでもいうのか、大怪獣よ。今なおその巨体を変化させつづけて
いる者よ。どんな理がお前を動かしているのか。
朝日が夢の欠片を洗い流した頃になって。
青天の下にそれはいた。大怪獣は居続けていた。青と白の明るさの中に
あっても黒々とした巨大。背には平和な自然をそのままに、12の翼を
広げる雄大。頭部、腹部、尾部については筆舌しがたい。ただ恐るべき
力の躍動のみが在る。影に隠れて。
大怪獣の誕生。
天空の人間社会は、その事実に震えた。