第8話 無色
それはサイアを見送ってしばらくしてのこと。
遅いな、まだかな、何色かなと考えていた俺の耳に聞こえてきたのは、
ここでは絶対に聞こえるはずのない音。屋内で聞き取れるか否かでは
なくて……街の中心部である精霊祭殿では聞こえてこないはずの音。
まさかな……いや、しかし、この音は……風を受けて大きくたなびく
布の音。しなる材木の音。鳴動するロープの音。それが複数。上から。
航空船が都の上空に集まってきている?
大々的な観艦式の類であっても、領主城に近いこんな中心部にまで船が
来ることはありえない。あるとすれば、それはかつて赤羽家軍が水無瀬
領に対して行ったことだ。即ち侵略。都の上空を押さえることは、その
ままに武力支配を意味するんだ。しかも深夜。変事か?
(デンソン、ボリス、ヨハン)
口の中だけで声もなく呼ぶ。俺と元鬼たちの間ではそれで通じる。足元
に姿なく3匹の気配が蠢いた。首に巻きついてるヘレーナは例外として、
他の皆は俺の影の中に潜んでいる。デンソンの能力によるものだ。
ボリスは焦茶色の小熊のような外見の元鬼だ。隻腕だけど怪力で、その
表皮は岩石のような硬度を持つ。投擲術に極めて長けていて、鬼として
俺と対決した際は剛速球の礫をピンポイントに投げ込んできたもんだ。
ヨハンは銀色のペンギンとしか言いようのない外見をしている。鬼の時
は最も人間的な外見で、服まで着ていたのに、どうしてこうなったんだ。
能力は色々と小器用な感じだけど、最大の脅威は氷雪の息吹だろうな。
(ボリスは裏口に、ヨハンは正面の出入り口に待機だ。デンソン、頼む)
影潜みには有効距離があるが、祭殿の周囲くらいはわけのない話だ。
デンソンの影罠もまた敷地全体を覆えるけど、万が一に備えておい
た方がいいだろう。儀式の邪魔は何人も許さない。
例えこの夜に闇右京領が侵攻を受けたとしても……ここは通さない。
「何で何かした?」
ハニにばれたし。妙やたら元鬼たちの気配に敏いんだよなぁ、この子は。
「何でもないよ。儀式が思ったより時間かかってるからね。外の……」
外の様子を見にいかせた、と言おうとして。
俺はその言葉を続けることができなかった。
何だ、これは?
唐突な眠気。まるで透明な羽毛布団を頭から被せられたような気分だ。
とんでもない気持ちの良さが、じんわりとした暖かみを伴って、俺を
包み込んでいる。全身の緊張が一気に解されていく。力が抜ける。
えもいわれぬ安息感……夢のような安らぎ……これは……!
「テッペイさん! テッペイさん!」
遠い遠いところからナルキの声がする。どうやら俺は床に倒れ伏してい
るようだ。側にハニもいるか? くそ、駄目だ……意識が解れてしまう。
眠るな、眠ったら駄目だ……これには覚えがある。あの時も夜だった。
私掠船に積荷として潜入して運ばれた先で、心誘われる琴の音の中に
味わったもの……あの黒髪の少女を前にして沈みかけた夢心地。
俺の内側に意識を向ければ……やはり止んでいたか、黒い衝動の大嵐。
それの意味するところは何か。動かない頭で必死に考える。
あ。
ああ、何だ。
これってアレじゃん。
重魔力が全く働かない脱力感なんだから……封魔じゃんか。
ヌクヌクしてフワフワするもんだから繋がらなかったけど、これってば
封魔環が全部機能していた時と同じ身体感覚なんだ。重くなったんじゃ
ない。普通の人間の感覚になっただけなんだ。そしてすこぶる心地良い。
苦しいのは耐えられる。痛いのも悲しいのも慣れっこだ。日常茶飯事だ。
けどこれは……真逆のこれに対抗する方法を俺は知らない。どうすれば。
この前はどうしたんだっけ? どうやってこれを振り払ったんだっけ?
確か……誰かの名前が切っ掛けだった気がする。誰だったっけ?
「あ、サイア! 大変なの、テッペイさんが……」
サイア。サイアはホラキンの子。一本結いが尻尾のようで、俊敏な彼女
には良く似合う。話すのは苦手だけど、強い意思でもって前を向く子。
テッペイってのは……ええと……俺だっけ?
「ナルキだめぇっ!」
誰かが叫んだ。幼い声。ナルキはそんなに幼くない。肩で切り揃えた髪。
穏やかで家庭的で、何と言うか発育の達者な子だ。大きいから幼くない。
熱っ。
何かが顔にかかった。俺を包んでいる暖かさとは違って、もっとこう、
生々しい熱さの液体が。鼻につく鉄錆の臭い。これは生命の匂い。血。
……血?
何で血? ちょっと待て……血だと? 今この状況で血? 誰の血??
目を開ける。いつの間に瞼を閉じていたんだ。床と赤。血。身体は他人
のものででもあるかのように動かない。そのくせ心地よさばかりが俺を
寝かしつけようとしている。邪魔……邪魔だ! 目を動かす。
ナルキが倒れていた。
ピクリとも動かない。急速に広がる血溜り。ハニが覆いかぶさるように
してナルキの体を押さえている。そこが出血箇所なのだろうか。ハニの
身もひどく赤々と染まっている。そうしつつも誰かを睨みつけて。
サイアが立っていた。
その手にはガラスのような短剣……溶けて消えた。氷か。氷剣。代わり
に手に現れたのは鋼の長い棘。槍。2種の魔法。2色。サイアが2色?
違う。何だあれは。銀でも茶でもなく……靄のように頭部を覆うのは。
あれは……揺ら揺らと虹色の光彩を放つそれは……無色透明の髪色??
どこか生命を逸脱したかのような有り様。表情は無い。それなのに歌う。
何かの歌を口ずさんでいる。それか。その歌が俺を安楽に捕らえている。
聴いたことのある唄。無垢なあの頃に……あの夜にも聴いた唄。
槍が突き出される。先端は鋭利。え……それ、ハニに刺さっちゃうぞ?
駄目だよ、そんなことしちゃ。危ないだろ……血が出ちゃうだろ。
気付けば膝立ちになっていて、槍を背に受けていた。どうやって身体を
動かしたのか覚えがない。右の肩甲骨を貫いて、胸から槍が生えた。血。
今の俺が柔いのか、それとも槍が鋭いのか。
口に熱いものが溢れてきた。呼吸がしにくい。肺をやられたのか。凄い。
初めての大怪我だ。痛いのだろうけど、その痛みすらが遠い。吐く。
「テッペイ!!」
大丈夫だよ、ハニ。俺は大丈夫。それよりもナルキだ。うつ伏せていて
顔が見えない。けどその出血はひどい。俺が……俺が何とかしなくちゃ。
わ、全身が痙攣して上手くかがめない。電撃か。血肉が焦げ弾ける。
それでもなお、強く強く俺を支配する眠気。夢か現かも判別できないよ。
何か声無き声が俺を激しくせっついている気もする。何だよ、デンソン。
今ちょっと忙しいんだ。ナルキが大変なんだ。ああ……ひどい傷だ。
「ああ!?」
ハニが叫んだ。今度は手に炎を持ったサイア。それを俺に振るおうと
したところを青いヒレが遮ったようだ。滑らかで平たい凧のような体
を長い尾でもって持ち上げ、俺とサイアとの間に割って入っている。
元鬼のパメラ。鬼だった頃は人魚的だったが、どういうわけかエイに
なって俺と共にいる。そして勝手に出てきたのか。影の中から。
熱い。サイアの放つ炎に対して、パメラは水をまとって自らを盾として
いる。何だかどっかで見たような光景だ。水属性の盾で火を防ぐ。あれ
もどこかの祭殿だったような……パメラと違い、失っても惜しくない盾
だったけども。
失う? おいおい……冗談じゃない。俺は寂しがり屋なんだ。何も失い
たくない。大事なのは俺じゃなくて……俺の名を呼んでくれる人たちだ。
怖い。その人たちが不幸になることが。怖い。笑顔が失われることが。
ナルキ。ナルキ、駄目だ。そんなに血を流したら死んでしまうだろう?
俺が止めてあげるよ……俺の血はどんな無茶だって押しとおす悪魔石
なんだから。傷を治すくらいやってみせるさ。ちょうど沢山流れてる。
あれ……力が入らない。うまくいかない。どうしてだ? 俺もナルキも
どんどん冷たくなっていくきりだ。背だけが熱い。パメラが負けている。
震動と怒号。ハニが弾かれたように裏口の方を見た。これは……どうや
らボリスが戦っているらしい。ということはヨハンもか? 何かが起き
ている。取り返しのつかない何かが。失われようとしているのか?
俺は……また……失敗するのか?
熱い。背じゃない。胸の中だ。俺が俺を焼く炎。痛い。酷く痛い炎だ。
逃れようもなく俺を苛む悔恨と憤怒。これだ。これに掴まるんだ、俺。
痛い。苦しい。けど懐かしい。だって痛みこそが俺の人生だから。
そうだ、そうだよ、俺。何をまたお前は甘ったれてやがるんだ。
眠っていいわけないだろ? 休んでいいわけないだろ? ええ?
戦え! お前は戦士だろう、高橋テッペイ!!
「メリッサたちに知らせてくれ、ヘレーナ」
首に巻きつく翼蛇に告げる。即座に消え去った。とてつもない飛翔だ。
それでもまだ首に存在するもの。封魔環。手をかける。今のままじゃ
何もできない。何もかも失ってしまう。駄目だ。それは駄目なんだ。
外した。途端に目が覚めた。視界まで霞んでいたのか。状況はわかって
いる。わかっているくせにそれを考える脳が働かなかっただけだ。
目を見開き青ざめたハニ。大量出血で意識のないナルキ。俺たちを
庇って戦っているパメラ。ボリスとヨハンもか。そしてサイア。
精霊と契約しにいったサイアが、色の無い不可思議な髪をして戻って、
ナルキを斬った。氷の剣で。ハニを刺そうとした。鋼の槍で。今は炎を
放っている。俺に対しては電撃も使ったか。4種の魔法。
行動もありえなければ、4種の属性を使うこともまたありえない。
そして表情もなく歌うのは俺を封じる奇妙な唄。今も続いている。俺を
封魔し続けている。呪縛としての安息。サイアの身に重大な変事が起き
ているのは間違いない。異常な状況が俺たちを殺そうとしている。
させない。させるものか。誰1人、もう死なせない。死なせないぞ。
体内で鎌首をもたげた重魔力を掴み取り、締めあげ、暴れさせてから
制御するようにして……その力を絞り出す。どうした化物力、いつも
傍若無人に荒ぶってるじゃないか。こんなもんかよ、もっと出せよ!
無理やりに汲みだした力を血に託して、ナルキの傷になすりつけた。
俺の血は俺の一部であり、それは畢竟、悪魔石の一部でもあるんだ。
腕を鎌だの触手だのにできるなら、こんな傷くらい接合してみせろ!
皮膚は……こうだ。骨は……こうなってる。内臓は……ここはこうで、
そこんとこはこうなっていて……断面図のように全てを知っている俺。
どうしてかはわからないが、俺の脳裏には解剖学的な知識が存在する。
最初からだ。生物についての来歴不明の記憶。今はただありがたい。
背に痛み。電撃か。パメラの水に対して電撃を見舞ったのか、サイアの
見た目をした何かが。デンソン、パメラを戻せ。ヴァレリー、ゾーラ、
ハニとナルキを護ってくれ。サイアは俺が何とかする。
金色の羊が現れて、俺の代わりに2人の盾となった。雷撃の息吹を放つ
ヴァレリーだ。その背には桃色の蜥蜴が1匹。おでこに宝石がついてる。
ゾーラだ。能力としては……何というか、よく光る。荷が重いか?
立ち上がる。何とか体は動くぞ。
ナルキの傷は塞がった。骨や内臓などの損傷も可能な限り修復したけど、
何せ部品が俺の血だ。どこまで有効なのか。構造的には問題ないはずだ。
けど体力や腹膜炎は別問題だから……急がなきゃ。
早く婆さんの所へ連れていかなきゃならない。霊薬の類で内部から治療
というのがこの世界の医学だ。そしてそれは今のナルキに有効だろう。
そのためには……サイア。この子をどうにかしなくては。
また槍が来た。肩を貫かれた。それは生き物のように伸長して、背から
腹部を貫通して前へ出てきた。手で掴んでみるも、力が入らない。今の
俺には抵抗のしようがない。首の封魔環を外してもこれかよ。
意識が飛びそうになる。人並みに失血死でもするってのか、俺の身体が。
冗談じゃない。死は安息だ。今の俺には最も縁遠いものだ。駄目だろ。
火が来た。右目の視界がなくなった。顔を焼かれたのか。電撃が槍伝い
に全身を痙攣させる。正面からの風圧もある。それでも歩く。前進する。
おっと、向こうからも来てくれた。氷剣の斬撃。どこを斬られたのかも
もうわからない。痛みしかない。けど間合いに入ったぞ。
サイアを抱き締めようとして、左腕しかないことに気付いた。いいさ。
マッチョなめんな。腕の1本もあれば事足りる。幸いにしてサイアの
動きは緩慢だ。俊敏さが見る影もない。やはり別モノだ。
捕まえた。至近でも火炎と電撃が来る。ハリネズミのように氷と鉄の
棘も生じていて、何かもう面倒臭いったらない。大人しくしてろって。
とうに視界なんてない。けどここら辺にあるはず。サイアの首筋。
歯はある。まだある。その歯でもって。
俺は、サイアに吸魔を試みた。