第5話 欠充
マッチョな4枚翼の化物として飛び去った俺。
それは我ながらカッコ良かったと思う。お別れの1周回もなかなか。
けど、その後がそりゃもう大変だった。
魔物群がる群がる。もうゴキブリ嫌だとかそういう我侭言えないレベル。
空に魔鳥や魔蟲。地に魔獣や魔蟲。ああ、やっぱり虫って哺乳類よりも
数が多いんだなぁと意識を飛ばしつつ、俺は修羅の如く殺戮を続けた。
やっぱり悪魔石だ。こいつの魔物ホイホイっぷりは半端じゃない。
襲ってくる魔物はいつも通りの狂猛さで、それは人間への殺意を色濃く
反映しているわけだが……それだけじゃないんだ。どこか血眼の欲望が
感じられる。欲しがっているんだ。悪魔石という甚大な力を。
このままホラキンへ帰還するわけにはいかない。行けば魔石を収める
ための箱もあるが……それにしたところで悪魔石に通用するかどうか。
悪魔石。俺と同質かもしれない物。重魔力の結晶とでもいうべき物。
生物無生物を問わず融合し、その性質を強力に体現する物。化物核。
どうしてこんなものが存在するのか。それを知ることは俺自身の正体を
知ることと同義だし、重魔力の何たるかを知ることにもなる気がする。
……何て事を考えながら、とにかく目の前の魔物どもを逐一殺していた。
だから、それが目の前に現れたとき、一顧だにせず殺してしまうところ
だった。見ず、考えず、ただ反射で粉砕してしまうところだった。
鬼だ。
他の魔物と鬼とはその見た目からして決定的に異なる。通常の動植物が
魔物化したものは、言ってしまえば凶悪にパワーアップしただけであり、
元はどんなだったかを容易に想像することができる。熊なり草なり。
鬼は違う。幾種類もの生物の特徴がいい加減に表出していて、しかも
アンバランスだ。程度も酷い。化物なんだ。合成的で狂気に満ちて。
そして、目。何故か目だけが人間の特徴を残す。形だけとはいえ。
だからこいつは鬼なんだ。紫色の梟のような頭部。まるで外套のように
翼で身を覆っているが、その内側に垣間見える体躯は白蝋の如く病的に
艶やかで、細い。腰蓑のようにも見えたものは幾本もの触手か。先端は
鳥の蹴爪のようになっている。その内側には人間の1本足。
……1本足、だと?
いや……まさかな。そんなわけないだろ。鬼に出会うのはままあること
だけど、そんな、そんな偶然は。そんな悲惨な偶然は。
紫の梟人間、その身が音もなく沈んでいく。影潜みか。色の通りに闇の
魔法に近い能力を持っているようだ。ついには沈みきって見えなくなる。
それと同時に、周囲を張り詰めた鬼気が包んだのを感じる。これは。
他の魔物たちの動きが止まった。いや、勢い余ってこの空間に足を踏み
入れた魔鹿がいる。その足に地中……影の中から絡みつく蹴爪。そして
沈み込んでいって……俺のすぐ近くに挽肉となって現れた。
地面を境にして天地が逆の釣りでもされているようだ。恐ろしい死の罠。
しかも緊張感のようなものも最初だけで、次第に薄れていく。そらまた、
魔犬が罠にかかった。そこでも。あっちでも。
頭の悪いやつ、欲望に負けたやつ、無謀なやつ……それらが順に挽肉に
されていく。空から迫るものについては先ほどから迎撃しているが、俺
の足元に蹴爪が現れることはない。どういう理屈か、この空間に歩いて
入ったものだけが襲われるようだ。
影の内側から爪を伸ばして引き込み、恐らくは圧倒的にあちらに有利な
環境下でボロボロに引き裂かれる……か。魔法じゃないようだが、凄く
魔法じみてるな。メリッサの電撃にも驚かされたもんだけど。
けど……いっそ望むところじゃないか。空を飛んで逃げることは容易い
だろうけど、それはしない。避けない。触れ合わなければならないんだ。
そうしないと確認できない。
大概なんだ、この世界は。重魔力という呪詛を前提に彩られたここでは、
何事につけ人間は不幸になる。偶然じゃない。そう意図されている。
冗談じゃない。許容できるもんかよ。俺はもう、それを仕方がないとは
考えないぞ。変えてやる。重魔力が歪めたんだ。重魔力で正してやる。
「わざわざ姿を見せてからのこれだ……誘ってるんだろ?」
俺は大きく一歩を踏み出した。
途端、足首に幾つも引っかかるものがあり、そのまま冷やかな何かへと
引きずりこまれていく。うは。池か沼かを連想してしまった。ゴキブリ
の時もそうだったけど、心に来るね、こういう苦手分野は。
「もしもお前だったら、恨み言を言ってやるからな……デンソン」
視界が真っ暗に沈んでいった。
いかなる爪も俺を貫くことはできない。
いかなる闇も俺を恐怖させることはできない。
何をやっても無駄さ。俺は今、幼児の秘密基地に身を屈めて入り込んだ
大人のようなもの。この身を苛まんとする全てが児戯に等しい。懸命で
執拗な攻撃には感心するけどな。そら、捕まえた。もう離さない。
視界ゼロの冷たい闇の中で……俺は梟頭の鬼に噛みついた。吸魔だ。
メリッサの時のように、血を媒介に介入するんだ。この鬼の魔力に。
暗い暗い浮遊感。これは何? 圧倒的なまでの闇の質量感……これは?
海か。メリッサの時は大時化の海原を幻視したものだが。これは海中だ。
夜の海の深く……灯火などあろうはずもない暗黒のたゆたい。
息苦しいな。巨大な質量による圧迫感と閉塞感。そして孤独感と矮小感。
この中にあっては1人の人間など一顧だにされまい。これは虚無感か。
自分などは塵芥に等しい。いっそ存在しない方が調和がとれさえする。
諦観。自分の幸せを主張しない、望まない、諦めの静けさ。
……それが、この鬼の心情なのか。絶望なのか。
ふざけるな。
全ての鬼は子供だ。子供が鬼にされる世界だから。ならばこの絶望は
子供の絶望なんだ。デンソンであってもそうでなくても、許しがたい。
寒すぎるよ。子供がこんな絶望を抱える現実なんて寒すぎる。駄目だよ。
まずは温めよう。この冷え切った絶望の海の中で、俺は心火を燃やそう。
黒い衝動としての怒りじゃない。俺自身の、自前の火炎だ。憤怒の熱だ。
俺を含む大人たちへの怒り。重魔力への怒り。ふざけた世界への怒り。
たぎれ! 俺の炎よ!
冷たく沈んだ暗闇に、そうじゃないんだと沸騰しよう。違うんだよと。
幸せになるんだ! 幸せになっていいんだ! 当然の権利なんだよ!!
世界はもっと暖かで寛容で、子供はその中に育まれるべきなんだよ!!
こんなに寒く暗くなっちまいやがって……人としての灯火も消失して。
こんなになった子を、鬼として、地上の修羅地獄を戦わせやがって。
何なんだよ、重魔力ってのは!! いい加減にしろ!!!
対流が起き始めた。実際の海でもあるまいに、何がしかの力と変化が。
渦巻くように意識へ影響がくる。これは何だ……鬼の心境の変化か?
いや……違うな。それもあるだろうが、それにしては攻撃的だ。
突然に耳をつんざく大音響が来た。万雷のような轟き。静寂を粉々に
引き裂いて全てを打ち崩さんとする……怨嗟。これは怨嗟だ。初めて
聞くものじゃない。これは俺の内側にも鳴っているものだ。
重魔力か。人間への悪意に色付けされた黒色のエネルギー。
はん、負けるかよ。何を理由に怒り狂ってるんだか知らないが、怒って
るのはお前だけじゃねーんだよ。俺の中の奥底にいる奴もそうだ。話せ
ばわかるとは言わんが、話しも何もなく悲しみばかり生みやがって。
俺が俺のエゴでもって敵対を宣言済みだ。俺はお前の意図を挫く!
ありったけの感情を爆発させて吠えた。それが声になったのかどうかは
わからない。何せ非物理的状態だ。この場にあってはマッチョもくそも
ない。意志だけだ。意志だけが炎にも光にもなる。喰らえ!!
無形のエネルギー同士がぶつかっている感触がある。1人の鬼の心の海
において、俺と重魔力とが対決しているんだ。負けん。勝つ。払う!
同時に吸い上げる。闇を照らし、熱し、絶望の静寂に嵐を巻き起こして、
重魔力と判断できるものは全部を吸引していく。喰い尽くしてやるぞ。
……人としての何かはまるで見当たらない。このままでは何もかもが
無くなってしまう。けど、やめない。諦めない。何かが見つかるかも
しれない。暗闇の海に欠片でも何かが……人としての何かよ、あれ!
デンソンなんだろ? デンソンなんだろう?
こんなことになっちゃうまで、帰って来なくてごめんよ。悪かったよ。
お土産の約束もしたよな? お前には黒い柄の短剣を考えてたんだよ。
いつも冷静沈着で、冷めてて、それでいて誰かを拒絶することのない
優しさをもったお前にはさ……きっと夜の色が似合うと思ったんだ。
ここもそうさ。こんなに絶望させちまったけど……絶望の中にもお前
らしい沈着さがある。誰かのせいにしないで、何かのせいにしないで、
全部を受け止めて沈んでいったんだろうな。お前の潔さが悲しいよ。
……くそっ、邪魔だぞ、重魔力! どうしてそんなにうるさいんだ!
怒り狂ったらお終いなんだよ! 相手も自分も滅ぼすきりなんだよ!
全部来い! 俺の中に全部を吸い上げてやる! そういうのは大人が
苦しめばいいんだよ、子供を巻き込むなよ、俺が全部相手してやる!
代わりに……その代わりに、俺をここに置いていくよ。俺が俺である
根拠を、俺を構成するものを……俺の心を。記憶を。思い出を。
俺を温めてくれるそれらを……俺色で悪いけど、少なくとも恨み辛みで
できていない力を、魔力を、ここに注いでいくよ。そうだな、やっぱり
デンソンとの思い出が相応しいかな。お前が空っぽになってしまわない
ように、俺の知るお前でここを満たしていくよ。受け取ってくれ。
一緒に笛の練習したよな。お前はスタッカートが下手なくせに息だけは
妙に長く続いて、何だか別の曲みたくなるんだよな。オマケだ。縦笛の
演奏についての諸々も全部あげるよ。食事の風景も、薬の制作の風景も、
全部あげるよ。ああ、そうだ、メダル喜んでたよな。ミーの記念メダル。
これがお前なんだよ? もう無くしてしまったのかもしれないけれど。
俺はこんな風にお前を見ていて、そんな風なお前を大好きだったよ。
幸せになって欲しいんだ。3年も寝過ごした俺だけど。今更だけど。
足りなければ他にも何でもあげるさ。だから頼む。頼むから。
頼むから……奇跡よ……起きてくれ……!!
時間にしたら僅かなものだったのだろう。俺は影の中から地上へ戻った。
周囲にはまだ魔物たちが群れている。空から急降下してきた魔鳥どもを
串刺しにしていく。触手角を4本も出せば事足りる。
地面の奴らも薙ぎ払おうとして……そいつらが突如として消えたことを
知った。奇妙な静寂の後に、叢の影にこんもりと盛り上がってきたのは、
大量の挽肉だ。血と油と毛皮と体液と。そういった全てを混ぜ合わせて。
最後に、足元から音もなく現れたのは……紫色の梟。
羽ばたきを1つして、俺の肩に止まった。首をキョロリとして覗き込ん
でくる。何だよ、褒めろってのか。元鬼なんだからそれくらい余裕だろ。
ん?
首元の羽毛に隠れるようにして、何かが光ったのを見た。
おいおい……どういうことだよ。首輪のようにつり下げたそれは。
それは、ミーをあしらったメダルじゃないか!
何だろうこれは……キーホルダーか何かのようにも見えるが。明らかに
ミーの横顔だよ。ホラーキングダム絡みなのか? 偶然とは思えないぞ。
この元鬼……どういう人間だったのかは知らないが、ホラキンと関係が
あるのだろうか? それにしてもよくできてるメダルだな……隅々まで
磨いてあって……ははは、何だ、お前のお気に入りなのか?
まあ、いいさ。
ちょっと経緯が思い出せないが、とにかく、お前は俺についてくるって
ことなんだろ? いいとも。一緒に行こうぜ。お前が手伝ってくれたら
ホラキンへも帰れるかもしれない。あの魔石収納箱を試せるからな。
さぁ……行くか。
俺は一時だって休んじゃいられないんだ!