第9話 決済
底の底の奥底のホラーキングダム。
そこへ潜っていくための入り口、崖底の裂け目を背に座り込んでいる。
半裸の俺と、コートのみのメリッサ。
一見無防備な俺たちだが、人としての一線を超えて強力な布陣だろうな。
魔鼠が姿を見せるなり、俺の指が触手のように伸びて、先端の角を刺す。
もう1匹もまた接近できずに終わる。金色の針金が貫き、電撃で殺した。
人の身を必要に応じて化物に変ずる力……鬼の力の活用法。
体内を流れる重魔力という劇毒物のコントロール方法、それを教授する。
メリッサにはそれを学ぶ資格がある。そして俺はその道の熟練者なんだ。
この世に2人きりの異常者。それが俺たちだ。
お互いにたくさんの言葉を抱えていながら、それを1つとしてこぼさず、
現れては死体となっていく魔物を待つ。俺たちの間にしか通じないアド
バイスをやり取りしながら。釣りでもするかのように。
怯えているんだ。この先の全てに。寒々しい現実に。肩を寄せ合うのは
メリッサのためばかりじゃない。俺だって寒いんだ。怖いんだ。心から。
知らなければならない全てが……迎えるべき決済が恐ろしい。
だから、俺もメリッサも、異常なその狩りを生真面目なまでに継続する。
人の身に戻れた奇跡の、その喜びの余熱を、最後まで味わいきるように。
その後に待っている極寒を耐えるため……僅かな力も蓄えたくて。
20匹以上を殺し、メリッサは髪針金を複数同時に操れるようになった。
元より尻を隠すほどの長髪だが、それを攻撃の際には数倍に伸長させる。
電撃の出力も大したもんだ。人間を感電死させることも容易いだろう。
それらの成果をもってして……まずは俺のことを話した。
黒髪黒目という本来の姿。封魔のこと。吸魔と破魔のこと。天空のこと。
俺という人間の来歴を、こちらの世界に限っては全て話した。赤羽家の
ことも、火迦神家のことも、俺の出会った人々のことも全て話したんだ。
あちらの話……俺の生きた日本についてだけは話さなかった。この謎を
抱えるのは俺だけでいいし、説明も長くなる。意味もない。
そして、悪魔石との対決についてを話した。その結末も。言い訳でなく、
有りのままの事実として……俺が今の今まで帰って来なかった理由を。
メリッサは静かに聞いていた。肩を寄せ合って座る俺の、その腕に手を
添えて。途中からは頭ももたげてきたから、その表情は窺い知れない。
許すでも許されるでもなく……俺は待つ。メリッサが口を開くことを。
語られる事実を待つ。じっと待つ。きっと俺をズタズタにしてしまう
現実が在るのだろうと確信し、重く冷たい何かを喉奥に感じながら。
「テッペイさんがホラキンを出発してから……」
始まった。知れば戻れない現実を知らせる、その言葉。
「お見送りをしてから6日目の夜明け前に、異変がありました。初めに
地震が来て、それから魔物たちが騒ぎだしたのです。近くでは虎蜂が
警戒行動をとり始め、遠くでは魔鳥たちの群れが空に広がりました」
日時的に天照領からダイブした後のことだ。悪魔石との対決のことだな。
地震は戦いの余波か? 魔物の騒ぎというのも、俺とあいつとの重魔力
対決が影響しているのかもしれない。
「それから全てが悪い方へと変わりました。虎蜂の異常行動は収まらない
どころか悪化して……ミーは日中を戦い続けることになり、ホラキンの
入り口にも防護柵を作りました」
谷を越えて飛来したのか? それは異常だ。他の魔物に比べて重魔力の
希薄さにも耐える虎蜂だが、それにしたって好んでより薄い所へ来たり
はしない。それはつまり環境が変化したことを示している。
「オババの話では、重魔力の濃度が濃くなってきたということでした」
そうだな。それしか考えられない。今現在既に濃くなっている重魔力は、
俺が悪魔石と対決した時から……より正確には、吸魔を試みた辺りから
濃くなりはじめたということか。それは何を意味する?
「その後も濃度はどんどん濃くなっていって……私たちは覆面で過ごす
ようにしたのですけど、その内、小型の魔物まで出るようになって」
蛭の沼、鬼の林、そして蜂の森。それらをもってしても数の多い小型を
殲滅することは叶うまい。しかも先触れなんだろう? それだけで済む
わけなかったんだよな?
「魔鳥をミーが斬った日の夜、オババはホラキンからの退去を決めました。
この後ろの……廃墟の王国に。テッペイさんは一度行ったのですよね?」
「ああ」
「生きるのに不便な上、何かあったときには逃げ場もない場所ですけれど、
奥へ行くほど重魔力が薄いのだけはわかってましたから」
やはりそうか。ホラキンが襲われたなりしただけなら、別の土地に避難
するほうがマシだろう。けど、どこもかしこも魔物が大興奮の異常地帯。
それが地上全体のことなのか、ここいら辺りだけなのかはわからないが、
確かめる術も時間もない。地下遺跡へ篭城するよりなかったんだな。
最後の手段だ、それは。余りにもジリ貧過ぎる。
「物資や薬作りの道具を運ぶのに1ヶ月以上かかりました。その間も魔物
は増え続けて……ミーは頑張ってくれましたが、その日は魔蟻の群れが
押し寄せてきて……」
腕に押し付けられる頭。肘を強く掴む手。伝わる震え。俺も震える。
「……マックスが死にました。登攀作業中で身動きがとれなかったサイア
のことを庇って……魔蟻の……大顎に……!」
メリッサの肩を抱いたのは彼女のためばかりじゃない。込み上げる衝動。
マックス……短く刈り込んだ髪に汗をきらめかせて、いつも元気な笑顔。
筋トレが好きで、何度負けても腕相撲を挑んできて、負ける度に腕立て
伏せを自らに課していた。皆のことをよく見ていて、リーダー気質で。
一番年長だったから……誰よりもまずマックスを助けようと、間に合わ
せようと、俺も婆さんも必死だった。そんな俺たちを知ってか知らずか、
あいつは自分は幸せなんだとよく主張していた。ホラキンの皆が好きで、
ホラキンの毎日が楽しいのだと。ニカッと笑って。
本当は怖がっていたのを知っている。あいつは基本的に高いびきの寝相
だから、眠れないでいる夜はわかるんだ。俺の鋭敏な知覚が捉えていた。
何度も寝返りをうち、終いには外へ月を見にいく幾夜もの不安を。
月光の下で……橋から続く道はお前にどう映っていたんだ、マックス。
お前のよく知る子たちが、別れを告げてから夜へと消えていった道。
二度と戻ってはこれない道。たった独り、鬼になっていくための道。
それでも俺たちに笑顔をくれていたお前は……仲間を護って死んだのか。
年長者の責任ってのを意識していたお前だもんな。流石だ。凄い。強い。
立派な戦士だよ、お前ってやつは。心から尊敬する。眩しいくらいだ。
……何でそこに俺がいなかった!!!
小型犬ほどの大きさの魔蟻。それを斬るつもりで出した触手鎌。それが
勢い余って背後の大岩をも両断した。それに驚いてか群がり出た小さな
虫たちを、分岐した触手角の高速刺突でもって全滅させる。
無駄な殺生。無駄な戦闘力。大事な時にいない戦士の何が戦士だよ!?
マックス……マックスマックス! 俺はお前を弟のように思ってたよ。
無要を谷に捨て、それを謝ってきたお前は、男らしくて将来有望だった。
頼られて嬉しかった。訓練を頑張る姿が好きだった。行儀悪く騒がしく
食べるお前がいる食事風景は、いつだって楽しくてたまらなかった。
マックス……マックス……どうして俺は……お前を……!!
「……地下へ逃れた後は、しばらくの間、ここをミーが護っていました」
メリッサが再び話し出した。そうだ、まだ終わらない。終わっていない。
俺はもっと知らなくてはならない。目を背けてはならない。思い知ろう。
俺は取り返しもつかない失敗を犯したんだ。それを直視するんだ。
「けれど、生活に必要な物資が足りなくなっていって……ミーに採集に
行ってもらう時には、私とデンソン、サイアでここを護りました」
ビクリと反応してしまった。ばれていないといいが。デンソン。その名。
「小型の魔蟲なら、私たちでも何とか撃退できました。数もまだ少ない頃
でしたし。けれど……」
逆説のそれ。怖い。その先が怖くて……俺は密かに唇を噛んだ。
「……魔鼠が物陰から飛び出してきて……デンソンが右足に深手を負って
しまったのです。ふくらはぎを殆ど喰いちぎられるほどの……」
背筋を冷たいモノが伝い落ちた。
「本当にひどい傷で……何か毒もあったのか、幾晩も苦しみ通すことに
なりました。衰弱してしまったし、膝から下も失ってしまったんです」
きっとデンソンのことだから、苦痛の声1つ上げなかったんだろうな。
いつも通りの冷淡な様子で、何でもないという風に、独りで苦しみを
抱えていたんだろうな。そして……俺にはその先すらわかるよ。
「しばらくして……デンソンが言い出したんです。自分を鬼の林へ連れて
いってくれって。そろそろ鬼になりそうだって。そんなはずないのに」
やっぱりね……足手まといになった自分を見限ったんだろ? 他の皆の
ために出来ることを変な合理性で考えた末に、そう主張したんだろ?
動けず、物資を消費するだけの自分。マックス亡き後は最も鬼に近い。
婆さんの手伝いをしていたお前はそれを知っている。魔物化の男女差。
その上で、自分の命を上手く消費する方法を考えた……それが、鬼。
谷へ至る脅威を少しでも減らすために、鬼としての自分を使う考えだ。
放っておいても残り僅かな人間としての時間。それを投げ捨てて。
「皆が反対しました。けれどデンソンは頑固で……言い出したその日から
一切の飲食を断ったんです。鬼だから要らない。鬼だから平気って」
デンソン、教えてやる。それはハンガーストライキっていう手段だ。
お前の考えからすれば当然出てくることだろうな。
「3日経っても水1滴飲まなくて……オババが折れたんです。わかったと。
行っておいでと。そう言って差し出した水を、デンソンはやっと飲んで
くれました。そして……ミーに連れられて……行きました」
飢え、乾き、痛み、苦しみ……それらを感じないわけがない。感じても
耐えているだけだ。表に出さないだけだ、デンソンという子は。小さい
身体に鋼の精神を宿した戦士は。何て強い精神力なんだろう。
そうやって鬼になったのか、デンソン。そして今もあの茸の林で戦って
いるのか? 渓谷へ向かう魔物を屠り続ける修羅を生きているのか?
誰に弱音を吐くこともなく全てを覚悟して……お前は……!!
「……それは、俺がホラキンを出てからどれくらい経ってのこと?」
「ずっと地下でしたから、正確な時間はわかりませんが……2年は経って
いたと思います」
2年! その時点で最低でも2年! くそ……何てこった……!!
「それから1年くらいでしょうか……私の番が来たんです」
腕を伝わる大きな震え。強く抱く。この子は自分が鬼になる恐怖を体験
した人間なんだ。気高い勇気でもって諦めなかったとはいえ……勇気は
無感覚や無神経と違う。恐怖を感じるからこその気概なんだ。
「肌の色が変わっていって……表情が変わらなくなっていって……それが
兆候だとすぐにわかりました。けれど、外はもう、ミーが一時でも離れ
るわけにはいかなくなっていて……私1人でも森まで行けなくて」
抱きしめる。震えは強い痙攣と過呼吸とを招こうとしている。それでも
メリッサは話すことを止めない。俺も遮らない。聞き続ける。
「最後の採集を終えたミーは地下へ潜っていって……私はここで鬼となり
ました。ミーの代わりをやるためです。少しも討ち漏らさない、そんな
鬼になると心に決めて……!」
何て悲壮な決意なんだろう……何で子供たちがそんな決意をしないと
いけないんだろう。震えるメリッサを抱きしめながら、空を見上げた。
遠く遠く小川のように見える空。灰色の流れ。ここは地獄の底のようだ。
勇敢で優しく愛らしい子供たちが、どうしてこうも悲惨を味わうんだ?
誰か理由を教えてくれ。納得できる理由を。わからない。わからない。
社会か? 天帝か? 精霊か? 邪龍か? それとも俺か?
誰のせいかはっきりさせてくれよ。それともこんな理不尽こそが世界だ
とでもいうのか? 冗談じゃない。糞ったれ過ぎるだろうが。
「……ミーは今、地下で、浸入してくる魔物を討っています」
「そうか。その先は言わなくていいよ。もう大丈夫なんだから」
黄金の川のようなその髪をすくように、ゆっくりと何度も撫でさする。
わかるよ。メリッサは自分が殺されることも予定していたんだろ?
最後の採集で蓄えたそれも尽きた時……ミーは再びここへやってくる。
そしてその愛刀・曼珠沙華が振るわれるんだ。邪魔するモノ全てを断つ
大剣豪の一撃でもって……ここにいる鬼は殺されるだろう。
それとわかっていて、それでもそれしか方法がなくて……メリッサは
ここで戦っていたんだ。最後の最後まで使命を貫こうとする意思で。
「独りきりじゃ、なかったんですよ?」
泣き笑いの美しい顔が、俺を見上げた。
「あそこを見てください」
指し示す方向は、地下への割れ目の端の部分。岩と岩の隙間に挟むよう
にして木の茶色が見えた。あれは……あれは木彫りの人形。あれは。
「オジゾー様がずっと見ていてくれました。声の出せなくなった後も、
私の声を聞いていてくれました。そして……私の大切な人の面影を
いつも意識させていてくれたんです。力と勇気をくれたんです」
そうか……そうだったのか。お地蔵様は流石にお地蔵様だ! この賽の
河原のようなどん底で、1人の頑張る子を助けていてくれたのか!
それは何て素敵なことなんだろう! それを彫る時、メリッサは彼女の
大切な人……恐らくは母親のことを強く想っていた。その想いが重魔力
の奔流の中に苦しむ彼女を救ったんだ! 何てありがたい……!!
両手を併せて拝みたくなって、でも腕の中にメリッサがいて、どうした
ものかと思案したその不意に……美しい少女のキスが唇に触れた。
「貴方のことばかり考えていたから、私は、頑張れたんですよ?」
呟くなり再び触れてきたキスは、魔物を更に2匹倒した後にも、中々
離れようとはしなかった。