幕間話 父子
◆ ジンエルンEYES ◆
赤羽ジンエルン。
この姓名を誇らしく名乗る時が来るなんて……思いも寄らなかったな。
今や会鉄島と名を変えたこの浮島で、赤羽家の嫡男として、僕は生きて
いる。当主たる父上は殆ど楽隠居に近い風だから、もうほとんど当主だ。
……父上は、どういう我儘なのか好きな仕事しかしなくなった。武術を
指導するのがそれで、稽古用具一式だけを荷物に、会鉄島と思鉄島の間
をフラフラと行き来している。あちこちの家門に招かれて出稽古をして
いるらしい。民間の小道場にも顔を出し、すっかり人気者になっている。
姉上は好きにさせるようだし、僕も止めるつもりもないけれど、何だか
子供に戻ったような父上だ。戦争における武勇を語らない人だったのに、
稽古における武勇は楽しそうに語る。性に合っているのかもしれない。
さて、そんなわけで多くの責任が僕の肩に背負わされることになった。
執務室に詰める日常にもすっかり慣れた。多くを決済し、多くを命じて、
火迦神の一豪族としての責務をしっかりと果たしていく日々。充実した
多忙を楽しむようにして、今日もまた山積した難題を処理していくんだ。
僕の解決すべき難題……それは教育問題だ。しかも身分区別緩和の方針
に則って改革していかなければならない。火迦神領の未来を担う重要な
仕事を任されていると感じている。そのための新生赤羽家なんだ。
かつての赤羽家に在籍し、その武門としての家柄を支えてきた人間たち
は誰一人残っていない。彼ら彼女らはそっくり火迦神家へと移動した。
当然だ。姉上こそは赤羽の武の象徴だったのだから、その姉上が火迦神
という新貴族を立ち上げた以上、なお一層の武がその三文字に期待され
ているんだ。才ある者はそれを出し惜しまず、集わなければ。
その代わりに、新生赤羽家には才なき者を集めた。魔法の才がない者だ。
身体の弱い者や下民も多い。獣人だって採用している。ゆくゆくは奴隷
であった者も集まることになると思う。姉上もそれを望んでいる。
社会的弱者であることと、政務に無能であることとは、別のことなんだ。
より良い社会……新しい社会の形を火迦神領に確立するためには、情熱
をもって改革に取り組む人間であることが何よりも大事。そしてそれは
社会的弱者の救済と権利拡大とを目的にしなければならない。
姉上が統治方針として掲げた、重要な方針の1つだから。
……小さい頃から、周囲に異彩を放っていた姉上。それは外見や才能の
ことばかりが目立つけれど、本当はその独特な価値観こそが凄いんだ。
奇人扱いされることもあるし、発言は理解されないことも多いけれど。
僕は思うんだ。姉上の言動の全てには、統一された背景があるんだって。
理想や空想ではなく、もっと具体的に、既存とは全く異なる世界の形が
存在する気がするんだ。それを基準として全てを判断しているって。
まるで……姉上の頭の中には異世界の光景が在るみたいだ。
誰にも予想できない、共有できないはずのそれ。けれどたった1人だけ
共有した人物がいる。テッペイだ。テッペイだけは共有できたんだ。
運命的な出会いがあるとするならば、正に、姉上とテッペイのことだよ。
性格的な均衡もとれていると思う。覇気溢れる片方と、穏やかな片方。
外見的にも絵になるんだ。神秘的な美女と、ムキムキな戦士。
……そのテッペイが地上へ行ってしまってから、もう4ヶ月が経った。
最初の1ヶ月の後には会鉄島で目撃情報があったそうだけど、その後
彼が天空へ戻ったという話はまるで聞こえてこない。3ヶ月もの期間を
地上に居続けるだなんて……大規模探険団でも滅多にしないことだよ。
魔石探索のためとは聞いたけれど、それなら公的な探険団を派遣すれば
事足りるはず。社会改革と富国強兵とに奔走する行政とはいえ、姉上は
それができる立場にいるのだから。いくらでも代替がきくんだ。
テッペイの代わりはいない。いるはずがない。
1人の戦士としても僕の知る限り史上最強だけれど、それはおまけだね。
ムキムキも凄いし、その破壊力はとんでもないけれど、どんなにか物を
壊すことが上手だからといって姉上が慕うわけもない。僕もそうさ。
彼の本当の価値は人間性にある。彼が彼であることが本当に嬉しいんだ。
地上で拾われた無力で虚弱な彼は、弱さの悪癖である卑屈や阿りなどを
持たないばかりか、誰に対しても真摯で誠実であり続けた。
彼は基本的に自分を勘定に入れない。誰かの笑顔を自らの喜びとして
過ごしていた。その為にたくさんのことをして、その癖、自分のことは
無欲で無頓着なんだ。彼は天空にいた1年余りを、結局、1枚の硬貨も
私財として所有することなしに過ごした。宝剣すらも返上して。
一方で生真面目なくらいの努力家でもある。あのムキムキがそれを証明
しているね。頑張る、という言葉は彼のためにあるのかもしれないね。
そして、誰をも打ち倒すだけの力を手に入れておきながら、驕らない。
変な人だよ……本当に。いい意味で変な人だ。
どこか社会の慣習から自由である在り様。それは天真爛漫とも違って。
自分の価値をまるでわかってない立ち居振る舞いは、いつだって真心
がある。彼の目には、全ての人間が等しく1人の人間でしかない。
身分区別緩和の方針は、きっとそんな彼を考慮したものなんだろうな。
「じ、ジンエルン殿! 大事でござる!」
執務室に飛び込んできた巨漢は、桃栗アントニオという武官だ。姉上の
直属武官の1人で、テッペイ相手に上闘技決勝を引き分けた人でもある。
会鉄島に駐在している関係で、我が家にも顔を出して貰っているんだ。
「慌ただしいね。何かあったの?」
「事は急を要します。今から港までお出まし願えますまいか!」
「いや、だから、何があったのか教えてくれると助かるんだけど……」
武人然としたこの人がここまで動転しているのも珍しい。ましてや僕の
所へ駆け込んでくるなんて今までにないことだ。どうしたんだろう?
「お、落ち着いてお聞きください……いいですね?」
「いや、うん、落ち着いて話してね……それで?」
ゴクリと、大きく喉を鳴らして、話し出す。
「港に不審な船が接岸したのです。あいや、船自体は林業の定期船ですが。
しかし不審なのです。どう不審かと申しますと、その船からは大艦隊も
かくやという強力な魔石の反応が検知されておるのです」
それは確かに不審だけれど……港の軍が対応すればいい話だと思うな。
しかし話はまだ終わらないようだ。物凄い汗と熱量だね、アントニオ。
「軍が囲んで厳重な対応をとっておったのですが、そこにですね、1人の
人物がふらりと現れまして、何を思ったのか船に乗り込んでいってしま
いました。以降、船からは時折怒号が聞こえるなどしておりまして」
うーん……軍は何をやっているんだろうね。主力軍が思鉄島にいるから
といって、いかにも緊張感のない仕事ぶりじゃないか。
「現場の指揮は誰が執っているのですか? 厳重に囲んでおいて民間人の
突破を許すとは……責任問題ですよ、これは」
「いや、それはその……民間人ではないがために、私も止めることができ
なかったのです。あの御人を止められるのは、火迦神様やジンエルン殿
以外にはおられないと思うのですが……」
嫌な予感が……凄く……する。まさか。
「まさか……その人物って…………父上?」
「その通りです」
「先に言おうよ、そういうことは!!」
執務室を飛び出した。書記官たちに一声かけてから、すぐに屋敷を出る。
動ける馬車に飛び乗って、事故に気をつけさせつつも、港へと急がせた。
「下層の船着き場ですぞ!」
馬車に並走するアントニオの声を聞く。いざとなったら君に乗り込んで
もらうからね! わかってるよね? そのつもりでいてよね!
「じ、ジンエルン殿……こちらへ来てもらってもよろしいでしょうか?」
港。軍に取り囲まれた民間船。その船室からひょっこり顔をだした大男
が僕を呼ぶ。先刻僕に「行け! アントニオ!」と命じられた武人が。
「私にはどうしていいやら……危険はありませんので」
物凄く困った顔をしている。周囲の軍人たちがその困り顔に注目して、
次いで僕の方へと注目した。これはもう行かざるを得ない。僕だって
状況がわからないけれど、この島における赤羽という名字の威儀が、
ここで尻ごみすることを許さないんだ。い、行きたくないなぁ。
「わかった。行こう。父上は居られるんだな?」
「はい。しかしその……大変に荒ぶっておいでで……」
どういう状況!? 物凄く行きたくない! 父上が怒鳴り散らすなんて
滅多にないことだ。あの人は基本的に内側に貯め込む人だから。
そんな内心をおくびにも出さずに桟橋を歩んで……僕は死地へと入った。
「何をぅっ!? うちのベルちゃんのどこが男勝りだコノ野郎ぅっ!!」
「逆に聞く。逆に聞く。どこが男勝りじゃないとでも!? どこが!?」
「どこもかしこもだコン畜生! 超可愛いし、超可憐だろうがっ!!」
「外見じゃねぇえええ! 内面だっつってんだろ、人の話聞けっ!!」
…………父上とテッペイが物凄い形相で怒鳴り合っていた。
周囲には酒樽が転がり、2人の間にはまだ中身の入った酒樽が1つ。
そしてお互いに相手の杯の中身をしきりに気にしていて、少しでも
中身が減るや間髪いれずに注ぎ合っている。ええと…………仲良し?
「ジンエルン殿、どうかお願いいたします。このままではこの者たちが
いつまでも降船できません」
深刻顔のアントニオ。その後ろには青ざめた顔の船員たちが並んでいる。
うん。ごめんなさい。これってもしかして家庭内の問題かもしれない。
「ベルちゃんと結婚しろって言ってるんだ、こんの馬鹿野郎!!」
「そんな……そんな夢みたいなこと……言うんじゃないよ!!」
はい、やっぱり家庭内の問題だ。しかも僕すら立ち入りにくい話題だよ。
何かもうお互いに口調凄いし。雄と雄が角をぶつけ合ってる感じだもの。
殴り合いにならないのが不思議だ。ほら、今もお互いにお酒注いでるし。
……いや、そもそもどうしてこんなことに? 大迷惑なんだけど。
「じょ、状況をできる限りわかりやすく説明してほしい……」
船員たちによれば。
いつものように林業に励んでいた作業現場に、突然、テッペイが現れた。
彼らは元より顔馴染みな上、テッペイは探険者組合の印を所持していた。
組合同士の取り決めにより、テッペイの乗船は当然のように許可された。
ここまではよかった。しかしテッペイの所持品がとんでもなかったんだ。
まだ誰も確認していないが、どうやら複数の魔石を持ち込んでいる様子。
1つでも財産と成り得るそれを単身で複数個。軍でもあり得ないことだ。
異常な反応を検知して軍が出動、船を囲む。港に走る緊張。そしてそこ
にたまたま居合わせた父上、赤羽ジルベルト。私が様子を見てこようと
出しゃばった父上を、誰が止めることができようか……責められない。
「思わぬ再会にひとまず一献となったようなのですが……」
うん、アントニオ、言いたいことはわかるよ。どう考えても間違ってる。
状況的に考えて、ひとまず一献とかしていい場面じゃないよね。父上も
テッペイも何を考えてるんだか。しかも深酔いとか意味がわからない。
うわぁ……両方とも脱ぎ出した。これってもう酒盛り的に末期だよね。
どうしてこんなにお酒乗せてたかな、この船は。うん。もう駄目だね。
「アントニオ、うちの小型高速船が上階層にあるから、大至急姉上の所へ
向かってくれ。そしてテッペイを連れていくと伝えてほしい」
「御意にございます」
走り去ったアントニオ。次いで哀れな船員たちにも告げる。
「悪いけど、積み荷も含めてこの船は赤羽家が借り受ける。諸々のことは
悪いようにしないから、どうか許してほしい」
後で見舞金も出さないといけないな……何てしょうもない。最後に外へ
出て軍の指揮官とお話だ。今僕がしなければならないことは、この身内
の醜態を封印し、その開封を姉上にお任せすることなのだから。
「軍船であの船を曳航して思鉄島へ向かってもらえないかな。詳細は機密
に属するから聞かないでほしい。僕も同道するから」
頭痛がするのは、さっきの酒気によるものか。それとも降って湧いた
騒動の質と内容によるものか。何にせよ頭が痛い……はぁ。
けれど……ね。
実は、僕の口の端は、さっきっからヒクヒクと痙攣していたりもする。
困った話ではあるし、迷惑な事態ではあるのだけれど……愉快でもある。
見物だよ、これは。
「何だとてめぇっ! ベルちゃんは長いこと俺と風呂に入ってたんだぞ!」
「それ誇ることか!? 今どんなかは知らない癖に!!」
「なっ!? おいお前……ちょっとその辺を詳細に頼む。具体的にな?」
「お、怒るとこだろっ! どういう食いつき方だよっ! 知らんわっ!」
「嘘だね! 今絶対に知ってる風な口ぶりだったね! ほら、詳しく」
「何てしょうもねーおっさんだ、この人は……もういい、酔い潰す!!」
「よーし受けて立とう。しかし俺が勝ったならば語って貰うからな!!」
「負けてたまるかっ!!!」
いやぁ……楽しみだなぁ。姉上の反応が。