第3話 夜道
いるな。
俺が引き返した途端、動きを止めたようだが……いる。間違いない。
息を潜めても無駄だ。一度察知した気配は逃さない。最短距離で接近。
……いた。何だありゃ。
長大なコンパスみたいな足の先に、猫背で皺だらけの小男の体がある。
そこだけ見ると醜い人間ってだけだな。髪色はブルー。水属性。その
顔には何ら理性もなく……眼差しだけは人間のそれ。鬼だ。またも。
どういうことだ。鬼と2体も連続で遭遇することなど考えられない。
未踏の地というだけで、こんなにも危険になるのか? そんなまさか。
この奥には……何がある?
キョエエェエエエェエ……
来た。何て歩幅だ。この距離を3歩でつめるとは。見上げる位置に小男。
おっとぉ!? こいつ変な液を吐きやがる。生理的に嫌な攻撃だ。毒か。
そしてコンパス足は鋼鉄の硬度だ。もはや槍だな。器用に突いてくる。
だが甘い。お前のいるそこは安全地帯なんかじゃないんだ。
ステップを踏んでコンパス足に接近、無要の一撃でそれを砕き折った。
バランスを崩してもすぐには落ちてこないか。ならそっちも折るだけだ。
もう1本も叩き折る。重力が小男を沼へ引きずり落とした。
無言で駆け寄り、振り下ろして頭を粉砕した。毒液が沼ににじみ広がる。
それを避け離れてから、僅かの間、黙祷して冥福を祈った。
名も知らない貴方にとって、この死が解放でありますように……。
さて、どうしたものか。二度あることは三度あるって言葉もある。
理由はわからないが、沼地から湿地帯へと続くこの秘境は鬼の
多発領域なのかもしれない。とんでもない危険地帯だ、それは。
俺なら行ける。行くべきだろうな。行って精々騒々しくすることだ。
さっきの鬼は俺たちの後をつけていた。鋼鉄のコンパス足なら沼蛭を
恐れることなく越えてしまっただろう。俺たちのせいだ、それは。
藪つついて蛇ってやつだな。探険者として責任を取らなきゃ。
それに……やはり奥地が気になる。未知への好奇心を強く刺激される。
ファルコの遺志を継ぐつもりもないが、やはり前人未到の土地には発見
が期待できるからだ。何を発見するのかはわからないが。
そんなことを考えながらも、身体は奥へ奥へと進んでいく。遂に独りだ。
気楽なもんだ。この世界に目覚めた初日なんて恐怖の連続だったけれど。
沼地から湿地へ。踏みしめる感触の違いと、小さな虫の声。ぬるく頬を
なでる湿気。巨大茸の林。ここら辺でいいかな? 注目を集めてやろう。
「ぉらあああああああぁぁぁぁっっ!!!」
茸も倒れろという気持ちで吠えた。実に気分がいいじゃないか、おい!
さあさ、テッペイが征くぞ。鬼でも魔物でもどんどん襲ってくるがいい。
お行儀のいい人間の時間は終わりだ。誰もいなけりゃ文化もクソもない。
獣だ。俺は獣だ。
清々しいほどに狂猛、嬉しくなるほどに衝動、軽々しいほどに殺意。
俺の中の魔獣が解放感に震えている。逸るなよ、すぐさ。すぐ敵が来る。
走り出す。駆け出す。跳び出す。
さあさあ! 来い! 襲って来い! 俺はここだ! ここにいるぞ!!
……なんて、調子に乗っていた数時間か前の自分を殴ってやりたい。
やばいやばい! 来るな! こっち来んな! 俺いないっいないぃっ!
疾風のように泥土を駆け抜けて、木だか茸だか定かじゃない植物の陰に
跳び込んだ。根元に群生していた蓮だか何だかの大きな葉の中に、これ
幸いと頭から突っ込む。無要を抱え、目だけで向こうを確認。
うおお……超いる……超凄い数……の……虎蜂!! 凄い羽音!!
ヤバイ。あいつらはヤバイ。1匹1匹は大したことないが、群れで来る
から色々とヤバイ。心にダメージが入る。あの羽音だけで吐き気がする。
くそ……鬼をもう2体ばかり倒したまでは良かった。魔物も数知れない
ほどに葬ったさ。でも、虎蜂に手を出したのは失敗だった。馬鹿だった。
初日に色々やられた意趣返しのつもりだったんだ。殺っちゃったんだ。
そしたらね、もう1匹がね、何か尻からプシュっと吹きかけてきてね?
あーこれって警報ホルモンじゃーんとか、また無駄な知識が閃いて……。
そっからはもう、逃げの一手ですよ。まともに相手してらんないよ。
考えてみたらさ、俺、物理的近接単体攻撃手段しかないんだよねっ!
あんな、トラウマが群れ成して飛んでくるようなのと戦うの嫌だよ!
泥もかぶったし、その辺の植物の汁も絞って擦り付けてるし、奴らの
警報ホルモンの臭いは消せてると思うんだけどな……まだ不十分か?
いや……でも、行ったか。やり過ごせたか。よ、よかった……!
全身の力が抜ける。いやはや参った。こんなに走ったのって砦戦以来だ。
少し休憩しよう。下手に動くとまたぞろあいつらが来るかもしれないし。
腰の小袋から真っ黒の飴玉を取り出して、口に入れた。苦甘レロレロ。
改めて周囲を見てみると……随分と不思議な雰囲気の場所だよな。
木だとは思うけど、幹はともかく枝葉のシルエットが茸にしか見えない
巨木があちらこちらに聳えていて、天井のように日を遮るものだから、
基本的には薄暗く、陰鬱な雰囲気になるはずの場所。でも違う。
水草だか菌類だか知れない植物が豊かに繁茂しているんだが、それらが
それぞれに燐光を発するんだ。発光する部分がある。花なのか実なのか。
とにかく綺麗だ。赤だの青だの緑だのと……虫の声が更に趣深い。
何か、いい所なんだよ。俺は好きだな。あの蜂どもさえいなければ。
虎蜂以外に魔物がいる気配もない。形はともかく大きさのまともな昆虫
がいるきりだ。蝶や蛾も多い。要はあいつらの縄張りなのかも知れない。
ここが……奥地なのだろうか?
まぁ、幻想的でいい場所だとは思うけど、鬼を何匹も倒してまで来る所
じゃないよな。沼蛭の沼地、魔物の湿地、鬼の茸林、そして虎蜂の森と。
俺だからまだ苦労ですむが、普通の探険者なら余裕で全滅だろうよ。
……いや待て、何かおかしいな……鬼ってのは、元は人間なんだよな?
精霊と契約しなかった、できなかった人間が地上で過充魔した結果の形。
それがこの短時間に4体も居たってのがまず奇妙な話だが、そいつらは
どうやって茸林に来たんだ? 人間の時に? 鬼になってから?
人間の時は無理だ。俺でもない限り殺される。沼側からも森側からも。
空から落ちてきたのならわかるが、狙って落とす刑なんて聞かないし。
鬼になってからなら踏破できるが……鬼が好んで集まる条件でもある
のか? あの茸の林に? 林自体はそう珍しくもなさそうだったが。
ふーむ……あと可能性があるとしたら、森側の奥に何かある感じかな。
蜂は基本的に夜目が利かないはずだ。それを知る人間が、夜に紛れて、
森の奥から茸林へ至り、そこで鬼と化した……意味不明だな、これも。
まあ、探ってみるまでだ。夜を待って更なる奥地を目指してみよう。
それまで少し寝る。僅かな物音でも目覚めるような獣の眠りだけど。
植物に塗れて泥だらけで、抱えるのは鉄の塊という在り様だけど。
瞼を閉じれば、思い出せる。あの得難い日々を。胸の温もりを。
夜闇になお黒く影をつくる様々の巨大を、色とりどりながらも控えめな
淡い光が点々と飾り立てている。虫の調べもどこかか細く耳をくすぐる。
星空よりも暗く、その癖しっとりと艶やかで、生命の水気が鼻奥に香る。
やっぱり綺麗な所だ、ここは……鬼に成るには良い場所かもしれない。
水溜りを避けて歩きながら、ちょっと自分が鬼になる時のことを思った。
素敵じゃないか。この景色は全部を受け止めてくれる気がする。化物と
成り果てた自分のことも、きっと何も言わずに許容してくれるだろう。
こっちから来たのかな、あの鬼たちは。この夜を静かに歩きながら。
自分の運命を呼吸の中に呑み込みながら、この景色を心に滲ませて、
そうして人間の最後を迎えたんじゃないだろうか。
そう思うと、1歩1歩の感触すらどこか優しく感じられる。他に比べて
平坦な土地だ。魔物がいないこともあって、ゆっくりと歩きたくなる。
ん? 少し無要が重く感じられるか?
それにこの穏やかな気分……地上に降りて初めてじゃないか?
ここは……まさか…………重魔力が薄いのか!?
うん、間違いないぞ、意識すると違いが明らかだ。呼吸の度に心を奮い
立たせていた熱のようなもの……それが弱い。無いわけじゃないが。
更に進む。進むたびに薄まってくのが分かる。何てこった。重魔力とは
場所により濃度が違うものだったのか? それともここが特別なのか?
ここが特別なのだとしたら……それが鬼が4体もいたことにつながる?
答えなど出ないままに、俺はそこへ辿り着いた。
岩が先か、それとも樹が先か……巨大の中でも巨大であろう大樹が渓谷
と融けあうように倒れ伏していて、もはや木目と岩肌の識別すら難しい。
その大樹を苗床に小さく生えた茸……それがさっきまでの茸型の巨木か。
スケールが違う。正に秘境の風景だぞ、これは。
そして、その風景の中に漏れ見えている、灯火の揺らめき。巨大樹の洞
の中なのか、それとも崖の洞穴の中なのか……いずれにせよ、それは人
の営みの証だ。いる。そこには人が暮らしている。
……あの巨枝だか岩橋だかを渡っていけばいいか。急に悪くなった足場
に注意しながら、そこを目指す。ここまで来たんだ。そこへも行くとも。
湿った岩場を降り進んでいく。いよいよ人間がいるのがハッキリとして
きたぞ。上からでは見えないだろうが、ここまで来るとわかる。あれは
火を焚いている光だ。かすかに煙も出ている。夕食だろうか。
どうやら岩穴だか樹の洞だかを利用して、その奥に住居を形成している
ようだ。何箇所かそういう所があって、どれも奥が広く深そうだ。凄い。
こんな所にも人は逞しく生活しているのか。それは素敵なことだ。
呼吸する空気に混じる重魔力の薄さが、俺に確信を抱かせる。精霊との
契約なしに地上で生きようとした時、ここは理想的な環境なんだと。
ここでなら魔物化をかなり抑制できるんじゃないか? いずれ変化する
にしても、人としての延命が叶うんじゃないか? この濃度ならば!
幾重もの障害が魔物を遠ざけているし、空からも発見されないこの場所。
事実、秘境と言われ前人未踏の土地だ。誰にも邪魔されずに暮らせる。
心穏やかに……鬼と化すまでの間の人生を、生きることができる。
思わず足早になったその歩みを、止める。止めざるを得ない。
そうさ、浮かれちゃいけない。俺は招かれて来たわけじゃないんだ。
だから当然なんだ。その橋だか枝だかに守護者がいて、阻まれるのは。
たった1人、俺を見据えて立つ人影がある。
烏の濡れ羽色というのか、光沢のある黒髪を垂らして、瞳は虹色の光彩。
黒地に花柄をあしらった着物は斬新なデザインでミニスカ丈。黒ニーソ。
背には身長の2倍近い長大な大太刀。身長自体は俺の腹までくらいか。
何あれ。
何あのちっちゃくて可愛いのは。
「兄ちゃんどっから来たか。いらっしゃいませ。所属と姓名と市民番号を
述べよ。不法な立ち入りについては斬り捨てゴメンなさい」
無表情に捲くし立てる幼女を前に、俺は立ち尽くすより術がなかった。
思えば、ここでコイツに出会えたのも凄い幸運だったんだよな。
この時の俺は知る由もなかったが、コイツこそが魍魎の大剣豪。
生涯に渡る相棒であり、可愛い後輩であり、秘密を解く鍵であり……。
…………大怪獣を殺してくれた奴なんだ。