第3話 天空
百聞は一見に如かず、と連れてこられた甲板で。
俺は立ち尽くしていた。景色に圧倒されてしまって、言葉もない。
雲海だ、これは。
文字通りの意味だ。白雲が眼下一面に広がっている。
大きな波頭のようにも見える。さながら、時間の緩やかな荒れ海だ。
雲の合間からは、空の青色を映す透明な揺らめきが確認できる。
水じゃない。あれはもっと透明で曖昧なものだ。あの揺らめきは。
目を凝らすと下が透けて見える。森だ。大森林だ。さっきまでいた。
「ビックリしたろ。あの海は境海と言ってな、魔力の歪みでできてんだ」
ベルマリアがどこか得意げに言った。甲板の風で髪が炎のようだ。
向こうの帆船に良く似たこの船は航空船というそうだ。マストは2本。
実家ではなく私物だそうで、いわゆるお金持ちということらしい。
兵士たちも私兵というか、実家の軍とは別に組織した部隊とのこと。
どうにも話が物々しくてビビる。軍て。部隊て。異世界って怖いな。
「この世界は大気と同量に魔力が満ちててな、それは性質から軽魔力と
重魔力とに分類される。重きは地上に、軽きは天空に。境目が境海だ」
バフッと船が雲にぶつかった。濃密な霧のような感じだ。突き抜ける。
再び開ける視界。凄い。雲の上だから、空は青のグラデーションだ。
その濃淡を物凄い距離感で視認できる。球体だっていう実感がある。
「地上からは曇り空に見えてたもんだな。透明度は日により変わるが」
説明を聞きつつも、やはり視線をこの絶景から離せない。
大空間の中に立っている感覚は、少し怖くもあり、けれど夢中になる。
都会の狭さに慣れきった人間には、これはもう、革命的な体験だよ。
それに、あの虎蜂とかいう巨大蜂との飛行に比較すると凄い。
今俺、素敵な帆船で、中身はともかく美少女と並び立ってます!
地獄から天国といった感動がありますとも。ええ、はい。
「あの海が、テッペイにとっての生死の境目になるかもしれねぇ」
「え?」
幸福感に冷や水をお見舞いされた気分。生死の境目て。
「軽魔力の満ちる空にいる限りは、ま、最悪でも人権を失うきりだろ」
「ええっ!?」
ちょ……え? 何か物凄く嫌な話になってきたんですけど!
じ、人権を失うって、ちょ、人に非ずな立場になるってこと!?
しかも、それでもいいよね的な物言い……説明説明、説明を是非!
「この世界には10歳以上で黒髪の人間なんていない。いる訳がねぇ」
「ええと、それは、黒髪は珍しいという……?」
「違う。人間は皆、黒髪黒目で産まれる。俺だって最初はそうだった」
ベルマリアが黒髪黒目……ちょっと想像できないんですけど。
でも染めたにしちゃ綺麗すぎる。そもそも目はどうよ。無理でしょ。
「大前提として知っておいて欲しいんだが、人間ってな魔力を生む」
「……出産?」
「違ぇよ。ゲームとかやったことないかな、MPってあるじゃんか」
「あーあー、はいはい、マジックポイントだかメンタルポイントだか」
「そうそれ。休むと回復するだろ? あれに近い。炉があるってことだ」
カロリー的な感じだろうか。こう、栄養をエネルギーに変換する的な。
魔力を身体の中から生み出す……それとも自家発電的な感じか?
「でな、これが厄介なことに、最大MP無視して生んじまうんだわ」
「……超回復?」
「違ぇよ。心身の器を超えて魔力が生じる……蓄電池って知ってるか?」
「充電できる電池……かな?」
「そうそれ。過充電すると壊れるだろ? 同じことが人間にも起こる」
おっと話がきな臭くなってきた。嫌な予感がするんですけども。
魔力の過充電で人間が壊れるって、何でそんな怖い話を。今。
まさか……ははは……それがさっきの話につながるの? 人権的な?
「魔力ってのは便利だが劇物でな、濃度を増すと悪さをしやがる」
「ど、どんな……?」
「過充電、こちらの言い方だと過充魔だが、それすると人でなくなる」
「えっ!?」
じ、人権だ。やはりここで人権のお話なんだ。
「身体が変化しちまうんだ。有体に言うと魔物になる。もしかしたら、
さっき出くわした怪物も元は人間だったかもしれないってこった」
おいおいおいおい。あんなんになっちゃうの!? あんなんに!
……でもあれ、人権とかそーゆーレベルじゃなかったんですけども。
あれになっちゃったら普通に退治されない? 見敵必殺の勢いで。
「そうならない為に、この世界の人間は必ず精霊と契約をするんだ。
余剰魔力を捧げる、つまりは吸い取って貰う代わりに加護を受ける。
こっちにしても一石二鳥だし、あっちも嬉しい。いい契約だろ?」
WINWINの関係って奴か。精霊とかって普通にいる世界なのね。
流石は魔法の世界、と納得すればいいのだろうか。変な所だなぁ。
「七五三の儀式ってのがあってな。発電量ならぬ発魔量検診をやるんだ。
普通は3歳ん時に傾向を確認して、5歳で適した精霊の仮選定をして、
7歳になって晴れて本契約だ。その際に髪と瞳の色が精霊色に染まる」
へー、ちょっと面白そう。ある日を境に皆してカラフルになるのか。
なら俺、黄色がいいな。こう、スーパーな感じがしていい。逆立てて。
ベルマリアはやっぱり火の精霊って感じなのかな。髪赤いし。
「ちなみに俺ぁ、3歳で火の精霊と本契約。5歳で氷の精霊と本契約。
7歳で雷の精霊と本契約した。発魔量がでか過ぎてな。まぁ、天才だ」
はい、自慢入りました。そして予想以上に凄い人のようです。
でも実際に魔法を見たから、何か納得してしまうな。火と雷だった。
それはともかくとして。
えっへんと胸を張ってますが、はい、バストが強調されますね。
いやぁ……結構なものをお持ちで……個人的にはベストな大きさです。
おっさんなんだけどね。それがネックなんだけどね!
「発色の度合いでも才能がわかるんだ。我ながら見事な髪色だろ?
両目も中々のもんだ。ちなみに赤は火、金は雷、銀は氷の精霊色だ」
成程。この人の美しさは見た目だけのことじゃないわけだ。
けどこれ、残酷な法則かもしれない。見た目で才能が丸わかりなんて。
さっきの兵士の人たちって、誰も1色の上、色がくすんでたからなぁ。
ん? ちょっと待て。あれ? やばくない? 俺やばくない?
どんなに才能なくても7歳までにはとにかく契約するんだろ?
それってのはつまり、発魔量が少ない奴でも、危ないからだろ?
「察したようだな。こっちの世界じゃ黒髪黒目ってのは、未契約の証だ。
日本人のお前に当てはまるかどうかはわからんが……当てはまるなら」
「あ、当てはまるなら?」
「今日明日にも体が変化し始めるかもしれねぇ」
「げえっ!!」
思わず自分の体をまさぐってしまった。う、鱗とかないよね!?
見える範囲は大丈夫だ。あっ、しっ、尻尾とか生えてない!?
「テッペイさぁ……俺だからいいけどよ、普通、尻出したら痴漢だぞ?」
「こ、これはお見苦しいものを、失礼しました……」
「気持ちはわかるが、ま、化物にはならんから安心してくれ」
「え?」
すごすごとズボンを穿く俺なわけだが、え、安心していいの?
っていうか何でちょっと顔赤いんだろう、この美少女。
お、おっさんなんでしょ? やめてよ、何か凄く照れてきた!
「変化は環境に影響される。軽魔力の空間でなら魔物にはならねぇ。
アルメル見たろ? あいつぁ孤児でな、本契約をしそこねちまった。
結果として闇の精霊であるネコへの変化がはじまっちまったわけだ」
ああ、あの猫耳と尻尾……って、あれ? 随分と平和な変化じゃね?
「軽魔力の空間なら、自らの性質に合う精霊へ近づく変化をするんだ。
だんだん獣化していき、獣人を経て、やがて精霊獣と化す者もいる。
アルメルは遅ればせながら契約させたから、もう変化しないけどな」
それは良かった。個人的にはあのラインがベストな猫化だと思う。
世の中には色々な趣味の方がいて、もっと先を望む人もいるかもだが。
って、酷いこと考えるんじゃねえよ、俺。だって、多分、あれだろ?
獣化したら人権がないってことなんだろ? ここの社会ではさ。
「獣的になると、その、どんな扱いになるんですか?」
「ほぅ、段々と冴えてきたようだな。そう、獣化した人間に人権はない。
下民という被差別民になる。罪人や奴隷と同等の扱いだな」
「奴隷」
「ああ、やっぱりそこが気になるか。俺も記憶蘇ってからは同じだよ。
昭和生まれの日本人としちゃ許容できねー言葉だよなぁ、やっぱり」
「……はい、そうですね」
うん、奴隷はないよね。酷い言葉だし、酷い考え方だと思うよ。
でも、昭和生まれってくくりも、ないよね。俺、平成生まれです。
言わないけど。空気読んで言わないけども。先輩、幾つですか?
「胸糞悪ぃ話だが、それでも、化物になるよりかは万倍もマシだろう。
重魔力の空間では、変化は化物へのものとなる。人権どこじゃねぇ。
理性も何もかも失って魔物と化す。そうなった人間は鬼と呼ばれる」
鬼とはまた、剣呑な。それって普通に討伐対象だよね。
でも化物が全て鬼ってわけではないのかな、言い方から判断するに。
あの森って猿や鼠も凶悪な姿してたし、蜂は言わずもがなだしね。
で、あれですか?
俺って今、2択をつきつけられているんでしょーか?
獣人になるか、鬼になるか。
わー、確かに、人権はなくとも前者の方がましじゃん。嫌だけども。
比較対象って大事だよね。アルメルさんと4本腕の化物の比較だもの。
俺も獣耳で尻尾付きなワイルドメンズになるのか……ピンとこないが。
「ま、とにかく境海の下には行かないこった。な? 生死の境目だろが」
「仰る通りでございます。船に乗せてくれてありがとうございます」
「おう、困った時はお互い様だぜ。ましてや稀なる日本人仲間だ」
物凄く嬉しそうに、俺の肩をバンバンと叩いてくる。柔らかいです。
状況は未だ訳わからんが、実は凄く幸運だったのではなかろうか?
もしもベルマリアがあそこに現れてくれなかったら……やばい。
まず、化物に殺されていた可能性が高い。助からなかったろう。
仮に逃げおおせたとして、自分自身が化物になる可能性までが高い。
あれだね。地獄のようなサバイバルの果てに鬼になるとかマジ勘弁。
しかも、何だ……やっぱり凄く綺麗で可愛いです、この人。
中身は中身で、昭和のおっさんだけれども、リーダー気質で頼もしい。
更には財力的にも凄そうです。私兵や船持ってるし。よくわからんが。
「あのー、先輩はどうしてあんな森にいたんですか?」
あんまり幸運すぎる気がして、ちょっと聞いてみたくなってしまった。
人の事情に興味持てるとか、随分と落ち着いたもんだよ、俺も。
色々とそれどころじゃなかったからね。蜂スタートだったからね。
「ああ、探険だよ。地上を探険することが俺の趣味でな」
「探険ですか」
「別に珍しいことじゃない。探険団は私的にも公的にも多いんだ」
随分と危険な探険な気もするが、そういうものなのだろうか。
あれかな? RPGとかにおける冒険者的なイメージなのかな?
「猿とも思えねぇ奇声だか悲鳴だかが聞こえてな、駆け付けたんだよ。
他の探険団の奴だったりしたら助けようと思ってな」
「ああ、あれか……ヒルにたかられて叫んだんだっけ……」
「お? 沼ヒルか? 何だ惜しかったな。あれは高値で取引されるんだ。
食ってよし、薬品にしてよし、呪いに使ってよしの三拍子でな」
うわー、探険って凄く野性的ですねー。俺には無理そうです。
でもこの人に保護されるってことは、俺も探険するんだろうか。
いや、でも、生死の境目の下には行けないよな。お役に立てないわ。
どうもこうもないくらいに、わかってないことだらけではあるが。
恩を受けてそのままってのは有り得ない。初めは助けて貰うにしても。
何とか恩返しをしたい。そうでないと申し訳がない。
……元の世界に帰れるかどうかも、ベルマリア次第という気がする。
転生ってのは正直なところ意味不明だが、少なくとも詳しいはずだ。
既に調査しているはずだ。転生者探しだけをしたとは思えない。
なんて、うむうむ考えていると、声をかけられた。
「ほら、見えてきたぜ?」
雲の峰の向こうに、それは浮いていた。
空の青と雲の白との壮麗な景色の先に見えてきたのは、岩の山脈。
ただし天地が逆だ。下向きに尖った稜線を描く、岩の茶色。
それを下部として、上部に見えるのは。
木々の連なり、丘陵の膨らみ、建築物の尖塔、レンガの壁。
都市だ。牧歌的な風景のなかに人の営みの様々が見える。人々がいる。
「浮島だ。この世界の人間が暮らす場所だ」
「ら、ラピュt」
「違ぇよ。もっとでけーだろが」
浮島。
雲海ならぬ境海を見下ろして空を行く島。人々の生活の場所。
その威容は、ここが異世界であることを、俺に決定的に納得させた。
ワクワクした。圧倒されると同時に、ワクワクしたんだ。
この時の俺には、その風景は夢と魔法のワンダーランドに映っていた。