第8話 塵屑
「ほぉー、流石の悪食も鬼は喰えんと見える。大発見じゃのぉ!」
オクタヴィアの大げさな物言いに、仮面たちがドッと笑った。
既に勝敗の決している。昨晩の闘いを知る人間には物足りない
経過と結果だったようだ。知ったこっちゃない。
いや、でも、見ごたえはあったと思うのだが?
だって、俺、バックドロップ15連発くらいかましたし。
いや違うか……鉄兵バスターだよ、鉄兵バスター。もう開き直りだ。
「おい……食うなよ? あと……脱ぐなよ?」
例によって合羽の後始末奴隷たちがわらわらと出張ってきている。
中でもクリスは俺の係となっているらしく、露骨に警戒していやがる。
カバディだかディーフェンスだか知らないが、阻む気満々だ。
「鬼に素手で勝つ男じゃ、もはや裏闘技に相手はおるまい。そこで我は、
この男……我らではわからぬ食の好みをする『悪食』を、上闘技の場へ
誘おうと思う。どうじゃ?」
歓声が沸き起こった。さり気なく二つ名の打診もしてるんだな。
闘技場の責任者というのは伊達じゃないか。興行師だよ、この人。
予想だにしない相手、そして結末だったが、上々だろう。
後は望みが受け入れられるかどうかだが……この流れならいけるか?
問題は望みを言うタイミングだな。この場でその機会が得なければ。
「うむ、では決まりじゃ! 明日より、悪食は上闘技の闘士として……」
悲鳴が上がった。
それは子供の声だった。
仮面の子供などいない。子供は合羽だ。後片付けの奴隷たちだ。
オクタヴィアの発言を遮るなど、あってはまずいことだろう。
悲鳴は肉の潰れる音でもって終わった。
その子は死んだ。殺された。流血のバシャリと広がる音。
鬼だ。
鬼が、殺ったのだ。
起き上がるなり、鬼は、俺を目掛けて走り出した。無様に、獰猛に。
俺は、それを、見ていた。
痺れたように身体で、べたつくようなトロトロの時間の中で、それを。
俺と、鬼との、間に、クリスがいた。
振り向いたクリスの、その小さな身体が、吹き飛んでいった。
障害物を振り払った鬼は、口腔を大きく開き、牙も露にして、俺へ。
身をひねっただけの俺は、ショルダータックルを喰らった形で、飛ぶ。
視界が滅茶苦茶に回転した。口の中に砂の味。硬い物にぶつかった。
暴力の塊のような、その鉄の棒……無要。
「無様な! 止めを刺せぃ、悪食!!」
雷鳴のようにオクタヴィアの声が轟く。ビクリと身体に活が入った。
目の前に迫る鬼。剥き出しの牙。赤々とした舌と、喉の奥と、命の熱量。
時は止まったかのようだ。
全部が見える。この場の全部が、俺の後頭部まで含めて、分かった。
奴隷の子が1人死んだ。クリスの小さな身体も、壁際に横たわっている。
俺の背後には3人の奴隷の子。合羽の奥に恐怖が張り付いた顔がある。
魔法の気配もする。オクタヴィアだ。これは水属性の魔法力。
それを最大として、他にも複数の魔力を感じる。観客の中にいる兵士だ。
火、雷、土、光……いや、光ならもっと強い力があるぞ。俺の退場口だ。
アントニオさんだ。こちらへ向かって走り出したところか。
その拳が光っている。それが拳豪の力か。光の魔法力で強化した拳。
そうか……もう……駄目なんだ。
もう、どうあっても鬼は殺される。
俺が生きようが死のうが、関係ない。
或いは、俺も殺されようとしているのかもしれない。
目が合っていた。静かな、物問いたげな、赤黒い瞳。人間の目。
綺麗なそれに俺が映っている。馬鹿野郎が映っている。屑野郎が。
下から無要を大きく一振り。
爆発音すら発生させて、鬼は、血と肉と骨とに粉砕されて散った。
一部は仮面たちの席にまで届いた。多くは雨のように地へ降ってくる。
浴びる。浴びながら、歩く。無要をひきずる。地面をえぐって進む。
クリス……クリス……駄目だ……この傷では、もう……。
血を吐き、息も絶え絶えなクリスの、その側に膝をつく。肘をつく。
頬を撫でる。クリスの頬には涙が流れている。もう言葉も話せない。
映っている。この綺麗な瞳にも、俺という阿呆が映っている。
最後に長く小さく息を吐いて……クリスの何かが失われた。変質した。
もうここにクリスはいなくなった。クリスだった死体だけが、ある。
「見事じゃ! 今の一撃を見たか、これこそ悪食の真骨頂である!」
俺は、何を思い上がっていたのだろう。
「素手でも鬼を卒倒させるぞ! 武器を使えば跡形も残らぬぞ!」
俺は、何という失敗をしたのだろう。その思い上がりで。
「この者こそは純粋戦士! 我らの想像を超えた、物理的暴力の具現!」
俺は、俺を……叩き殺したい。この場で、今すぐに、グチャグチャに。
「荒ぶる魔獣の如きこやつを……人類の叡智たる魔法で破るは、誰か!」
だが、それをしては、更に失うモノが増えるだけだ。失敗が増えるだけ。
殺すべき自分を殺すことすらできない、そんな、屑だ。俺は。
「明日の上闘技を、楽しみにすることじゃ!」
見渡す。
仮面たちの口元の1つ1つが、笑みを、愉悦を、興奮を表現している。
唾を飛ばして口々に何かを叫びあっている。俺に何かを投げつける。
1つが側に落ちて、中身が漏れた。金貨だ。
こっちへ来て初めて見た貨幣だ。この日、この時、この場で、初めて。
初めて俺は、こっちの世界の金銭を見たんだ。こんな状況で。
ああ……全てをご破算にしてしまいたい。
全部が全部、滅茶苦茶にしたい。
この悪夢が夢なのか現なのか、わからなくなるほどに、完膚なきまでに。
全て壊し尽くして、何もかもを何でもないものへと、戻してしまいたい。
思うだけで、何も出来ない俺は、ただ、座っていた。
左手に無要を。右手はクリスのくすんだ金髪に添えて。
ただ……座っていたんだ。
上闘技に参加する闘士には、1人1人に個室が与えられる。服も自由だ。
俺は元の服に着替え、無要を抱えて、部屋の隅にしゃがんでいた。
無要に触れていると伝わってくる冷気がある。感じ取れる気配がある。
耳を澄ませば聞こえてくるものがある。それらを呼吸する。
「悪食様、そろそろお時間にございます」
扉の外から係員の声。立つ。無要をかついで廊下へ。
「道すがら本日の試合をご説明いたします」
前を行く係員は風の魔法を使うようだ。
前を向いたままでも、その声が耳元に聞こえてくる。
「それぞれに誉れ高い後見を持つ闘士様方、16名による勝ち上がり戦で
ございます。敗れたならばそれきりにございますれば、少なくとも1度、
多ければ4度の試合に参加することになります」
サラサラと言葉が流れていく。
「武装は飛び道具も含めて自由、魔法もまた自由にございます。唯一、
薬物等の使用だけは禁止されています。服用も塗布もおやめください」
会場は壁に囲まれた独立した建物で行われるようだ。
門をくぐり、更に陣幕をくぐって、そこへと到着した。
白い陣幕で囲われた広い空間。白い砂利が敷き詰められている。
奥の一段高く整地された場所には、この空間を見渡すように建築物。
階段状の多層構造と座席とが、それが観戦のための施設と教えている。
座席は全て空だが、係員が控えている。
「この場にて平伏してお待ちください。追って他の闘士様方がお見えに
なります。その後、各家門のお歴々がお出でになられるでしょう」
言われるままに膝をつき、平伏した。脇に置いた無要が重みでめり込む。
待つ。白砂に落ちた自分の影を見つめ続ける。背中に日差しの熱量。
足音が幾つもあって、何やら口上があって、言われるままに面を上げて。
いつの間にか満席になっていた観戦施設に、思いがけない人を見つけた。
ジンエルンだ。
赤羽屋敷の別館に暮らす彼は、その病弱からほとんどを屋内にて過ごす。
俺につけられた監視の目もあり、最初の遭遇以降、数えるほどしか顔を
見ていなかったのだが。
……誰とも知れない人の何ともわからない口上が続いている。空を見る。
青い。のっぺりと傷一つない青。遠く遠く、手が届かないゆえの、青。
そこには何もない。何一つない空色。空っぽの大空間。
いつの間にか口上は終わったようだ。係員にうながされ、陣幕の外へ。
示された場所で待つ。空が大きくなった気がする。人工物は邪魔だ。
「まさか君が上闘技に選抜される日が来るとはね」
耳元に声。見回すが他の参戦者たちではないようだ。
「僕だよ、ジンエルンだよ。君が出ると聞いて、思わず見に来ちゃったよ」
ああ、風の魔法か。彼はそれが使える。
「人間、努力すれば何とかなるものなんだね。君を見ていると僕ももっと
頑張らなきゃって気になるよ。あはは」
人間。努力。
「……とと、もうすぐ始まるか。忠告したいことがあって声を飛ばしてる
んだった。いいかい、君、試合中の事故に気をつけるんだ」
試合。事故。
「君は狙われている。複数の闘士にだ。理由は……横恋慕、になるのかな。
その、僕を推す人たちが、君と姉上との仲をいい加減に吹聴してるから」
横恋慕? ベルマリアとの、仲?
周囲に目を向けてみる。そこかしこで待機している闘士たち。
目線を合わせないように確認していったところ、見覚えのある者もいた。
赤羽屋敷で見かけたことがある男たちだ。求婚者か。
「過剰な攻撃は暗に禁止されている試合だけど、君については意図的に
それをされるかもしれない。ここでの殺人は罪に問われないしね」
殺人。
「気をつけて。試合の組み合わせ自体、君に猛者が当たるようになってる」
猛者。猛者か。
この場には俺以外に白髪などいない以上、全員が魔法を使う戦士だ。
人を殺めるための効率的な魔法の数々……望むところじゃないか。
殺せるものなら殺せばいいんだ。
上闘技に参加した時点で、俺は最低限の目的を果たしている。印章を
失ったことも問題にされない段取りだ。赤羽家が青嶋家に貸しを作る
というおまけもつく。それがどれほどの価値だか知らないが。
いいじゃないか。ここで死ぬことは随分と楽な選択肢だ。
ベルマリアからの恩義に報いず、クリスと名も知らぬ奴隷を死なせた
罪も背負わず、ただ無様に白砂利を赤く染めて死ぬ。安楽だ、それは。
いつしか名を呼ばれ、真四角に切り取られた真っ白の中に立つ。
白々しいな……全てが白々しい。すまし顔で整えられていて、軽薄だ。
誰だかが向かい合って立った。試合か。殺してくれるんだっけか?
やってみろ。やってみろよ。
自分で自分を殺すことは逃げだが、誰かに殺されるなら逃げじゃない。
屑は屑なりに頑張ってはみたと言い訳できる。それがしたいよ、俺は。
ほら……どうした、やってみろって、おい。
お前、ふざけてるのか? そんな火炎で俺を殺せるとでも?
何ともお粗末な剣じゃないか、おい。俺の皮膚には傷もつかない。
意味ねぇから折るわ。ほら、何か魔法で来いよ。あ? 参りましたぁ?
次はお前か。そんな遠くで跳ねてないで、さっさと近づいてこいよ。
おい、背中に回らせてやったってのに、何だよその槍は。貫くどころか
勝手に折れちまいやがって。アホか。ほら、魔法で来いよ、魔法で。
……そよ風じゃねーか。服ばかり切り刻んで、どういう趣味だ、お前。
首を斬れよ。腹を裂いて中身をぶちまけてみろよ。あ? 参っただぁ?
下らない遊びはいい加減にしてくれ。お前ら、ちょっと裏に出て来い。
血を吐いてみろ。肉を失ってみろ。浴びろ。浴びせろ。血油を。
どうした、3人目。かかって来いよ。こっちは構えてもいないだろが。
電撃か。それならもっと出力を上げろ。ほら、早くしろよ。ほら、ほら。
そう、そうだよ。その調子だ。もっと近づいてやるから、さっさとやれ。
遊んでんのか? 低周波治療を受けたいんじゃねーんだよ、馬鹿が。
何震えてんだ。自分で感電したってか? 立てよ。腰抜かしてんなよ。
ほら、立てって……あ。
「ぎゃああああああ!?」
何て脆い……腕がもげちまった。首をつかまなくて良かったな、こりゃ。
吹き出る血潮。少しもいい匂いのしない、軽薄な魔力。放り捨てる。
下らない。
下らなすぎる。
見上げる空ばかりが大きい。他の物はどれもこれもがオママゴトだ。
薙ぎ払ってやろうか。全ての形あるモノを有耶無耶にしてやろうか。
何もかもを混然一体として、その渦の中に……沈んでしまいたい。
「お相手、いたす」
4人目は……あんたか、アントニオさん。
あんたなら、どうだい?
その光る拳で……俺を殺してくれるかい?