第4話 魔物
拝啓
空の青々とした半球っぷりに出会いの頃を思い出す日々です。
キッカさんにおかれましては益々ご清栄のことと存じます。
このたびは闘技場へ己の戦技を研鑽すべく出向いた私ですが、
様々な手続きと日程の事情から、一週間前後は戻れない按配
となりました。激しい戦いの予感に筆の震える思いでおります。
不肖の私にご指導いただいた全てを十二分に発揮し、必ずや
誇らしい結果を出したいと考えています。
詳細につきましては帰還した後に口頭にてご報告いたします。
末筆ながらご自愛のほどをお祈り申し上げます。
「結語に……敬具、と。年号はわかんないっと。高橋、テッペイ」
テッペイとカタカナで書くところがポイントだ。和洋折衷な文化だよ。
キッカさんへのお手紙、こんなもんでいいだろう。嘘は言ってないし。
多くのことをぼかしつつも、嘘じゃない。これ大事。
のけぞるとギイっと嫌な音が鳴った。古びた椅子だ、気をつけよう。
四畳半ほどのこの部屋は、壁も床もは石の剥き出しで、窓も小さい。
率直な感想で言えば牢獄のようだ。排泄用の壺とかあるし。
ここは剣闘奴隷用の控え室。
これでも抜群の待遇なんだってさ。普通は個別の部屋なんて使えない。
戦歴の優秀な者のみが許される空間がここだっていうんだから。
どんだけ恵まれてたんだろうね、俺。頭ではわかってたけど。
考えてみれば普通に牢獄だもんな、この建物全体が。奴隷は財産だから
常に行動を監視され、逃亡しないよう隔離される。プライバシーなんて
何それ美味しいのって世界だ。あちこちに兵士も立ってるし。
……クリスの寝床はどんな所なんだろう。どんな物を食べてるんだろう。
俺が赤羽のお屋敷で暮らした1年間に、どんな暮らしがあったんだろう。
奴隷って、何だろう。
孤児や難民の類はむこうでも幾度か見てきた。貧困が不治の病のように
蔓延して、暴力がコミュニティを席巻し、女性や子供が理不尽な苦労を
強いられている様も見た。性搾取も客引きの先に見受けられた。
でも、奴隷が合法化された社会を俺は知らない。白昼堂々と人間を売買
する様子なんて見たことがない。悪事としての類似行為はあったのかも
しれないが、それは悪事であって、権力の象徴なんかじゃなかった。
ベルマリアはアルメルさんを所有物のように扱ってはいなかった。
だが、それは彼女の中身が日本人のおっさんだからであって、こっちの
常識からすれば非常識なやり方なんだ。本来の形はまるで違う。
クリスは物だ。まだ子供なのに。あんなに賢いのに。優しいのに。
アントニオさんもまた、物だ。オクタヴィアの態度は彼を尊重している
ようでいて、珍しい元奴隷を取り扱っているに過ぎない。
俺もまた、オクタヴィアというこの世界の権力者の目から見たならば、
人の形をした生ける道具に過ぎないのだろう。自分の所有物ではない
というだけの、自分と同等の命であるはずもない、卑しい存在だ。
奴隷を認めるというのは、そういうことなんじゃないか?
人は誰もが人なのであって、例えば働き蜂と女王蜂のように、産まれ
ながらに別種であることを決定されてやしない。身分なんて後付けだ。
所属する社会がその運営上の理由で価値を創り、区別を明示する。
人が人を差別するんじゃない。人間が人間を区別するんだ。
生物としての人ではなく、社会に属する人間が、他者を自分とは異なる
生物であるかのように決めつけ、それを疑問にも思わずに、納得する。
納得した末に、人間が物になる。奴隷が創られる。尊厳が踏み躙られる。
逡巡のない傲岸不遜が支配を恒久化させて、弱きを汚きへ変えていく。
……俺はこんな社会を好きになれない。
「用意はできたか? 君の参加する競技が決まったぞ」
入り口の布……鍵どころか扉ですらないその仕切りを払って現れたのは、
アントニオさんだ。隆々たる筋肉の上に鎮座する顔が、訝しげだ。
「……何で、衣装を着ていないのだ?」
「いや、だって、ここ、蚤かなんかいますって! 体がムズムズする!」
すいません、用意どころかパンツ一丁でごめんなさい! だって!
ちょっと仮眠したらさ、何かくすぐったくてさ、跳ねてるの見たもん。
嫌な予感はしたんだよ。全裸就寝派としてさ、この荒ぶる寝具にさ。
マジで天国だったよ、赤羽屋敷。ホテルクオリティだったもの。
駄目だ。ここん社会は清潔を手に入れるのに費用と立場が必要なんだ。
そんなんいくない、いくないよ! 病原の諸々に勝ってこうよ!
衛生観念って大事なんだよ、ホントに、命のために超重要なんだよ。
水周りは特にそう。次いで寝具。これは個人的な欲求だけども。
「手紙は預かった。必ず届けさせよう。だからとにかく服を着るのだ」
「は、はい……ごめんなさい」
何か物凄くガッカリされた気がする。ないわーって感じに首振ってる。
うう……だって衣装にたかってるっぽかったんだもん。跳ぶ連中が。
叩いて振って、恐る恐る着衣。いや、別に裸でいたい訳じゃないのよ?
っていうかさ。
着替えろったってさ、この剣闘士用の衣装っていうやつ、何なのこれ。
腰まわりはともかく、他が割とむき出しです。半裸に近いです。これ。
布が全体的に足りてない。革ベルト的な部分が逆に多すぎる。
あ。
あーあー、はいはい、なるほどなるほど。
汚れ着だからかな? うん、そうだよね、この変とか血の染みだよ。
革部分にもよく見ると傷多いもんね。いやー、そうかそうか、へぇー。
テンション駄々下がりでアントニオさんの後をとぼとぼ追う。はぁ。
鉄格子に仕切られた向こうとこっちとは、まるで違う。暗く不衛生で
鉄錆の血の匂いが立ち込めている。鍛冶の音が不機嫌に響いている。
もう、死に物狂いで闘うよりないんだ。これはドナドナさ。
案内されたのは武器庫のような広間だった。槍や剣、兜や盾なんかが
整然と並べられている。ベンチのようなものも幾つかあって、照明も
そこそこ明るい。何だ? ちなみに監視の兵士の数も多い。
「ここにある武具は剣奴が自由に使っていい物だ。参加する競技に併せて
選び取るといい。簡単な整備ならそこの金床を使って行える」
「自前の剣は使えないんですか?」
「競技によってはな。剣が不利な闘いもある。選択肢は多くすべきだ」
拳だけで勝ち続けたって人に言われても、ちょっと説得力がないぞ。
だが盾と槍はいいかもしれない。地上を思い出す。対人ならともかく、
猛獣や魔物と戦うんなら必要になる。使い方も習得済みだ。
ふーん……壊れ物ってわけでもないのか。普通に兜だし、普通に盾だ。
剣も砥がれてるし、槍も鋭い。よく手入れされていて整備無用だけど。
その一方で、槌や杖の類がないな。理由を考えると胸糞悪いね。
そんなに血が流れるところが見たいのか?
よーし、ナイス出血! 行け! 刺せ! 殺せ! ってか?
何か……ちょっと腹立ってきたな。
刃物の鉄に反射する照明が、チカチカとして、俺をイラつかせる。
武器を管理し、暴力を管理して、奴隷を管理して……何様のつもりだよ。
何を根拠としての傲岸不遜だ。人のくせに。人でしかないくせに。
全部、ぶっ壊してやったら、どうなるだろうか?
胸がムカムカする。肺が燃えるようだ。血臭が鼻について離れない。
何もかも馬鹿馬鹿しくなってきたぞ? アホらしくなってきたぞ?
何が、楽しませるのじゃ、だ。自分は死なないという顔をしやがって。
その綺麗な御口に…………槍を突き立ててやろうか。
「君も、或いは私と同じかもしれんな」
「んへ?」
言われて、はたと気付いた。何だ、俺は何をやっていた?
アントニオさんは俺の手元を見ている。俺も見てみる。槍だ。その柄が。
木製の柄が、圧し折れていた。
魔物。
地上、重魔力環境下に凶暴化した動植物の総称だ。多種多様にして、
その何れもが修羅の申し子。血肉を貪り喰らう恐るべきモノたち。
浮島にあってはお目にかかるはずもない、それが。
それが、目の前で、人を殺している。
元は犬だろうか、狼だろうか、黒灰色のそいつは、牛のような大きさ。
血の色の瞳は4つ。牙は二重構造だ。口の中にも口がある。舌は紫色。
怨恨を形にしたような姿だ。噛み殺さなくてはいられないという在り様。
たった1匹のそいつが、既に、5人の命を奪った。
食べる目的じゃない。殺意だ。噛み砕き、引き裂き、振り回して、殺す。
効率的な行動じゃない。ただ1人1人を徹底的に破壊して、憤懣やる方
ないといった風に次の目標へ襲いかかる。その連続。
俺を含めて、あと半数、5人が残っている。だが戦意なんて皆無だ。
これは競技なんかじゃない。仮面だの覆面だのの見物客たちは、誰1人、
人間側の勝利なんて期待していない。無惨な死に方へ降ってくる笑い声。
ここはゴミ処理場なんだ。
剣奴養成所の厳しい訓練に落伍した者たちを、その命をグチャグチャに
することでせめてもの楽しみとする、そんな目的の。そんな目的で。
地上を思い出す。あの化物を前にした、ねっとりとした黄金の時間。
死を待つばかりのこの空間に、次が自分でないことしか望めないで、
ただ緩慢な動作で間合いを開こうとしている……他の4人が。
俺は違う。不思議とそんな気にはならないでいた。
目の前に展開された死が、凄惨な死の生産が、その連続が、酔わす。
酔っているんだ。それが一番的確な表現だ。血と死とに酩酊してる。
だからだろうか、身体が妙に軽い。羽毛の心地だよ。何だこれは。
スタスタと歩いて、あちこちに転がっている槍を拾う。3本、4本と。
柄を掴んだまま千切れた手首は、外す。邪魔だ。血も拭う。邪魔だ。
また歓声が上がった。誰かが殺されたらしい。また槍が増えるな。
取りにいこうと振り向いて、化物狼と目が合った。4つの狂猛な視線。
ああ、そうか。俺を殺したいか。やってみろ。
走り出そうとしたその鼻先に、槍を投げつける。外れた。牙が迫る。
横へ跳び退いて、もう1本投げつける。後ろ足の付け根に刺さった。
コツはつかんだ。次が本命だ。こちらに振り向いた、その犬面に。
投擲。
槍は顔面から入って腹に突き出た。
くぐもった吠え声と、撒き散らされる血の泡。苦しいだろうな?
歩み寄って、心臓のあるだろう場所に最後の槍をあてがい、刺し貫く。
驚くほどに血が噴き出して、全身にそれを浴びてしまった。
熱い。
熱くて濃厚な味と香りだ。これは……地上の、あの森の匂いだ。
懐かしいと感じている。奇妙に心地いい。心身が充実する思いだ。
それが当然のような気がしたから、しゃがんで、俺は。
俺は、化物狼の肉をむしり取り、食んだ。
もう一口。もう一千切り。噛み、飲む。
「おい、おい、あんた! おい!!」
誰かが俺を背中から抱きとめ、揺すっていた。貧弱な力だがしつこい。
見れば、クリスじゃないか。オンボロの合羽みたいなの着て、どした?
「目ぇ覚ませ! おい! おい! しっかりしろよ!」
真っ青な顔して、ガタガタ震えて、必死になって、どうしたんだよ。
この匂いは……ああ、クリスって女の子だったのか。わかりにくいな。
「終わった! もう終わったんだ! あんた、生き残ったから!」
終わった? 何が? 何も終わってないだろ。始まったばっかじゃん。
俺はまだまだ戦わなきゃなんないよ。あと何回だか知らないけど。
まぁ、でも……そうか、1つ目は終わったのか。
仮面のクソどもがざわついてやがる。どうした、喜べよ。赤いぞ?
これが見たかったんだろう? 大量の血の色じゃないか。なぁ、おい。
クリスと同じような合羽の子供らが、ちょっと前までは人間だった
部品を集めてまわってる。ああ、そうか……そういう仕事なのか。
……じゃあ、これも回収して貰わないと。
出来たらクリーニングしてください。蚤とか勘弁してください。
「ちょっ、あんた、何で脱ぎ出してんだ!? おい、待てって、おい!」
「あ……パンツも濡れてる。血で。勘違いすんな、馬鹿」
「馬鹿はあんただ!! や、やめろ、本気でやめろ!!」
あー、ヌメヌメして脱ぎにくいなぁ……。