第1話 火色
不思議な夢を見ていた。
真っ暗な夜に真っ白な雪原でぶっ倒れている俺。
照明にビカビカと照らされる中、たくさんの人に注目される俺。
暗い暗い海の底で海老の群れを眺めている俺。
脈絡がない静止画像だ。まあ、夢ってのは概ねそういうものだけども。
次いで、激しく動く視界。
飛んでいるのだろうか……いや、それとも水中だろうか?
水中だとしたらいよいよ訳がわからん。筋金入りのカナヅチだからね。
海もプールもいい思い出なんてありゃしない。
何が「頑張れ」だ。慈悲があるならこっち見んなし。
ビート板使っても息継ぎできないんだぞ。ケンケンした方が早いわ。
ウォータースライダーもさ、出口んとこ深すぎ。係員助けてマジで。
……夢でも泳いでみたいよ、くそぅ。
夏を堂々と過ごせる大学生だったなら、リア充になれたんだろうか?
自家製柴漬けを作るのに余念のない夏でなく、キャッキャウフフで。
はぁ……せめてイケメンだったらなぁ。
遊馬とか人生超イージーモードだもの。弟に嫉妬だよ。いいなぁ。
人生にキャラクターシートあったら、外見極振りとか面白そうだよね。
なんて。あはは。冗談ですよ?
ブサメンのちょっとした定期的現実逃避ですよ。愚痴ですよ。
人生は堅実たるべき。堅忍不抜。地味でも真面目に。人様のお役に。
ええ、わかってます。身の程はわきまえてます。清く正しく美しく。
だから……ね? 冗談でしょ? 冗談だと言って。夢なら覚めて。
さっきっからとんでもない音が聞こえているんです。
ブイイイインって、こう、濁ったプロペラ音みたいな重低の連続音が。
万力みたいなのでガッチリと服がつかまれててね、浮いてます。
恐る恐る目を開けてみる。おおぅ……。
森だ。大森林だね。巨大なブロッコリーの絨毯のようだよ。眼下に。
あの樹が仮に10メートルの高さだとして、今ここは地上何メートル?
20……30メートル位いっちゃうのかな。ははは。夢、夢、夢。
そーっと、首を動かす。限界まで眼球を横に動かして……おふっ。
夢決定。絶賛悪夢です。だって予想より酷いもん。
俺のこと咥えてるの、超! でかい! スズメバチ! だもんっ。
超怖い顔してたもん。目何個もあったよ? 虎か鬼みたいだったよ!
どっどどど、どういうことだよ! どういうことだよ! おおっ!?
夢でも嫌だよ! 夢じゃないっぽいから断固嫌だよ!!
うおお……音が嫌なんてもんじゃない。鳥肌がマッハ。頭痛してきた。
餌か? 餌なのか!? このまま肉団子とかにされちゃうのか!?
それは絶対に嫌だ嫌嫌嫌……あ……何か力抜けてきた。血管切れた?
……よし、もう、死のう。
夢でも夢じゃなくても、これは駄目。無理。この先には耐えられない。
下を見る。見渡す限りの樹海。落ちて死のう。うん。そのほうがいい。
しかし随分と濃い植生だよなぁ……どこだろう、ここ。
ギョロリと目を動かした感じ、富士山見えないし、あの樹海じゃない。
曇ってるからか薄暗くて不景気な景色だよ。鬱蒼としていて鬱陶しい。
ああ、今の樹には猿が5匹もいたな。見たこともない猿だった。
鳥や小動物も多い。今なんて鼠が徒党組んで猪みたいの襲ってたよ。
どれも可愛げなんてありゃしない。牙は長いし爪は鋭い。角まである。
どう転んでも何かの餌食かぁ。即死したいなぁ。
胸のボタンを静かに外していく。ダッフルコートのボタンは外しやすい。
ほら、あっという間に外し終わった。じゃあの、俺よりでかいスズメ蜂。
するりと腕が抜けて、重力が俺の身体を無慈悲に引っ張って。
「お……おおお……!」
ど、どてっ腹に風穴が開いたような、この、不快感んんんっ!?
息が、できないっ! 視界が、暗く狭まってく気がするっ!
これが……最初で最後の……自由落下体験か!!
とか思ったら、もう緑色がぁっ!?
「あ、ああっ、あ……くぁwせdrftgyふじこlp」
痛い痛い痛い痛い! 枝が枝が枝が枝が!
顔は、顔はやめて! 死にたいけど顔は痛いからやめて!
「げふぉふぅっ!?」
尻から着地して後転ですよ。2回転半。1人スープレックスだよ。
全身が痛いぃっ、打撲的にも、きしむ感じでもっ! ぐええええ!
って。
おいおいおいおい、い、生きてるよ……嘘だろ……。
あちこち痛いし擦り傷だらけだけど、別に骨とか折れてないっぽいよ。
ちょっと腰抜けちゃってるし、心臓バクバクいってるけど、無事だよ。
凄ぇ……何がなんだか意味わかんないけど、とにかく、凄ぇ!
あ、この音は?
やばい蜂だアイツだ探しに来たんだヤバイヤバイ!
とにかく逃げなきゃ。あんな化物、仮に銃持ってても勝てる気しない。
なるべく藪の濃いところを選んで退避だ。開けてるとすぐに見つかる。
「う、げふぅ!?」
足踏み外した……結構な高さをずり落ちたよ。泥まみれだ。
やたら生い茂ってるから気付かなかったけど、結構なアップダウン。
ジャングル的だ。蒸し暑いし、熱帯雨林系なのかもしれない。
……どこだ、ここ?
見知った植物が何もない。視界も見通すところがない。判断できない。
鳥だか猿だかの鳴き声は遠くに絶えず響いているけど、それじゃなぁ。
蜂の羽音が遠ざかったのだけが救いか。ちょ、ちょっと休もうかな?
はぁ……夢なら今からでも遅くない。覚めろ。くそ。
暑いったらない。3枚も着てる気温と湿度じゃないぜ。脱ごう脱ごう。
厚手のデニムシャツを腰に結ぶ。タートルネックは襷掛けにして結ぶ。
肌着まで長袖だもんな……いや、でも、藪とかあるし長袖は我慢だな。
うわ、カーゴパンツの下にタイツもはいてたっけ。蒸れるったらない。
脱ごう、と、思ったんだけども……お、おお……これ、は。
この、あんよにくっついてる、う、ウンぴーみたいなの、何?
太くて微妙に長い、茶黒のやつが、足に3匹もくっついてるよ?
とれない。凄くくっついてる。とれない……喰いついてるよ?
「ヒルだあああああああぁぁあぁあっっ!!」
デニムをグローブみたく腕に巻いてチョップ! チョーーップ!!
おらあっ、落ちろ落ちろぉっ、落ちてくださいいいいぃぃ!!!
落ちた! って、げ、この泥んとこヒルっぽいのウヨウヨいるよ!?
走るっ。走るっ。
この森おかしい、おかしいよ!
あんなヒル見たことも聞いたこともない。いや、そもそもあの蜂だよ!
どういう生態系だよ、あんな化物みたいな……突然変異とかってこと?
トレッキングシューズなのは幸いだ。み、見よ、この踏破力っ。
とりあえず岩場の上までやってきたよ。乾いている所がいいよ、うん。
息を整える。落ち着け俺、まずは落ち着いて考えよう。何か解決策を。
なんて。
解決できるなんて、そんな甘いことを考えた俺を笑うように。
そいつは現れた。岩場の奥の洞穴から、妙にゆっくりとした動きで。
一見したところゴリラのような外観。腕は四本で、爪が刀みたく長い。
首も違う。猿じゃない。蛇……いや、鰐か。牙の並んだ口腔が見える。
全身を覆っている毛は剣山のようだ。吐く息が紫色に目視できる。
化物だ。
正真正銘の化物だ。凶悪な暴力を形にしたような、その威圧的な有様。
俺とそいつとの距離は10メートル。俺に気付いてる。俺を見ている。
獲物を見る目。食べ物を見る目。俺を腹に納めて養分にする気なんだ。
ズルリと動いたピンク色の舌。その先は二股。ヤコブソン器官。匂い。
動けない。
蛇に睨まれた蛙って言葉の意味を体感してる。目を背けられない。
襲ってこない。このねっとりとした時間が、黄金の価値で俺を縛る。
死にたくない。だから動けない。動いたらすぐに殺されてしまう。
ああ、近寄ってくる。
本当にゆっくりとした動きだ。俺の時間間隔が狂っているんだろうか?
腹を見る。膨らんでいる。妊娠なわけない。何か獲物が入ってるんだ。
蛇は獲物をまるっと呑み込む。だがコイツは牙がある。消化期間は?
後ずさる。目は背けずに。1歩。2歩と。
しきりに舌を出し入れする化物。反応する様子はない。3歩、4歩。
息を吸う。吐く。自分の鼓動音を聞く。化物は首を下げた。かがんだ。
来るのか?
いや、違う、顎を地面につけてじっとしている。震動を聞いてるんだ。
蛇は耳がよくない。地面に首をつけて獲物の接近を知ろうとするんだ。
でも、どうして? 獲物は目の前にいるってのに。くいっと首を上げた。
次の瞬間。
爆発が起こった。火の玉が飛んできたのがチラっと見えた。また来た!
今度ははっきり見えた。やっぱり火の玉だ。爆発。痛っ、頬に飛礫だ。
化物が苦しんでいる。唸り声をあげた。走りだそうとしたが、できない。
目の眩むような電気の光。雷のようなものが化物に命中したようだ。
四本の手が地面をつかむ。痺れたのか。体中が小刻みに痙攣している。
「掛かれえぇぇぇえ!!」
雷が飛んできた方から、武装した男たちが群がり出てきた。手には槍。
次々と化物に襲いかかり、槍を突き立てていく。10人。皆マッチョ。
兜も鎧も統一されているから、兵士か何かなのだろうか。刺しまくる。
化物も抵抗しようとするが、動きが鈍い。目も見えていないようだ。
さっきの爆発熱か。見れば目が白濁としている。舌も変色して灰色だ。
仮にピット器官、一部のヘビが持つ赤外線感覚があったとしても駄目だ。
……何か俺、詳しいな。妙に。
ヘビ好きだったっけか? 何となくは知ってたけど固有名詞までとか。
そんなことを考えながら、化物が殺されていく様子を眺めていた。
いつの間にか尻餅をついていた。変に疲れて身体を動かす気がしない。
気温も何もかも感じない。色々麻痺して、視界だけが全てだったんだ。
だから、なお一層、衝撃的だった。
森の奥から最後に現れた人物がいる。2人の屈強な兵士に護られて。
一目でわかった。彼女が兵士たちの指揮官で、さっきの火を放ったんだ。
燃えるような火色の……緋色の髪が目に焼きつくようだ。
強い意志を閃かせる宝石のような瞳は、右は金色、左は銀色。その神秘。
白く柔らかなラインを描く頬も、気品を感じさせる鼻梁も、繊細で美麗。
光っているようにすら見える。凄い。綺麗ってこういうことか。際立つ。
悪夢の中に舞い降りた女神。周囲の全てを灰色に消し去って。
細い首の下はマントや鎧に覆われていて、腰には剣、手には杖を持つ。
魔法使いという言葉を連想させる。彼女はそれを使ったんじゃないか?
圧倒的な存在感に、他が何も見えなくなりそうだ。これも魔法なのか。
彼女が俺を見た。
口を開く。何かしゃべるんだ。何をしゃべる? 何を聞かれる?
「ゲロゲロ、日本人じゃねーか。どういうこった。何モンだ手前ぇ?」
俺はとっても残念な思いを噛みしめた。