第十一章 嫉妬 「汝、その大罪を見つめることなかれ。さもなくば海の大蛇が、汝の目を刳り抜くであろう」
卑徒の襲撃。城塞都市の魔族たちの誰もがそれを知覚していた。
彼らは一瞬にして恐慌に陥った。それは魔王軍の者たちにおいても例外ではない。
魔族たちにとって、卑徒とは即ち災害だ。決して抗うことの出来ない、強大なる摂理そのものなのである。
その災害が都市の目と鼻の先に存在するとなれば――真っ先に怯え、恐怖するのが正しい姿だといえる。
故に、その場に居た者たちの中で卑徒の前に立ちふさがった影がたった二つであったのは、致し方ないことだろう。
《黒の隊》隊長、テオドール。そして副隊長のミラージュであった。
「……まさかこれほどとはな。兵が怯えるのも無理はない。だが、やれるなミラージュ?」
「……自分は、既に命など惜しくないでありますよ隊長。むしろゾクゾクしてきたであります」
彼らとて恐怖を覚えていないわけではない。むしろ戦闘狂と言っても過言ではない彼らが怯えるほどに、卑徒の魔力が膨大すぎるのだ。
しかし、テオドールとミラージュは笑っていた。全身の毛を逆立てながらも、闘争の予感に打ち震えているのだ。
卑徒は彼らを一瞥することすらない。無邪気な笑みを浮かべて、森林地帯の上空から都市を睥睨するのみ。
それが狂戦士たちの神経を逆撫でした。恐怖を憤怒が上回る。
テオドールが大斧を、ミラージュがガントレットを構え、大樹を垂直に上っていく。
「……うん? 何かボクに用でもあるのかな」
ようやく卑徒レヴル・レヴルが二人を認識した。
テオドールが咆える。今の今まで路傍の石ころ同然に扱われていたことが我慢ならないのだ。
「卑徒め――その驕り、喰い千切ってやる!」
テオドールの下肢が膨張。魔力によって強化された体躯が爆発的な瞬発力を生み出し、大砲の如き勢いで突貫。
魔力を帯びた大斧が振るわれる。その破壊力は都市の大門すら容易く粉砕して余りある。
だが。
「ボクの邪魔をしないで欲しいんだけどなぁ。ねえ、犬ッコロの君――キャンキャン五月蠅いよ。黙ってろ」
テオドールの一撃を、卑徒は片手で受け止めていた。
受け流すでも、弾くでもなく。まるで聞き分けのないペットをあやすように。
その時、テオドールは見た。卑徒の瞳を。無色透明の、原始とも呼ぶべき虚無を見てしまった。
「隊長殿っ!」
ミラージュが叫ぶ。空を蹴り卑徒の背後へと回り込むと、強烈な右拳を見舞った。
卑徒の首筋を狙った一撃は確かに直撃した。だがそれは卑徒に何の疼痛も与えられない。
卑徒レヴル・レヴルがテオドールの斧を離して反転。ミラージュを視界に収めると、右手を伸ばした。
「くっ…………!」
再度空を蹴って回避するミラージュ。僅かでも反応が遅れていれば、卑徒の右手から放たれた一条の光がミラージュの心臓を穿っていただろう。
卑徒は笑っている。彼にしてみれば、動物と戯れているだけなのだろう。
沸騰するような怒りがテオドールとミラージュを支配した。遊ばれている。《黒の隊》を預かる二人の戦士が、こうも容易く弄ばれている。
その事実を否定するようにして二人が跳躍。さらにミラージュがテオドールの大斧に乗り、四肢を折りたたんだ。
「俺たちを、舐めるなぁああああああああああああああっ!」
黒の狼が大斧を一閃。打ち出されるようにして跳んだミラージュの拳が敵に迫る。
「あははっ、いいね。そうこなくっちゃ……もっと面白い芸を見せてよ。暇つぶしには丁度いい」
卑徒が右腕を振るうと、光の矢が出現。魔力によって編まれた三本の矢が黒猫へと放たれる。
「この、程度……っ」
ミラージュは身を引きちぎられるかのような激痛に耐え、魔力をフルに放出。音速をさらに超え、光の矢すら踏み台にして手刀を繰り出した。
「はぁあああああああああああああっ!!」
「へえ……でも残念、届かないよ」
雄たけびを上げるミラージュをあざ笑うように、レヴル・レヴルの掌から光の壁が生み出される。
そのまま壁に直撃すれば挽肉になるだろう。レヴル・レヴルは半ば確信にも似た表情を浮かべた。
ミラージュが壁に激突し、見るも無残な姿に――
刹那。彼女の姿が掻き消えた。
驚愕の声を上げる暇もなく、卑徒が回避行動をとる。背後に現れたミラージュの手刀は僅かに卑徒の翼を掠めるに止まった。
しかし彼女はこれ以上ないほどの手ごたえを感じていた。これまで余裕を崩さなかった卑徒が、防御どころか回避したのだ。
「ミラージュ、羽だ! 奴の羽を狙え!」
「……っ、了解であります隊長殿! あれが奴らの弱点でありますね!」
卑徒の端正な顔から表情が消える。狂気の色がその両眼に迸った。
「……家畜が飼い主に手を上げるなんて、躾がなってない証拠だね。少し教育してあげよう」
異変は、やはり唐突だった。
レヴル・レヴルの天使のようなあどけない姿が変異する。彼の体中の穴という穴から、鱗を持つ赤黒い触手が這い出てきた。
眼窩の奥から、あるいは口腔から、もしくは毛穴から――見るものを発狂させる、おぞましい変貌であった。
咄嗟に退避するミラージュだが、逃がさないとばかりに触手が彼女を取り囲む。
「させるかぁっ!」
飛来する黒影。テオドールは触手の群れを叩き斬ろうとするが、予想を遥かに超える硬度に弾き返すのが限度だった。
ミラージュを抱え、空を蹴り後退。しかし触手は振り切れない。
「ははははははははははっ、逃がさないよ子犬ちゃん!」
口から触手を吐き出しながらも哄笑するレヴル・レヴル。ついにその一本が、二人を貫かんと肉迫し。
「――待たせたな。だが、主役は遅れてやって来るものだ。そうだろう?」
さらに飛来した一つの影が、それを断ち切っていた。
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私は黒い外套をはためかせ、右手に魔力で編み出した刃を携えて卑徒を睨み付けた。
「カズキ、貴様……!?」
「きゅ、救世主どのぉおおおおおおおおおお! 待ちわびたでありますよ!」
地面に着地したテオドールとミラージュの驚嘆の声。正に間一髪といったところだったが、何とか間に合った。
私は魔力を固めた足場を作り空中に静止する。そして敵を睨み付けた。悪魔のような相手を。
卑徒が私の視線を受けて、合点がいったとばかりに両目を見開いた。
「あは……あははははははははっ、そうか君か! 君が異世界人の男か! 嗚呼、嗚呼……会いたかった。君はとっても良い、最高だ。だから、ボクのモノになっておくれよ」
「お断りだ触手野郎。ギュスターヴを卑徒化させたのはお前だな」
ならば、こいつが卑徒レヴル・レヴルで間違いなかろう。私を観察していた視線の主もこいつだ。今も粘りつくような目で私を見ている。
奴から溢れ出る魔力は尋常ではない。恐らくは私とほぼ同等。なるほど、化け物だ。
「ギュスターヴ……? さあ、そんなのもいたかもしれないね。でもそんなことはどうでもいい。さあ、ボクと遊んでよヒューマン!」
触手がうねる。ギュスターヴのものとは桁違いの魔力量だった。一本一本が大蛇の如き威圧感を放っている。
私は空を駆けた。右手の魔力刃で触手を切り裂きながら、左手で雷撃を放つ。
触手の群れが盾となり雷撃を阻む。瞬時に再生した触手がさらに硬度と大きさを増して迫るが、これを業炎と氷刃が押しとどめた。
地上のエイミーとコトネだ。さらにはエディとグローリアが魔術を発動。出現した巨大な二本の腕が、触手を引き千切る。
「カズキ君、やはり君は……!」
「妾に吸血される前に死ぬでないぞ。お主は妾の下僕になる運命なのじゃからな」
《紫の隊》副隊長と隊長の、驚愕と軽口が飛ぶ。
都市を守護しなければならないリーネを除けば、ここには最高戦力が集っている。負ける要素など見当たらない。
次いで、エイミーとコトネの声援。
「カズキ、任せたわよ! アンタに勝てる奴なんかいやしないわ!」
「……お兄ちゃんなら、余裕でしょ?」
おおとも。大船どころか空母に乗ったつもりでいるがいい。
魔力を集中し、同時に雷速で卑徒を翻弄する。卑徒が右手を突き出した。まるで、私を捕まえようとするかのように。
私をすり潰そうとする触手の群れを回避し、本体へと向けて極大の魔力砲を打ち出す。
「……まさか、こんなものじゃないよねぇ?」
卑徒が右手を払った。蚊でも叩き落とすかのような何気ない所作。
それだけで、私の魔力砲が跡形もなく消滅していた。
「ほう、流石は卑徒といったところか。しかし見くびってもらっては困るな。私の欲望はこんなものでは終わらない」
「あはっ、それを聞いて安心したよ。でもさぁ」
卑徒が視線を下へと向ける。私を援護するべく魔術を放つエイミーたちを苛立たしげに見つめながら、指を鳴らした。
すると、地上の空間がねじ曲がる。異変を察知したエイミーたちが飛び退くと、そこには卑徒の眷属が出現していた。
「君たちは邪魔だ。ボクと彼の遊びに横槍を入れないでくれよ。だから全員……死ね」
転移魔術――卑徒が使うとされる超級魔術か。それで眷属を呼び出したらしい。
次々と現れる眷属たちに、エイミーたちは釘づけにならざるを得ない。
卑徒は満足気に微笑んだ。眷属如きに後れを取ることはないだろうが、それでも援護は期待できない。
「さあ、これで遠慮はいらない。もっと羽ばたいてボクを魅せてよ。その薄汚い殻を脱ぎ捨てて、ボクと同じになろう?」
「私に眷属になれと? ふん、美少女の頼みならばともかく、グロショタの頼みなぞ聞くものか。それに、私は誰かの物になるつもりなどさらさらない」
私の返答に、卑徒レヴル・レヴルはあからさまに落胆した。玩具を買ってもらえなかった子供を連想させる。
「そっか。じゃあ……無理やりボクのモノにするだけだ!」
「生憎だが、触手プレイはされる側ではなくする側でね!」
軽口を叩く余裕があれば問題ない。いつも通りの私だ。ならばいつも通り、やりたいことをやり通すまで!
触手を相手にしたところで、あの再生力では意味がない。本体、それも側頭部から生えた翼を狙うべきだ。
魔力で編み出した漆黒の剣を強く握る。さらに雷を両足に纏い、疾風迅雷の如く距離を詰める。
魔力剣が弧を描き卑徒に迫る。レヴル・レヴルが触手で応戦。触手の群れを切り裂くも、勢いが削がれ天使の翼には届かない。
「う、ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
振り下ろした魔力剣の一部を噴出させ、無理やりエネルギーに変換する。有り得ない速度で放たれた二斬撃だが、卑徒が無造作に腕を振るうと呆気なく消滅してしまう。
至近距離で視線が交差する。無色に濁った瞳が、私を凝視していた。
眼窩の奥から伸びた触手を掌底で弾く。後退する卑徒へ雷撃を纏った蹴りを放つ。迸った轟雷がレヴル・レヴルを襲った。
「ぐっ……!」
初めてダメージらしいダメージが入る。が、その程度で仕留められる相手ではない。
私は瞬時に左肩後方から魔力を放出させる。体が四散するような痛みに耐え、捨て身の一撃を放った。
左拳が奴の翼に届く直前――触手が私の腹を貫く。衝撃に狙いが逸れ、卑徒の横っ面を吹き飛ばすに止まった。
文字通りレヴル・レヴルの美しい顔の半分が抉れ、その中身を晒している。
「あは、あはははははははははっ! 痛い、痛いなぁ。こんなに痛いのはいつ振りだろう……いいなぁその力。妬けるなぁ……」
卑徒は平然と笑っていた。穿たれた顔から鮮血と共に触手が溢れ出てくる。なんともおぞましい光景だ。
私はその時、追撃を選べなかった。明確な隙だったというのに。本能的に危険を察知していたのだ。
飛び退くようにして距離を取り、腹を抉る触手を引き千切った。もしあのまま奴と繋がっていたら、きっと取り返しのつかない事態になっていただろう。
「貴様、私を卑徒化しようとしたな。そもそも、何故貴様たちは魔族を襲う? 卑徒化には一体どういう意味があるのだ」
私は傷を修復しながら問うていた。意味などないのかもしれない。吸血鬼が血を吸い下僕を増やすように、そういう生態なのだと言われればそれまでの話なのだが。何故だか、そんな風には思えない。
卑徒は呵呵大笑する。
「何故……何故だって? それを君が聞くのか? ボクたちがしていることは、君と全く同じだよ。そう、何も変わらない。何も……ね」
「私と同じだと……?」
謎めいた言葉は、しかし真実だと直感が告げていた。その意味は相変わらず理解できないまま。
私が泥沼の思考に嵌っていると、地上から叱咤が飛んできた。
「何をやっておるか! そやつの言葉に耳を貸す暇があるならさっさと戦え! そして殺せ!」
声は地上で眷属を蹴散らすグローリアのものだった。日中は日除けのために使われていた魔傘グロリアスは、閉じた状態でドリルのように回転する。
『ギャハハハハハハハハッ! 久々の血だぁ、もっと寄越しやがれ!』
紫色の吸血鬼が踊る。立ちふさがる眷属たちを貫き、突破。次々と鮮血の華を咲かせながら月に吠えていた。
無論、グローリアたちだけではない。エイミーが蹴り穿ち、コトネが一刀両断し、テオドールが粉砕し、ミラージュが翻弄し、エディが蛇腹剣で切り伏せる。
自らの眷属が倒れ伏す様を何の感慨もなく見下ろしていたレヴル・レヴルが、興が削がれたとばかりに首を振った。
「できれば君とは純粋に一対一で楽しみたかったんだけど……無粋な輩がこんなにいたんじゃあ盛り上がらないや。次に会うときは、ボクのモノにしてあげるからね――トウジョウカズキ」
そう言い残して、卑徒は転移魔術を発動する。蜃気楼のように空間が揺らぎ、ブレるのを感じる。
「逃がすかぁああああああああああああああああああっ!」
私は咄嗟に疾駆していた。ここで奴を逃せば、必ずや破滅が訪れると――そんな予感に突き動かされるように。
「なっ……!?」
驚愕の表情。卑徒レヴル・レヴルは完全に虚を突かれた様子だったが、既に転移魔術は完成してしまっていた。
全身が揺らぎ、高次元の渦に囚われてしまったかのような錯覚を受ける。
間に合わなかったか!
私の悔恨をよそに、転移魔術がその効力を発揮した。体どころか魂ごと抜き取られていく苦痛に耐えながらも、卑徒を睨み付ける。
こいつの転移先が卑徒の本拠地ならば好都合。そのまま敵の巣に入り込めるというのなら、これを逃す手はない。
「カズキィイイイイイイイイイイイイイイイッ!」
誰のものともしれぬ叫び声を背後に受けながら、私は次元の狭間へと呑み込まれていった――。




