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第一章 滑落 「何から?」 「――世界から」

 人間よ、欲深くあれ。


 それは父の口癖だった。父は人間の欲望を誰よりも愛し、慈しみ、そして尊んでいた。

 欲望とは即ち原動力。車にとってのガソリンのようなもの。人は欲に従って食事をし、睡眠をとり、子を成す。

 欲望によって金に溺れることも、犯罪を犯すこともあるだろう。しかし、欲そのものが悪であることは決してない。


 生きたいと願うのも。殺したいと思うのも。守りたいと誓うのも。犯したいと欲するのも。その全てが欲望から来る感情の発露に過ぎない。

 最も獣性に満ちた本能的な欲望こそが、人を人たらしめる最大の要素なのだと、父はそう皮肉げに嘯いていた。


 だからなのだろうか。私がこの《異世界》とやらに誘われたのは、ともすれば必然だったのかもしれない。

 いや、それも目前で佇む自称魔王に聞いてみればいいだけの話である。知識欲もまた、人間の持つサガだ。


「……何故、私を選んだのだね?」


 魔王の蠱惑的な唇が躍る。返答はナイフよりも鋭く私の胸を抉った。


「あなたが、世界で一番性欲が強いからです」



 人間よ、欲深くあれ。

 たとえ性欲が強くとも、欲望は決して――決して、悪ではないのだから。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 私がまず感じたのは、叫びたくなるほどの疼きだった。


 濁流に飲まれながらも体の内側に直接焼き鏝を押し付けられるような、どうしようもない苦痛に狂いそうになる。

 全身が地球のそれとは全く異なる法則に組み替えられていく錯覚。脳内を無数の蛆が這い回るかのような不快感、とでも形容すべきだろうか。

 しかしそのような状況下に置かれても、私は自己を手放そうとはしなかった。

 

 私の名は、東城一輝。これは一番大事なものだ。私を形容するたった一つの記号。

 年齢、十八歳。モットーは「やりたいことをやりたいようにやり放題やってやれ」


 そんな私の纏っていた皮が、剥がれるような音を奏でていた。聞くに堪えない不協和音。何故だか、生まれ変わった気分にさせられる。

 瞬間、浮遊感が私を襲った。赤黒いブヨブヨとした肉壁の間を落下していく。粘り付く粘液に怖気が走る。

 堕ちている。正確には、滑り落ちている。


 ――何から?

 ――世界から。

 それは、果たして自問自答であったのか。どこからか、そんな声が聞こえたような気がした。


「――――――カ、ハッ!?」


 赤黒い何かから吐き出され地面に叩き付けられた私は、新鮮な空気を求めて必死に喘いだ。生への欲求が私を支配していた。

 しばらく蹲っていると、頭上から声が降ってくる。鈴を転がしたような、軽やかな声色。


「どうやら、成功したようですね」


 ほっと息を吐く音。

 誰だ。一体何を言っている。見事に職務放棄をかましてくれた視覚のせいで、目の前に薄らと人型の影があることしか把握できない。

 しかし聴覚は比較的マシな部類らしく、声の主が相当な美貌の持ち主であることを告げてくれる。

 細かいことはさておいて、美人とお近づきになれることは我が人生における最大の喜びだ。

 

 ズバリ勃起する。


 おっと失敬、これは適切な表現ではなかった。紳士的に言いかえると、そそり勃つ。


「大丈夫ですか? 少々強引な手順で召喚を行ったもので、こちらに不手際があったことは謝罪致します。さ、どうぞお手を」

「む。では失礼して……」

 後頭葉が仕事を始めてくれたらしく、徐々に視界が戻ってくる。差し出された手は処女雪よりもなお白く、その柔肌は触れただけで異性を虜にするだろう。


 ズバリ射精しそう。


 いまだに状況が呑み込めないが、ひとまず強く握っておくことにした。なんとか立ち上がると、私の目線より少し下に彼女の顔があった。

 私は、思わず息をすることを忘れていた。

 濡れ鴉を思わせる艶やかな長い黒髪に、同じく吸い込まれそうなほど深い黒瞳。潤いを帯びた淡い唇。余りにも整った顔立ちは一種の芸術を思わせる。

 いや、彼女の美貌の前では、どのような美辞麗句を並べたところで役者不足も甚だしい。


 そして。そして――


「…………羽?」


 いや、翅、だろうか。上品な黒地のドレスは大胆にも背中が大きく開いていて、そこから昆虫のものと思しき翅が生えていた。

 はっとなって辺りを見回すと、どうやら石造りの一室であるらしい。のだが、明らかに材質が既存のそれではない。加えて、髑髏型の悪趣味な照明が仄蒼い光を発しているときた。どこか部屋全体が禍々しい空気を帯び、陰鬱としたものを感じさせる。

 視覚異常か、あるいは夢幻の類か。冷静に考えてみれば、何もかもが現実離れしている。こんな美少女が現実に存在していいのか。していて欲しい。


「あー……その、だね。すまないが、ここはどこだろう」

 我ながら間抜けな質問である。もっと他に聞くべきことがあるはずだった。下着の色とか。

 彼女はかぶりを振って答えた。


「いえ、困惑するのも無理はありません。ですが、これだけはご理解下さい。ここはイシュトヴァーン――あなたにとっての、異世界なのです」

「…………」


 絶句である。異世界? なんだそれは。性質の悪い冗談か何かとしか思えない。

 だが、だがしかしである。今この瞬間、私にとってそんなことは路傍の石ころ同然の些事でしかない。

 この身を支配する欲望こそが私の生きる糧なのだ。人間よ、欲深くあれ。


「突然のことで驚かれているでしょう。これは我々魔族に伝わる禁術により――」


 黒の美少女がなにやら小難しいことを並べているが、無視。欲深くあれ。欲深くあれ。私は、導かれるようにして自らの欲求に従っていた。

 即ち――彼女の慎ましい胸を、鷲掴みにした。

 ばかりか、これでもかとばかりに揉みしだいた。


「な、なっ!?」


 これまで深刻そうな顔で語っていた彼女の頬に朱が差したのを見逃す私ではない。ふむ、年相応の表情も作れるではないか。仏頂面では折角の美人が台無しだ。

 あー、やわらかー。


「このっ……!」

 と、可愛らしい掛け声とともに繰り出されたのは、先ほど私を助け起こしてくれた右手だった。

 グーである。まごうことなきグーパンであった。拳は吸い込まれるように私の顎にクリーンヒット。

 いや、グーて。


「だがそれがいい!」

「はぁ……はぁ……わたしはもしかすると、とんでもないモノを呼びだしてしまったのでは……?」

 高らかに宣言した私に、彼女は荒く息を吐きながら虫どころかゴミを見下す目をしていた。当然である。


「しかしこれでよく分かった。どうやら……夢ではないようだ」

 痛みがある。痛みを伴う夢もあるらしいが、あの胸の感触は夢ではなかろう。夢であってはならない。絶対に。

 異世界、ねぇ。


「……不本意ですが、あなたが現状を認識してくれたのは良しとしましょう」

「うむ、まあ完全に納得がいったわけではないがね。ところで、君は?」

 あえて曖昧に尋ねたのは、彼女の背中の翅を考慮してのことである。


「わたしは、リーネ・アストラプスィテ。魔族を統べる王――魔王です」


 魔王。魔王ときたか。そういえば魔族がどうのと言っていたような気もするが。

 やはり現実感に乏しい。剣と魔法とお姫様の、よくある冒険譚のラスボスか。つまりタダで世界の半分をくれるとても優しい御方。


「その魔王様が、一体何故私をここに?」

 自称魔王――リーネは悲しげに眼を伏せた。舐めまわしたくなるが我慢する。


「この世界では、長くに渡って魔族と卑徒(ヒト)の闘いが繰り広げられてきました。ですが、我々は敗北したのです。いずれ卑徒はこの世界から魔族を駆逐し始めるでしょう。そうなる前に最後の手段として残されたのが……禁じられた召喚術。他の世界からの救世主を選定し、召喚する邪法でした」

「そうして召喚されたのが私、というわけか。いや待て、戦争するために呼ばれたのだろう?」


 生憎だが私は格闘技を嗜んでいた程度で、救世主と呼ばれるにはほど遠い。

 では無作為に召喚したのか? 違う、リーネは選定すると言った。つまり、なんらかの選定基準があったはず。それを私がクリアしていた?

 いや、それも目前で佇む自称魔王に聞いてみればいいだけの話である。知識欲もまた、人間の持つサガだ。


「……何故、私を選んだのだね?」


 魔王の蠱惑的な唇が躍る。返答はナイフよりも鋭く私の胸を抉った。


「あなたが、世界で一番性欲が強いからです」


「……………………あ?」


 何言ってんのコイツ。

 リーネの可憐な唇から紡がれたとは思えない単語を耳にしたような。


「あれを見て下さい」

 と、リーネが指差したのは私の背後の壁――から生えた、どこからどう見ても巨大な女性器としか考えられない代物だった。

 今にして思えば、私はあそこから吐き出されてきたのだろう。得も言われぬ恐怖を感じて、背筋が震える。


「あれはこの世界とあなたのいた世界とを繋ぐ《臍の緒》。あなたの世界の法則を捻じ曲げ、こちらの法則へ強引に適応させる変換機としての役割を果たします。ほら、言葉がちゃんと通じているでしょう?」


 ふむ、確かに不思議と言葉は通じている。私も彼女も日本語で話しているように思えるが、実際はこちらの法則で動いているということか。


「……ということは。私のいた世界での性欲をこちらの法則へと組み替えると――」

「はい。我々の力そのものともいえる魔力へと変換されます。つまりあなたは今、このイシュトヴァーンで最も強力な魔族だと言っても過言ではありません」


 なんということだ……。まさかこんなご都合があっていいのか。まかり通るのかそれは。

 性欲がそのまま強さになると? もしもその言葉が正しければ、私は地球上で最も性欲が強いと同時にこの世界で最も強い存在だということ。


「つまり、チートか」

「ちーと、とは何ですか?」

「大した苦労もせずタダマンできる連中のことだ」

 そして、どうやら私もその一人らしい。やったね!

 馬鹿げている上に胡散臭いことこの上ないが。


「私がその魔力とやらを持っていると、どうやって証明する?」

「簡単なことです。実際に使ってみればいいのですよ。もう、使い方は理解しているはず」


 私は右腕に魔力を集中した。まるで最初から知っていたように。呼吸をするのとなんら変わらぬ容易さと当然さをもって、魔力の波動は迸った。

 漆黒にして無形の塊が、凄まじい速度で壁を穿った。イメージは弾丸。ただそれだけのことで、堅牢な石造りの壁が跡形もなく消し飛んだ。

 なるほど。こちらの法則に組み込まれた以上、言語と同じく当たり前のように使いこなせるというわけだ。

 ……やべ、壁壊しちゃったよ。


「す、すまん。上手くコントロールできなかったようだ」

「いえ、流石です。正直、私も眉唾ものだと思っていましたが……今ので一目瞭然でしょう」

 パチンとリーネが指を鳴らすと、瞬く間に壁が修復されていく。この世界に適応した私には、魔力を使って修復していることが一目で分かった。

 魔王の名は伊達ではないようだ。チート性能であるらしい私をしても、リーネの魔力には底が見えない。 


「……信じるしかなさそうだな、これは」

「そう、あなたには力がある。どうか……わたしたちを救ってはいただけませんか」

 リーネは深々と頭を垂れた。魔王である彼女が頭を下げるということがこの異世界ではどのような意味を持つのかは定かではないが、その声色からは悲痛なまでの覚悟が滲んでいる。


「無理も無礼も承知の上です。こちらの勝手な都合で呼び出し、いきなり助けを求めるなど……本来ならば、あってはならないこと。わたしに出来ることならば何でもします。ですから、どうか……どうか……!」

「うむ、構わん」

「そこをなんと、か……? あ、いえ、今なんと?」

 キョトンとするリーネ。小鳥のように小首を傾げる仕草が実に愛らしい。


「だから、構わないと言ったのだ」

「そ、それはありがたいのですが……何故そんな簡単に? 例えどれだけ強くとも、死の危険は付いて回ります。本当に、よろしいのですか?」

「ふむ。では今のところは協力は惜しまないとでも言っておこうか。まだ卑徒とかいう敵の姿形も分からないうちから即答されたのでは、困惑するのも当然というものだ。先ほどの言動は浅はかだった、すまない」


 少なくとも、まだこちらの覚悟は伝わっていないと考えるべきだ。

 私はやりたいことをやりたいようにやるだけで、そこには純粋な欲求しか存在しない。とはいえ、そのような精神構造を理解しろというのも無理な話だろう。

 人間よ、欲深くあれ。ついぞ誰一人として理解を示してはくれなかったが。

 つまるところ、私に美少女のお願い事を断ることなどできないのである。

 ――それに、元いた世界に未練など欠片もない。


「いえ、こちらの方こそ考えが足りませんでした。答えを急くつもりはありません。そうですね、まずはこの世界のことを理解していだだくのが先というもの」

「では案内を頼むとしよう。できればお美しい魔王様にお願いしたいところだが」

 と私が言うと、リーネはうっ、と息を呑み薄らと赤くなった。どうやら直球に弱いらしい。その反応だけでご飯三杯は余裕も余裕。

 わざとらしく咳払いをしてから、リーネは仕切りなおすように言った。


「リーネ、で構いませんよ。そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね」

「東城一輝、ただの紳士だ。好きなように呼んでくれたまえ」

「トウジョウカズキ、ですね。よい名前です。ようこそイシュトヴァーンへ――あなたがこの世界を気に入ってくれることを祈りましょう」

 リーネが扉を開く。身を焦がすような陽光に呻きながらも、私はこの世界での一歩を踏み出した。


 ――今度は、滑り落ちることのないように。

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