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第7話 テレシネ・ラプソディ

 1.  フィルムの匂い、銀幕の亡霊

 昭和二十九年、初夏。  

 東京の街には、映画『ローマの休日』のポスターが溢れ、オードリー・ヘップバーンの「ヘップバーン・カット」を真似た若い女性たちが銀座を闊歩していた。  

 そんな華やぎとは裏腹に、JMT(日本民間テレビ)のスタジオ裏にある一室には、酸っぱい酢のような匂いが充満していた。

「……またフィルムが泣いてるな」  

 工藤誠は、リールに巻かれた35ミリフィルムの束を指でなぞった。

 映画会社から流れてきた誠にとって、この匂いは故郷の匂いであり、同時に「過去」の匂いだった。

 この部屋に鎮座しているのは、導入されたばかりの『テレシネ装置』だ。  

 現代の視聴者には馴染みのない言葉だが、要するに「映画フィルムをテレビ信号に変換する機械」である。

 巨大な映写機とテレビカメラを向かい合わせに結合したような不格好な装置で、フィルムに刻まれた「完成された過去」を電波に乗せて茶の間へ送り出す。

「工藤、何を感傷に浸っている。点検を急げ」  

 佐伯が、真っ白な手袋をはめて現れた。

 彼はテレシネの導入を「テレビの近代化」として熱狂的に支持していた。

「これがあれば、役者が本番中に倒れる心配も、真空管が焼ける恐怖に怯えることもない。完璧に編集された映像を、決まった時間に、決まった品質で届けることができる。これが真のプロフェッショナルだ」


 2.  ライブの魂、缶詰の映像


 誠は、佐伯の言葉に言いようのない反発を感じていた。

「佐伯さん、これじゃあ『缶詰』じゃないですか。テレビの良さは、今この瞬間に何かが起きるかもしれないっていう、あのヒリヒリした温度にあるんじゃないんですか?」

「温度で腹は膨れないよ。スポンサーは安定を求めているんだ」  

 佐伯は冷淡に、テレシネの映写機にフィルムを装填した。  

 今夜の目玉番組は、映画会社から特別に購入した短編映画の放送だ。

 生放送ドラマの失敗を恐れる上層部にとって、テレシネは救世主だった。

 だが、この「近代化」は別の場所で、小さな寂しさを生んでいた。  

 誠が仕事帰りに立ち寄ったいつもの長屋。

 共同井戸の端で、おタキさんがポツリと漏らした。

「誠ちゃん、最近のテレビは、なんだか行儀が良すぎるねぇ。前はね、画面の向こうで誰かが一生懸命なのが伝わってきて、こっちも背筋が伸びたんだけど」

 庶民は、映像の「綺麗さ」だけを求めているわけではない。  

 自分たちと同じように、失敗し、汗をかき、それでも必死に生きている「人間の気配」を、青白い光の中に探していたのだ。


 3.  燃え上がる過去


 放送本番、五分前。  

 テレシネ室の緊張感は、生放送のスタジオとはまた違う、静かな、しかし濃密なものだった。 「テレシネ、スタート!」  

 黒岩ディレクターの指示とともに、映写機の強力なアーク灯が点火された。  

 カタカタカタ……と小気味よい音を立てて、フィルムが走り出す。

 モニターには、往年の名優たちの鮮やかな演技が映し出された。

「完璧だ」  

 佐伯が安堵の息を漏らした、その瞬間だった。    

 異変は、誠の鼻が捉えた。

「……焦げ臭い!」  

 映写機の中で、フィルムがわずかに弛んだ。

 当時のフィルムは可燃性が極めて高く、強力な照明の熱を一点に浴び続ければ、数秒で発火する代物だった。

 プツン、という音とともに、モニターの映像が、茶色いシミのようなノイズに飲み込まれていく。

「フィルムが焼けた! ゲートで止まってる!」  

 誠が叫んだ。

 映写機の中では、名優の顔が熱で溶け、小さな炎が上がっていた。

「火を消せ! 放送を止めるな!」  

 佐伯が真っ青になって飛び出した。

 だが、機械的なトラブルは、人間の熱量ではどうにもならない壁がある。

 フィルムを繋ぎ直すには、最低でも数分はかかる。


 4. 昭和の「間」を繋ぐもの


「放送事故だ……。テストパターンを出せ!」  

 サブのスタッフが絶望の声を上げた。  

 だが、誠はテレシネ室を飛び出し、隣の空っぽのスタジオへと走った。  

 そこには、次の番組のために用意されていた、手書きのフリップと一枚の紙芝居があった。

「黒岩さん! 三番カメラをこっちに向けてください! 僕が時間を稼ぎます!」  

 誠は、カメラの前に躍り出た。  

 モニター越しに、茶の間のおタキさんたちが、真っ暗になった画面を不安げに見つめている姿が浮かんだ。  

「……えー、ただいま機械の具合が悪くなっております。申し訳ありません!」  

 誠はカメラに向かって頭を下げ、手元にあった紙芝居をめくり始めた。

「フィルムが直るまで、私がこの物語の続きをお話しします。……さあ、ここからが面白いところですよ!」

 それは、近代的なテレシネとは正反対の、あまりにも前時代的な光景だった。  

 だが、その瞬間、JMTの電波には、再び「人間の体温」が宿った。  

 テレシネ室で、必死にフィルムを繋ぎ合わせる佐伯。  

 スタジオで、汗だくになりながら拙い喋りで時間を繋ぐ誠。    

 近代技術の「失敗」を、古い人間の「根性」が補完する。  

 それこそが、昭和二十九年という時代の、歪で、かつ美しい姿だった。


 5.  ハイブリッドの夜明け


 三分後、佐伯の執念によってフィルムは再び回り始めた。  

 誠はカメラの前を退き、暗いスタジオの隅で膝を突いた。

 心臓の鼓動が耳元まで響いていた。

 放送終了後。  

 佐伯が、油と煤で汚れた手袋を脱ぎ捨てて、誠のもとに歩み寄った。

「……工藤。君のあの無様な紙芝居のせいで、局の品位はガタガタだ」  

 佐伯の言葉は厳しかったが、その目は笑っていた。

「だが、あの三分間、視聴率は一台も落ちなかったそうだ。……誰も、テレビの前を離れなかったんだよ」

 佐伯は、焼け焦げたフィルムの切れ端を誠に手渡した。

「技術は万能じゃない。だが、情熱だけでも飯は食えない。……これからのテレビには、僕のシステムと、君の『アホな悪足掻き』、その両方が必要なのかもしれないな」

 誠は、そのフィルムの切れ端を光に透かしてみた。  

 溶けた名優の顔の横に、自分の指紋がベッタリと付いていた。    


 昭和二十九年、夏。  

 テレビは、テレシネという新しい武器を手に入れ、一歩前へ進んだ。  

 だが、その機械を動かしているのは、どこまでも泥臭い、不完全な人間たちなのだ。    

 誠は長屋への帰り道、夜空を見上げた。  

 どこかの家から、再び笑い声が聞こえてくる。  

 それは、完璧な映画の続きへの笑いなのか、それとも、誠のあの無様な謝罪への笑いなのか。    

 どちらにせよ、今夜も電波は、誰かの孤独を温めていた。

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