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第6話 泥流の証言 ―台風13号の中継―

 1.  暴風の前奏曲


 昭和二十八年九月二十五日。  

 JMT(日本民間テレビ)の報道フロアに備え付けられたテレタイプが、悲鳴のような音を立てて印字を吐き出し続けていた。

「……九三二ミリバール。こいつは化け物だぞ」  

 佐伯が、鉛筆を握りしめたまま天気図を睨みつけていた。

 帝大出の彼が、これほどまでに余裕のない表情を見せるのは初めてだった。

 台風13号。

 のちに「テス」と呼ばれるその巨大な渦は、潮岬を越え、凄まじい速度で北上していた。

「黒岩さん、中継車を出しましょう」  

 誠が詰め寄る。

 だが、黒岩ディレクターはパイプを噛み締め、黙殺した。

「今の機材で、この雨の中、何が映せる? カメラは湿気に弱く、ケーブルは泥に浸かれば一発でショートだ。放送事故を垂れ流しに行くようなもんだぞ」

「でも、おタキさんたちの長屋は、もう床下まで水が来てるんです!」  

 誠の叫びに、フロアが静まり返った。

 昨日、蕎麦屋で見たあの穏やかな光景が、今は泥濁りの底に沈もうとしている。

「……工藤。僕が行く」  

 佐伯が立ち上がった。

 その手には、最新のポータブル録音機ではなく、スタジオ用の重たいマイクと、不格好な「マイクロ波」の送信機があった。

「記録じゃない。生放送だ。今、水がどこまで来ているか、それを茶の間に見せなきゃ意味がない。システムが壊れるのを恐れて、命を捨てるのか?」

 黒岩がゆっくりと顔を上げた。

 その目には、狂気にも似た「テレビ屋」の光が宿っていた。

「……誠、佐伯。死ぬなよ。だが、が途切れたら、お前らの存在価値はないと思え。行け!」


 2.  闇と泥の戦場


 JMTの文字が書かれたトヨペットの中継車は、荒川の土手を目指して暴風の中を突き進んだ。  

 ワイパーはもはや役に立たない。

 窓の外は、雨というよりは「水の壁」だった。

「設営だ! 急げ!」  

 土手に到着した瞬間、誠は車を飛び出した。  

 風速四十メートル近い突風が誠の体を浮かせようとする。

 百キロ近いイメージオルシコン・カメラを、三人がかりで土手の上に担ぎ上げる。  

 誠は、カメラに厚手のゴム引き布を巻き付け、隙間をガムテープで塞いだ。

「佐伯さん! マイクロ(波)の向きは!?」

「入らない! 受信側の中央塔が見えないんだ!」  

 佐伯は、泥だらけになりながらパラボラアンテナを抱えていた。

 送信機と受信側の塔が直線で結ばれなければ、映像は電波にならない。

 だが、この暴風雨ではアンテナを固定することすら不可能だった。

「俺が支える! 工藤、お前はカメラを回せ!」  

 佐伯がアンテナの支柱に抱きついた。

 エリートの面影はどこにもない。

 眼鏡は吹き飛ばされ、泥水にまみれた顔で、彼は必死に「電波の道」を作ろうとしていた。


 3.  絶叫の生中継


「JMT、中継開始まで、三、二、一……!」  

 インカムから黒岩の怒号が届く。  

 誠はファインダーを覗き込んだ。

 だが、何も見えない。

 レンズに叩きつけられる雨粒が、すべてを白く塗りつぶしている。

「クソッ、見えねえ!」  

 誠は躊躇なく、カメラのレンズフードを素手で引きちぎり、自分の上着をカメラに被せて「ひさし」にした。  

 一瞬、視界が開けた。  

 ファインダーに映ったのは、荒れ狂う荒川の泥流だった。

 濁流は土手のすぐ下まで迫り、流木や、誰かの家の屋根、そして家財道具が恐ろしい速さで流されていく。

「映ってるぞ! 工藤、そのままキープだ!」  

 サブからの絶叫。

 茶の間には今、この地獄のような光景がリアルタイムで流れている。  

 おタキさんの長屋で、蕎麦屋で、人々はこの画面を見て「逃げろ!」と確信しているはずだ。

 その時、土手の一部が崩れた。

「佐伯さん!」  アンテナを抱えていた佐伯の足元が沈む。

「離すな! 画が消えるぞ!」  

 佐伯は泥の中に膝まで埋まりながら、なおもアンテナを離さなかった。

 彼の肩越しに、濁流が牙を剥いて迫る。

「佐伯さん、もういい! 逃げましょう!」

「ダメだ……今、逃げたら、あのお婆さんたちの『光』が消える……!」  

 佐伯の声は、風の咆哮にかき消されそうだった。  

 誠はカメラを固定し、佐伯の腰にケーブルを巻き付けて自分の体に繋いだ。

「一緒に撮りましょう! 佐伯さん! これが、僕たちのテレビだ!」


 4.  泥流の証言


 中継時間はわずか五分だった。  

 だが、その五分間、日本中の受像機には「今まさに決壊しようとする堤防」と、命がけでそれを伝える男たちの、ノイズだらけの絶叫が流れた。    

 放送が切れる直前、誠はカメラをパンさせ、浸水が始まった街並みを映した。  

 闇の中で、人々の振る懐中電灯の光が、必死に助けを求めている。  

 それは、映画のような「物語」ではない。

 今、この瞬間に起きている「現実」だった。

「……送出、終了。二人とも、すぐ撤収しろ! 堤防が持つ保障はねえぞ!」  

 黒岩の、震えるような声がインカムに響いた。


 5.  嵐のあとの沈黙


 翌朝。  

 台風は通り過ぎ、東京には不気味なほど静かな青空が広がっていた。  

 誠と佐伯は、泥だらけのまま局の屋上に立っていた。    

 下界には、浸水した街並みが広がっている。

 だが、昨夜の中継を見た多くの人々が早めに避難し、犠牲者は最小限に抑えられたという報告が入っていた。

 佐伯は、泥で汚れた手帳を見つめていた。

 そこには、昨夜彼が命がけで守った「電波の角度」の計算式が、滲んで読み取れなくなっていた

「……工藤。僕は間違っていたよ」

「え?」

「テレビは日常を届けるものだと言ったが、それだけじゃない。テレビは、絶望の淵にいる人間に『独りじゃない』と教えるための武器でもあるんだな」

 佐伯の手が、小さく震えていた。  

 誠は、何も言わずにその肩を叩いた。    


 昭和二十八年、秋。  

 台風13号は、多くのものを奪っていった。  

 だが、その泥流の中から、テレビという新しいメディアは「信頼」という名の、何物にも代えがたい種を手に入れた。    

 誠は、遠くに見える長屋の方角を見つめた。  

 おタキさんは無事だろうか。  

 昨夜、あの青白い画面に映った泥の奔流を見て、彼女は何を想っただろうか。    

 工藤誠と佐伯航太。  

 二人の若き放送人の心には、泥水の冷たさと、電波を繋ぎ止めた手のひらの熱さが、消えない刻印として刻まれていた。

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