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第5話 路地裏の受像機(レシーバー)

 1.  茜色の長屋、青白い光


 制作現場の熱狂から一歩外に出れば、東京はまだ、空襲の爪痕をあちこちに残す「煤けた街」だった。  

 誠が暮らす墨田区の長屋は、都電の終点からさらに歩いて十分、入り組んだ路地の奥にある。

 夕暮れ時になると、どこの家からも味噌汁の匂いと、炭が爆ぜる音が漏れ聞こえてくる。


「おかえり、誠ちゃん。今日もあの『電気芝居』の仕事かい?」  

 共同井戸で洗濯物を畳んでいたおタキさんが、皺の寄った顔で笑いかけてくる。

 彼女は空襲で夫と息子を亡くし、今は小さな内職をしながら一人で暮らしている。

「ああ、おタキさん。今日はこれから、近所の蕎麦屋にテレビが届くんだろ?」

「そうなんだよ。みんな朝からそわそわしちゃって。一八万円もするんだってねぇ。家が一軒建つじゃないか」

 おタキさんの言う通り、その日の長屋はどこか浮き足立っていた。  

 路地角にある蕎麦屋『長寿庵』の親父が、商売繁盛の起死回生を狙って、月賦で東芝製の十七インチ受像機を買い入れたのだ。


 2.  招かれざる客と、無言の儀式


 夜七時。

『長寿庵』の店内は、蕎麦を注文するわけでもない近隣の住人たちで埋め尽くされていた。

 誠もその片隅に陣取った。  

 土間に敷かれたゴザに、大人も子供も正座して座っている。

 それはまるで、かつての神社の祭りを待つような、静謐でいて狂おしいほどの期待感に満ちた光景だった。

「出るぞ……出るぞ……」  

 誰かが呟く。

 親父が仰々しく、テレビの前に掛けられた「目隠しの布」を剥ぎ取った。  

 現れたのは、磨き上げられた木製のキャビネット。

 その中央に鎮座する、冷たいガラスの瞳。

 親父が震える手でスイッチを入れる。

 キーン、という高い電子音が響き、真空管が暖まるまでの長い「沈黙」が続く。  

 やがて、画面の中央から白い光の点が現れ、それが横に広がり、青白い映像が浮かび上がった。

「おおお……っ!」  

 地鳴りのような歓声が上がった。  

 映し出されたのは、なんてことはない、夜のニュースを読むアナウンサーの顔だった。

 だが、人々にとっては、それが「未来」そのものだった。


 3.  おタキさんの涙


 誠は、群衆の中に座るおタキさんの横顔を見つめていた。  

 彼女は、食い入るように画面を見つめている。

 映っているのは、銀座の華やかなネオンや、流行の最先端を行くアメリカのニュース映画だ。

 ふと、おタキさんが目元を拭った。

「……どうしたの、おタキさん」

「いやね、誠ちゃん。不思議なんだよ。この箱の中にいる人たちは、みんな生きてるんだろう? 今、この瞬間に。……なんだか、死に絶えたこの街に、急に人が戻ってきたみたいでね」

 彼女にとって、テレビは単なる娯楽ではなかった。  

 狭い長屋で一人、炭の粉にまみれて内職をする孤独な夜。

 ラジオの「声」だけでは埋められなかった欠落を、テレビの「光」が埋めていた。

 画面の中で笑う人々、走り回る子供たち。

 それは、彼女がかつて失った「日常」の再来だった。

「あの中に、うちの息子みたいな若い衆が映るのを待ってるんだよ」  

 おタキさんの言葉に、誠は胸が締め付けられる思いがした。  

 自分たちがスタジオで怒鳴り合い、汗を流して作っている番組が、これほどまでに切実な想いで受け止められている。

 それは、佐伯が語る「情報の価値」でも、黒岩が叫ぶ「芸術の爆発」でもない、もっと根源的な*「救い」に近い何かだった。


 4.  佐伯の「視察」


 ふと見ると、蕎麦屋の入り口に、似つかわしくない上質なコートを着た男が立っていた。  

 佐伯だ。  

 彼は腕を組み、冷めた目で群衆を見ていたが、その手にはノートではなく、小さな受像機の部品が握られていた。

「佐伯さん、どうしてここに」

「……マーケット調査だ。局のモニター室で数字をいじっているだけでは、電波の『届き方』は分からない」  

 佐伯は店内を見回し、テレビを指差した。

「見ろ、工藤。あの画面の下。みんな、テレビの映りが少しでも良くなるように、アンテナを必死に回している。一秒の映像を観るために、彼らは生活を削り、祈るように画面を見つめているんだ。……僕たちの仕事は、この祈りを裏切ることだ」

「裏切る?」

「そうだ。彼らをいつまでも『街頭』や『蕎麦屋』に立たせておいてはいけない。誰もが自分の茶の間で、誰に遠慮することもなくこの光を享受できる時代。……つまり、この『熱狂』を『日常』にまで引きずり下ろすこと。それが、本当のテレビの完成だ」

 佐伯の言葉は冷たいが、そこには彼なりの、大衆に対する強烈な責任感が宿っていた。

 誠は初めて、佐伯の「効率」や「システム」への執着が、実はこの貧しい路地裏を救いたいという歪な情熱から来ているのではないか、と感じた。


 5.  心象風景の青い影


 放送が終わり、蕎麦屋から人々が引いていく。  

 おタキさんは、名残惜しそうに消えゆく画面の余韻を見つめていた。    

 誠は彼女の背中を見送りながら、長屋の自室に戻った。  

 窓を開けると、遠く新橋の方角に、JMTの送信塔が夜空に赤い光を点滅させているのが見えた。    


 昭和二十九年、春。  

 テレビはまだ、一部の者の贅沢品だ。

 だが、その青白い光は、人々の心に深く静かに浸透し始めていた。  

 それは、戦争ですべてを失った日本人たちが、再び「明日」を信じるための、細い、しかし消えない導火線だった。

 誠は机に向かい、次の企画案を書こうとした。  

 だが、その手は震えていた。  

 おタキさんの涙と、佐伯の冷徹な眼差し。  

 その両方を背負って、自分は明日もあの熱地獄のスタジオに立たなければならない。    

 電波は、単なる波ではない。  

 それは、誰かの孤独に触れるための、目に見えない「手」なのだ。    

 誠はそっと目を閉じ、今夜見た、蕎麦屋の天井を照らす青白い光の残像を、心に深く刻み込んだ。


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