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第2話 真空管の溜息

 1.  黄金の箱、高嶺の花


 昭和二十八年、秋。  

 日本民間テレビ(JMT)の給湯室で、誠は安物の粉茶を啜りながら、朝刊の広告を眺めていた。

「十七インチ、一八万円か……」  

 誠の月給は、諸手当を含めても一万円に届かない。

 大卒の初任給が八千円程度の時代だ。

 一般市民にとって、テレビは「夢」ですらなく、宝くじに当たるような「奇跡」の象徴だった。

「見ろよ、工藤。この数字を」  

 背後から、佐伯が計算尺を手に現れた。

 彼が差し出したメモには、都内の喫茶店や蕎麦屋に設置されたテレビの台数と、その周辺に集まる推定人数が書き込まれていた。

「今、テレビを見ているのは家の中にいる金持ちじゃない。道端に立っている数千人の群衆だ。彼らに届くのは、高尚なドラマじゃない。一目でわかる『衝撃』と『娯楽』だけだ」

 佐伯は、報道部が企画した「街頭テレビ実態調査」の同行スタッフに、現場経験のある誠を指名した。

 黒岩ディレクターが「外の空気を吸ってこい」と誠を追い出したのだ。


 2.  新橋駅前の「教会」


 二人が向かったのは、夕暮れの新橋駅前広場だった。  

 そこには、高さ三メートルほどの巨大な木製の「テレビ塔」がそびえ立っていた。

 その頂に鎮座する小さな白黒画面は、もはや家電ではなく、宗教的な御神体のようにも見えた。

「おい、押すなよ!」

「見えねえぞ、前の奴どけ!」  

 放送開始一時間前だというのに、広場は黒山の人だかりだった。

 復員服を着た男、買い物帰りの主婦、鼻を垂らした子供たち。

 誰もが首を痛めるような角度で、まだ砂嵐しか映っていない画面を凝視している。

「工藤、これが現実だ」  

 佐伯は手帳にペンを走らせる。

「この熱量を維持するには、理屈はいらない。プロレスの流血や、派手なダンス。それだけでいい。君がこだわる『視線』や『繊細な光』なんて、この人混みの中じゃ誰も気づかない」

 誠は反論しようとしたが、言葉に詰まった。

 確かに、この埃っぽい風が吹く広場では、繊細な美学など無力に思えた。


 3.  画面が消えた瞬間


 放送が始まった。画面に映し出されたのは、当時の人気ニュースキャスターの顔だ。  

 広場が静まり返る。

 人々は、その小さな口から語られる「新しい日本」の言葉を一言も漏らすまいと耳を澄ませた。  

 だが、その時だった。

 プツン、という音と共に、画面が真っ暗になった。

「ああっ!?」  

 悲鳴のような声が上がる。

 テレビ塔の中で、受像機の真空管が過熱で寿命を迎えたのだ。

「佐伯さん、予備の真空管は!?」

「そんなもの、ここに配置した営業部の管轄だ、俺たちの仕事じゃない!」  

 佐伯は冷淡に言い放った。

 だが、広場の空気は一変していた。

 期待を裏切られた群衆の熱は、一瞬で「怒り」へと変わる。

「金返せ!」

「放送局は何やってんだ!」  

 暴徒化しそうな勢いでテレビ塔に詰め寄る人々。

 警備員もいない現場で、佐伯の顔が初めて引き攣った。

「逃げるぞ、工藤。ここは危険だ」

「待ってください! 佐伯さん、この人たちは『ニュース』が見たいんじゃない。この場所で、みんなと一緒に『何か』を共有したいだけなんだ!」


 4.  泥臭い「実況」


 誠は佐伯の制止を振り切り、テレビ塔の裏側に回り込んだ。

 熱を持った木箱の扉をこじ開ける。  

 予備の真空管はない。

 だが、誠のポケットには、スタジオからくすねてきた小さな懐中電灯と、黒岩から渡された「次回の番組予定表」があった。

 誠はテレビ塔の台座に駆け上がった。

「皆さん、静かに! 故障ですが、すぐに代わりの話をします!」  

 誠は声を張り上げた。

「今、スタジオでは次の特番の準備が進んでいます! 脚本はあの黒岩大悟! 舞台は銀座、ヒロインは……!」

 誠は、まだ画になっていない物語を、身振り手振りを交えて「実況」し始めた。

 映画の撮影所で培った、情景描写の技術。  

 佐伯は呆然とそれを見ていた。

(バカか、あいつは……)  

 だが、不思議なことが起きた。

 誠の拙い、しかし熱のこもった「口先だけのテレビ」に、暴れかけていた群衆が再び耳を傾け始めたのだ。

 誠の言葉の中に、人々は自分たちが手に入れられない「黄金の箱」の向こう側を、必死に想像しようとしていた。


 5.  交差する視線


 一時間後、ようやく駆けつけた修理業者の手によって、画面に光が戻った。  

 沸き起こる拍手と歓声。  

 誠は汗だくのまま、台座から降りた。喉はガラガラだった。

 佐伯が、複雑な表情で近づいてきた。

「……効率的じゃないな。一人が千人に話して聞かせるなんて、ラジオの時代に逆戻りだ」  

 そう言いながら、佐伯は自分の手帳の一ページを破り、誠に差し出した。

 そこには、さっきまで佐伯が必死にメモしていた「街頭テレビの配置図」の裏に、現場で気づいた「音声トラブルの発生源」が鋭く分析されていた。

「でも、認めよう。君のその無駄な熱量も、時には現場の『ノイズ』を消す役に立つらしい」

「佐伯さん……」

「次からは、真空管の予備を予算に組み込ませる。それが僕の仕事だ」

 佐伯は歩き出した。

 その歩調は、少しだけ誠のペースに近づいていた。  

 誠は、再び光を放ち始めた受像機を見上げた。    


 昭和二十八年。  

 テレビを作る者と、見る者。  

 その間にあるのは、単なる電波ではない。  

 泥臭い情熱と、冷徹な計算。

 その両方が噛み合わなければ、この「魔法」は維持できないことを、二人の若者は新橋の夜風の中で予感していた。

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