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第9話 銀座の夜とスポンサー ―ネオンの下の裏約束―

 1.  復興の灯りと、闇の残り香


 昭和二十九年、晩秋。  

 銀座四丁目の交差点には、服部時計店の塔が静かに時を刻み、不二家のルックチョコレートや森永キャラメルの巨大なネオンが、夜の空を毒々しいほど鮮やかに彩り始めていた。  

 だが、表通りの華やかさから一歩路地裏へ入れば、そこにはまだ「闇市」の湿った匂いが立ち込めていた。

 トタン屋根の焼き鳥屋から流れる脂の煙、安酒のツンとした刺激臭、そして石炭の煤。


「工藤、襟を直せ。今日は『日本丸薬』の社長との会食だ」  

 佐伯が、新調したばかりのダブルのスーツの袖を払いながら言った。

 いつもの計算尺は隠し、手には手土産の高級羊羹を提げている。

「……銀座のクラブなんて、僕には似合いませんよ」  

 誠は、着慣れない背広の中で肩をすぼめた。

 映画の撮影所時代、役者たちと場末の屋台で騒ぐのは慣れていたが、銀座の「夜の政治」は未知の世界だった。

 二人の前を行く黒岩ディレクターは、使い古したハンチング帽を脱ぎ、ボロ布のようなコートを預けると、戦場へ赴くような足取りで重厚な扉を開けた。


 2. 社交場の洗礼


 会員制クラブ『リラ』。  

 厚い絨毯に足が沈み、蓄音機からは最新のジャズが流れている。

 紫煙の向こう側には、映画スターのようなドレスを纏ったホステスたちが、企業の重役や政治家たちの横で艶やかに微笑んでいた。

「おお、JMTの諸君、よく来たな」  

 ソファの奥に鎮座していたのは、『日本丸薬』の社長・大山だった。

 戦後の混乱期に栄養剤を売り捌き、一代で巨万の富を築いた男だ。

「最近のテレビは面白いな。特にあの台風の中継、ありゃあ凄かった。うちの看板もあんな風に、ダイナミックに映してくれんかね」

 大山は、誠たちのグラスに最高級のサントリー・オールドを注ぎながら、笑みの奥に鋭い光を宿らせた。

「ところでだ。来週のニュース番組で、我が社の新製品『ビタミン・キング』の特集を組む話……進んでいるかね、佐伯君?」

 佐伯の手が、一瞬止まった。

「……前向きに検討しております。ただ、報道番組ですので、あくまで『公正な検証』という形にはなりますが」

「ははは! 堅いことを言うな。電波料を払っているのは、誰だと思っている?」  

大山の声が低くなった。

その瞬間、クラブの華やかな音楽が、遠くのノイズのように聞こえた。


 3.  路地裏の真実


 誠は息が詰まり、「電話を借りてきます」と嘘をついて店を抜け出した。  

 裏口の階段を降りると、そこには銀座の「裏の顔」があった。    

 きらびやかな表通りとは対照的に、ゴミ捨て場の横で小さな焚き火を囲む浮浪児や、擦り切れた着物を着た靴磨きの老人がいた。

「兄ちゃん、テレビの人かい?」  

 靴磨きの老人が、誠の革靴を見て声をかけた。

「……ああ。そうだよ」

「昨日、テレビでやってた健康の番組、あれは本当かい? うちの孫が、あそこで紹介された薬を飲めば病気が治るって信じちまってな」

 老人の手元には、大山の会社が売り出している安価な栄養剤の瓶があった。  

 誠は言葉に詰まった。スタジオでライトを浴び、アナウンサーが朗々と読み上げる言葉。

 それが、この路地裏で必死に生きる人々の「福音」になってしまっている。

 テレビは、ただの「魔法の箱」ではない。  

 そこから流れる言葉は、時として人々の生死を左右する「権力」なのだ。


 4.  交渉の結末


 店に戻ると、佐伯と大山の間で火花が散っていた。

「大山社長。我が局の報道は、スポンサーの宣伝道具ではありません。もし成分に疑義があるというデータが出れば、そのまま放送します。それがテレビの信頼です」  

 佐伯の声は、いつになく震えていた。

 理詰めの彼が、もっとも「非効率」な、スポンサーへの反旗を翻していた。

「……いいだろう。なら、他局へ行くまでだ。君たちの局から広告をすべて引き上げてもいいんだぞ?」  大山が立ち上がったその時、隅で黙って酒を飲んでいた黒岩が、静かにパイプを置いた。

「社長。あんたの薬を一番飲んでるのは、うちの局のスタッフだ。みんな、あんたの薬を飲んで徹夜して、あんたの会社のコマーシャルを流すために必死にカメラを回してる。……あんたは、自分の社員を騙すような真似をさせるのか?」

 黒岩の、地を這うような声に、大山は毒気を抜かれたように立ち尽くした。  

 昭和の怪物を動かしたのは、理屈ではなく、現場に生きる男の「情」だった。


 5.  銀座の朝焼け


 クラブを出た頃、東の空が白み始めていた。  

 誠、佐伯、黒岩の三人は、酔い冷ましの風に吹かれながら、まだ静かな銀座の街を歩いた。

「佐伯さん。広告、引き上げられちゃいますかね」  

 誠が尋ねると、佐伯はボロボロになった手帳を見つめて答えた。

「……確率は五〇パーセントだ。だが、あそこで頷いていたら、僕たちの作る画面は、いつか毒を撒き散らす装置になっていた。効率の悪い選択だが、後悔はない」

 足元には、誰かが捨てたビタミン剤の空き瓶が転がっていた。  

 誠はそれを拾い、ゴミ箱へ入れた。    

 テレビの裏側には、銀座のネオンよりも深い闇がある。  

 だが、その闇を暴き、誰かの足元を照らすための光を、自分たちは守り抜かなければならない。

「さあ、帰って編集だ。今日の昼までに、例の特集の構成を書き直すぞ。……忖度なしの、本物のやつをな」 

 黒岩の言葉に、誠と佐伯は強く頷いた。    


 昭和二十九年。  

 欲望と情熱が渦巻く銀座の朝、三人の影が長く伸びていた。  

 テレビという怪物は、また一つ、彼らに「責任」という名の試練を課したのだった。

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