第6黒 森から帰ったのは、恐怖だけ
――森からの報告――
ヴァルディス王国、交易街外れの館。
夜半を過ぎた頃、その館に似つかわしくない音が響いていた。
荒い呼吸。擦れ合う革鎧。床に落ちる泥の音。
逃げ帰った傭兵たちは、広間の中央に集められていた。
肩で息をし、膝を震わせ、誰一人として顔を上げようとしない。
「そ、その……森の奥で……」
声を絞り出したのは、団長格の男、オスヴァルトだった。
背中を庇うように丸め、剣の柄を握る手は、今なお戦場にいるかのように強張っている。
「……一人の、女に……」
その言葉だけで、場の空気が重く沈んだ。
「影のようで……姿すら、まともに捉えられず……」
「気づいた時には、陣形が……崩れていました……」
別の傭兵が、喉を鳴らしながら続ける。
「……数は俺達の方が圧倒的に上だったなのに…
……一瞬で、部隊は壊滅……仲間は散り散りに!」
地図を広げようとする手が、あまりに震えて線を引けない。
恐怖が、まだ体から抜けきっていなかった。
「……団長……」
低い声が落ちる。
「……生き残ったのは……お前だけだ。」
その言葉に、オスヴァルトの顔が歪む。
「……くそ……俺たちは……何も……」
言葉が続かない。
それ以上語ることが、彼自身の誇りを完全に砕く行為だと理解していた。
沈黙。
その中心に、オルフェン=グレイスナー子爵が立っていた。
肥えた体躯に豪奢な衣装。
だが、その顔にあるのは、貴族の余裕ではない。
「……報告は以上か。」
低く、抑えた声。
「は……はい……!」
次の瞬間。
子爵の拳が、机を叩き割った。
鈍い音が館中に響き、酒杯と書類が床に散る。
傭兵たちは反射的に身を竦めた。
「ふざけるな……!」
唾を吐くような叫び。
「奴隷も、商売も、根こそぎ奪われ……」
「挙げ句、森で一方的に叩きのめされたと……!?」
目の奥が赤く染まり、怒りと焦燥が混じり合う。
それは損害への怒りではない。
支配が通じなかったことへの恐怖だった。
「次は……必ず、殺しに行く。」
噛み潰すような低音。
館内に張り詰めた静寂。
誰も、息すら大きくできない。
「次は、全員でかかれ。」
「迷う必要はない……生かす価値もない。」
言葉は刃のように冷たい。
「もし再び、逃げ帰ることがあればお前らの命は無いと思え。…分かったな」
「ひぃぃ…はっ…。はい。必ず!」
配下たちは理解していた。
これは命令であり、同時に――子爵自身への言い訳でもある。
「……忌々しい女め…必ずや息の根を止めてやる。」
その呟きと共に、館の闇は一段と深く沈んだ。
遠く、森の奥。
誰も知らぬまま、黒百合の影は次の標的へと歩を進めていた。
配下を下がらせた後も、
オルフェン=グレイスナー子爵の怒りは収まらなかった。
「……くそっ!」
拳を机に叩きつけ、荒い息を吐く。
「これでは……私のメンツが……!」
その姿は、もはや貴族の威厳とは程遠い。
焦燥に駆られた男の、剥き出しの感情だった。
その時――
「……お困りのようですね、子爵。」
低く、滑るような声。
気配もなく、影の中から一人の人物が現れた。
長身。黒いマント。
フードの奥、赤く光る瞳だけが存在を主張している。
「誰だ……お前は!」
オルフェンは反射的に身を翻し、剣の柄に手を掛ける。
「ただの助言者、とでも。」
「あるいは……策を授ける者、と言った方が良いかもしれませんね。」
人物は机に手を置き、静かに言葉を重ねる。
「黒のカサブランカ……」
「森での惨状、相当こたえているでしょう?」
子爵の指先が、わずかに震えた。
「小部隊では無意味です。」
「罠、魔術、増援……」
「全てを組み合わせれば、あの女を消せる“可能性”は生まれる。」
「……魔術? 罠? 増援?」
オルフェンは鼻で笑う。
「フン……くだらん。私には必要ない。」
怪しい人物は、片眉を上げる。
「おや、拒否ですか……?
これほど絶望的な状況で、ですか?」
オルフェンは喉を鳴らし、歯を食いしばる。
その視線は、ただ焦るだけの子供ではなく、理性を必死に取り戻そうとする者のものだった。
「……私は、私の手で解決する。」
……お前のような得体の知れぬ人間の手など借りぬ。」
「ふふ、なるほど……。ならば、お手並み拝見といきますか。」
怪しい人物は不敵に笑い、影の中へと消えていった。
残された館内には、
オルフェンの荒い呼吸だけが響く。
「……逆らったことを、後悔させてやる。」
拳を握り直し、重い足音が床を打つ。
書類と地図が、揺れる灯火に照らされて歪んだ影を落とす。
その目に宿るのは、
怒り。執念。
そして――黒い花への、消せぬ恐怖だった。
森の奥では、
黒百合の影が、再び静かに歩みを進めている――。




