第36黒 もしも、なんて
「……もしもなんて」
低く、冷たい声。
「存在しないわ」
ウィザーの呼吸が止まりかける。
リィナは続ける。
「あなたが裏切ったあの日から――」
剣を、わずかに押し込む。
「私も、あなたも……もう戻れない」
視線は逸らさない。
「既に血で汚れている……」
その声に、感情はない。
ただ事実だけを告げるように。
「……行きつく先は同じよ」
一瞬の静寂。
「……地獄でまた会いましょう」
ウィザーの瞳が、静かに揺れる。
リィナが最後に言う。
「それまでは――」
ほんの僅かに、声が柔らぐ。
「さようなら……”ウィザー”」
次の瞬間。
ザンッ――
首が落ちる。
ヴェルミナが小さく息を吐く。
「……終わったのね。」
リィナは答えない。
ただ、手をかざす。
≪奪魂の契約≫
黒い紋様の異質な魔法陣が床に刻まれ
ウィザーの亡骸から――
淡い蒼光が引き剥がされる。
ウィザーの魂、能力、そして記憶。
全てがリィナへ流れ込む。
次の瞬間――
“流れ込んだ”。
――光景。
まだ幼い頃。
魔導書に囲まれた部屋。
無数の数式。
誰も理解できない理論を、一人で組み上げる少女。
「……やっぱり天才ね」
誰かの声。
誇らしげでも、嬉しそうでもない。
ただ“当然”と受け止める顔。
次は、共に肩を並べて戦っていた頃のウィザー。
「合理的に考えて、次は私が援護するわ」
冷静な声に背中を預ける。
一切の迷いもなく。
――そして。
あの日。
決定的な分岐――
「……それが最適解よ」
ウィザーの声。
感情を切り捨てた、冷たい選択。
リィナの背中から、信頼が崩れ落ちた瞬間。
さらに――
見たことのない光景。
薄暗い部屋で
一人きりのウィザー。
「どうして……」
ウィザーが、机に手をつく。
震えている。
「どうしてなの……」
紙には、無数の計算式。
そのすべてが――
“リィナに勝つためのもの”。
「私の方が……」
歯を食いしばる。
「私の方が優れてるのに……
どうして、選ばれないのよ……」
その声は――
“天才”ではなかった。
ただの。
一人の人間だった。
――ブツンッ
視界が戻る。
「……」
リィナの手が、わずかに震える。
理解してしまった。
ウィザーが何を求めていたのか。
何に縛られていたのか。
何を、間違えたのか。
「……」
沈黙。
長い、長い一瞬。
そして――
リィナは、静かに呟く。
「……バカね」
冷たい声。
だが――
完全な否定ではない。
ほんの僅かに。
何かを飲み込むような響き。
「そんなものに縛られて」
目を閉じる。
一度だけ。
「……だから、負けたのよ」
ゆっくりと、目を開く。
そこにあるのは――
迷いのない瞳。
「私は違う」
低く、断言する。
「もう、過去には戻らない」
魔法陣が、消えていく。
蒼い光も、完全に取り込まれる。
リィナは振り返らない。
ウィザーの亡骸すら、見ない。
「……これで」
低く呟く。
「一つ、取り戻した」
それが、何を指すのか。
力か。
過去か。
それとも――
“決別”か。
足を踏み出す。
その一歩に、迷いはない。
過去も。
感情も。
すべてを置き去りにして。
――復讐は、まだ終わらない。




