第12黒 裏切りの代償
屋敷の奥。
重厚な扉のさらに先にある、子爵専用の書斎へと続く回廊。
壁に掛けられた燭台の炎は、すでに半分以上が燃え尽き、
弱々しく揺れている。
廊下には誰もいない。
いや、正確には”もう、誰もいない”のだった。
先ほどまで響いていたはずの怒号。
金属がぶつかる音。部下たちの足音。
それらすべてが、嘘のように消えていた。
静寂だけが、異様な重さで空間を満たしている。
書斎の中で
オルベール=カインハート子爵は、机にしがみつくようにして立っていた。
震える手が、羊皮紙を握り潰す。
指先は血の気を失い、青白く変色している。
「……なぜだ……」
掠れた声が漏れる。
「警備は……あれほど配置したあったはずだ……
兵も……結界も……」
額から汗が滴り落ちる。
呼吸は荒く、胸が上下するたびに衣服が擦れる音がやけに大きく響いた。
「……誰も来ない……」
その言葉は、ほとんど泣き声だった。
――その時、背後でゆっくりと扉が閉まる。
コツン。
乾いた足跡。だが勿論、部下のではない。
子爵の身体がびくりと震えた。
――そして。
低く、静かな声が、空気を切り裂く。
「……オルベール。」
聞き覚えのある声。
忘れることなどできるはずがない声。
子爵の喉が鳴り、恐る恐る振り返ると
そこに立っていたのは――
かつて“白百合の勇者”と呼ばれ、
王国中の人々に称えられていた女。
金の髪は闇に溶け、
かつての光を纏った鎧は存在しない。
代わりに。
全身を覆うのは、影のような魔装。
そして血のような赤い瞳。
その瞳だけが、静かに燃えている。
「……リ、リィナ……!?」
声が裏返る。
「生きていたのか……!」
「ええ。」
一歩、近づく。
足音は、ほとんど聞こえない。
だがその存在感だけで、空気が重く沈む。
「あなたが“始末したはず”の女よ。」
そこには刃のような冷たい怒りが滲んでいた。
オルベールは後ずさるが
足がもつれ、背中が石壁にぶつかる。
逃げ場はない。
剣を抜く余裕も、叫ぶ余裕もない。
ただ恐怖だけが全身を支配する。
「ま、待て……!」
声が震える。
「……あの時は……命令だった!
私だって……選択肢など……!」
「言い訳は聞き飽きたわ。」
リィナは淡々と言う。
一歩、また一歩。
距離が縮まるたびに、子爵の呼吸が浅くなる。
「裏切った理由を、正当化するな。」
その言葉は、静かだが
絶対に覆らない判決のようだった。
「あなたは、選んだ…。」
剣が、ゆっくりと抜かれる。
「私を切り捨てる方を……」
剣先が喉元に触れる。
氷のように冷たい感覚に子爵の身体が痙攣する。
「だから――」
赤い瞳が、まっすぐ彼を射抜く。
「今度は、あなたが私に切られる番。」
「赦してくれ……!」
ついに子爵の膝が崩れ落ちる。
床に両手をつき、土下座のような姿勢で叫ぶ。
「命だけは……!
金でも地位でも何でも……!」
涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。
だが。
リィナの表情は、微動だにしない。
「……命乞いをするなら。」
冷たく言い放つ。
「地獄の王にでもするといいわ。」
その言葉に、子爵の顔から血の気が消える。
剣がわずかに光を帯び、暗黒紋章が刃に浮かび上がる。
空気が凍りつく。
燭台の炎が小さく揺れる。
赤い瞳が、彼の魂の奥底を覗き込む。
「死ぬ前に、もう一度刻みなさい。」
もう逃げ場はない。
「私の名を……」
剣が振り上げられる。
「それが、復讐の鎖となる。」
「や、やめ……」
その言葉は最後まで続かなかった。
――次の瞬間。
屋敷の奥で裏切り者の断末魔だけが響き渡った。
やがて音は途切れると静寂が戻る。
外では雨が降り始めていた。
石畳を叩く雨音が、まるで血を洗い流すように静かに続く。
リィナは剣を振り、血を払い落とす。
何事もなかったかのように。
そしてゆっくりと書斎の机へ視線を向ける。
そこには魔法協会との取引書。
そして。
一枚の書類に記された名前。
「……ウィザー=アルヴァレン。」
その名を呟いた瞬間。
唇が、わずかに歪む。
それは笑みではない。
怒りと復讐だけで形作られた、冷たい表情。
「次は、あなたよ。」
雨音が強くなる、闇の中で――
黒百合の女帝は、静かに次の標的を定めていた。




