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怖い話

好きだよ

作者: 夢野かなめ

「好きだよ」


 空耳かと思ったその言葉は、確かに耳に届いていた。


「好きだよ」


 その言葉は、繰り返す。


「好きだよ」


 何をしていても、何処に居ても、どのような状況にあろうとも、それは繰り返す。


「好きだよ」


 好き、好き、好き、好き、好き……。


 本来胸をときめかせる筈のその言葉は、今や呪いの言葉だった。


「好きだよ」


 耳の奥に注ぎ込まれるその言葉が、気持ち悪い。


 吐き気がする。


「おーい、聞いてんのか?」


 目の前を掌が行ったり来たりし、長瀬(ながせ)は顔を上げた。


「ごめん、聞いてなかった」


 そう言うと、同僚の山本(やまもと)は大げさなまでの溜め息をして、膝の上に置いていた空の弁当箱を横に退けた。


「だからさぁ、さっきの佐々木(ささき)! マジで有り得なくない?」


 不満たらたらの様子で、上司への愚痴を並べ立てる。ちらと辺りの様子を窺えば、別のセクションの人々が居るだけで、そのグループも疲れた顔をして何事かを話し合いながら箸を動かしていた。


 変わらぬ日常だった。


 まだ入社して数年の長瀬と山本は、通常の業務に加えて上司の投げた雑務もこなしている。そのせいで昼の時間が押してしまうことが殆どだ。


 今、この屋上に居る別のセクションのグループも、同じようなものだ。恐らく、近いうちに一人は辞めるだろう。


 それでも、新入社員の扱いよりはマシになった方だった。


 きっと彼等は、あと少ししたら、ようやっと自分の机で手早く昼飯を済ませることとなる。


 それを数年耐えれば、長瀬達のように屋上で食べることが出来、時間通りに昼食を取れるようになり、そのうち外に食べに出ることも出来るようになる。


 その間に多くの者は辞めていくのだが、長瀬と山本は生き残った同期の二人だった。もう何人かは居るが、地方に転勤となったり、工場勤務となったものもいる。


 山本は随分と胆力があった。長瀬などは、愚痴を言う気力もない。だからこそ、生き残れてきたということもあるが。


 ──人生を楽しむ余裕ってのも、ないけど。


「好きだよ」


 再び聞こえた声に、顔を(しか)める。


 それをどう受け取ったか、山本はしたり顔で頷いて見せた。


「やっぱ、有り得ないよな。本当、今度こういうこと言われたら──」


 その時、山本の胸ポケットで着信音が鳴った。二回鳴る前に、山本は通話を開始した。


「あ、佐々木さん──あ、ハイ、ハイ──え、判りました。すぐ戻ります!」


 明るい声でそう返し、山本は通話を切ると立ち上がった。


「じゃ、佐々木さんに呼ばれたから」


 先程まで随分と悪口を言っていたのに、それを滲ませない顔で颯爽と去っていく。


 それを半分呆れた気持ちで見送ってから、長瀬は耳の奥に残る音を払うように頭を振った。


「好きだよ」


 しかし、払ってもそれは再び耳に注ぎ込まれる。


 長瀬は溜め息を吐き、立ち上がった。




 いつからその声が聞こえていたのか。


 何が起きたのか。


 長瀬に思い当たる節はなかった。


 いや、そのようなことが起きるようなことをしているという自覚はあった。


 収集癖だ。


 別に呪物を集めるという趣味がある訳ではない。それならば、自身に起きる不可思議なことも、呪物の効果だと思えばそれで済む。


 長瀬が拾い集めるもの。


 自宅で、机の上に置いた箱の中身を見下ろし、長瀬は首を傾げた。


 ──変わらない。ちっとも。


「好きだよ」


 何者かが、言った。


 その言葉は、長瀬が憧れ、期待し、胸をときめかせる筈のものだった。


 いや、今でも変わらず多くの者達にとって、そのような意味を持つのだろう。


 だが、何者かに繰り返されるよりもずっと以前から、長瀬にとってそれは呪いの言葉となっていた。


「好きだよ」


 そう言った彼女に、長瀬は好意を持った。


 彼女にとっては何気なく、そこら辺の野草にでさえ呟くようなその言葉。


「好きだよ」


 その言葉に、長瀬はのぼせ上った。


 ずっと自分の為だけに、その言葉を囁いて欲しいと願った。


「好きだよ」


 しかし、今耳に注ぎ込まれるその言葉は、彼女のものではない。


 絶対に、断言出来る。


 高いのに、低く発せられたその言葉。


 それは、彼女の鈴を鳴らすような声とは似ても似つかない。


「なんか暗くて……怖くない?」


 その言葉が、ふっと蘇る。


 手が震える。汗が噴き出す。息が苦しい。


 気持ちを奮い立たせて伝えた想い。


 それに彼女は困ったように笑って、謝罪の言葉を告げた。


「そういう風に想いを伝えてくれるのは素敵だと思う。そういう所は好きだよ。でも、ごめんね」


 そう続けて、去っていった後ろ姿が、酷く胸を締め付けた。


 彼女の鈴を転がすような声で呟かれた、


「なんか暗くて……怖くない?」


 佇む長瀬に気が付き、気まずそうに笑って逸らされる視線。


 嗚咽が漏れ、涙が零れ落ちる。


 この傷は、まだこんなにも痛む。まだ、こんなにも──。


「好きだよ」


 声が言った。


「やめてくれ!」


 長瀬は叫んだ。涙混じりの声で叫んだ。


 もう、その言葉は聞きたくない。


「好きだよ」


 好き、好き、好き、好き、好き──。


 箱の中を見下ろした長瀬は、目を見張った。


 ──開いた。口が、開いた。


 箱の中に横たわる──ネズミの死体の口が、開いた。


 うっすら力なく開いたままだった小さな口が、大きく開いていた。


「好きだよ」


 その言葉は、ネズミの口から発せられたように思った。


 長瀬はハッとして、ネズミの死体に手を伸ばした。


 箱に仕舞って、どれだけ経っただろう。


 普通であれば、腐り、蛆が沸き、崩れていく。


 それなのに、このネズミは拾った時と同じまま。


 魅力的な匂いを発しながら、静かに死んでいる。


「好きだよ」


 声が──ネズミが言う。




 長瀬は、幼い頃から何かを拾うのが好きだった。


 小石や、野草、枝、空き缶、何かの部品。


 そういうものを拾っては、怒られたものだ。


「なんでそんな汚いもの拾うの? お母さん、そういう所嫌いだな」


 そう何度も言われても、惹かれてしまうのはどうしようもない。


 実家を出てからは、長瀬は気の向くままに物を拾った。


 何を拾っても、誰にも怒られることはない。


 長瀬には、ひとつのポリシーがあった。


 魅力的な匂いを発しているもの。それだけを拾う。


 あの日も、その匂いを感じて入り込んだ路地裏で、ネズミと出会ったのだ。


 ガサガサとゴミ箱を漁るその様子に、長瀬は好感を持った。


 ネズミはじっと長瀬を見ていた。


 長瀬が構わずゴミ箱を漁り始めると、ネズミも同じようにした。


 その時に、長瀬は何処か深い安心感を得たのだった。


 だから、自然と口を開いていた。


「俺はね、昔から好きなんだ。他の人がゴミと言おうとも、気持ちが悪いと言おうとも……暗くて、怖いと言おうとも……」


 長瀬が言葉を止めると、ガサガサとゴミ箱を漁る音しか聞こえない。


「──お前も一緒だね。お前はごみを漁る汚い嫌われ者。でも、今思った。僕は、お前のことが──好きだよ」


 長瀬が言うと、ネズミは鼻をヒクヒクとさせた。


「なんて、ネズミが判る筈ないか。──あ、あった」


 それは、魚の頭だった。


 目玉がついたままの頭。種類は判らない。ぽっかりと口を開け、くすんだ瞳が虚空を見つめている。


 他にも魚の頭は捨てられていたが、魅力的に感じるのはこれだけだった。


 その魚の頭は、今はすっかりと肉が落ち、繊細な骨だけの姿となって、大切に箱に仕舞ってある。時折箱を開けると、鼻の奥に匂いが充満し、それが全身に広がっていく気がする。


 幸せのひと時だった。


「お前は、あの時のネズミ?」


 そう言いながら、長瀬は苦笑し、首を振った。


「好きだよ」


 肯定しているのか、否定しているのか、声が言った。


 最早、その言葉はネズミの死体から発せられているとしか考えられなかった。


「好きだよ」


 長瀬にも、ゴミという概念はある。いい加減部屋の掃除をしなくてはならない、と重い腰を上げて掃除をしていた時、ゴミ捨てに開けた玄関扉の前に、それは静かに横たわっていた。


 ネズミの死体。


 魅力的な匂いを発しているそれを拾った長瀬は、それを大事に拾い上げ、箱にしまった。


 それを眺めて過ごした。


 その内「好きだよ」という声に悩まされるようになり、疲弊し、ただ職場に通うだけの日々になった。


 今、この時、全てが繋がった気がした。


「お前が、あの時のネズミかどうかは判らない。だけど、僕を好きになってくれて有難う」


 チュウ、とネズミが鳴いた。


 長瀬は、ネズミの変わらぬ死体に口づけた。


「僕は、お前が好きだよ」


 大きく息を吸い込むと、肺いっぱいにネズミの発する匂いが充満する。


 満たされる──何もかもが。



 好きだよ。



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