the sun
僕は頭の中が真っ白になるという経験を人生で初めてしたかもしれない。今までもそれっぽい感じになる事はあったけれど、今までのはそう思っていただけだと実感する。
「私で良ければお願いします」
その言葉が意味を伴う前に、音として胸に落ちてきた。理解するより先に、体の中で耳だけがちゃんと働いていた。心臓が一拍遅れて、ようやく強く打ち始める。
「良ければ」とは何だろう。
「お願いします」とは何を。
考えようとすると、全部が絡まってしまう。思考は延々とまとまる気配はなく、一瞬が長い。ただ一つ確かなのは『断られなかった』という事実だけだった。
「……え、と……」
情けない声が漏れる。返事をしなければいけない。分かっているのに、言葉が形にならない。嬉しい、という感情があるような気がしないでもない。けれど、その後ろに怖さが凄まじい勢いで追いかけてくる。期待していいのか。今、この瞬間を信じていいのか。
「すみません、あの……」
また謝ろうとしている。自分でも分かる。今は謝る場面じゃない。でも、長年染み付いた癖は簡単には抜けてくれない。
鮫島さんは急かさなかった。視線を逸らさず、ただ静かに待っている。その沈黙が、さっきまでとは違って、ひどく優しい。僕が何か気の利いた事を言うのを期待しているのだろうか。…いや、それはなさそうだ。
「……僕は」
ようやく、僕は言葉を手繰り寄せる。
「僕は、その……人を楽しませるのも、引っ張るのも、正直得意じゃないです。いや、いい加減気が付いていると思いますが…」
声が震える。逃げ出したい衝動を、足の裏で必死に踏みとどまる。
「一緒にいても、きっと退屈だと思います。きっと今日みたいに、黙ってばかりで……」
自分で言っていて、胸が痛む。売りたい物を過小評価するセールスマンはいない。普通は過大な評価をこれでもかとたっぷり付けて売り込むのがセオリーだ、と思う。けれど今はセールの時間じゃない。ここで誤魔化したくなかった。鮫島さんが、真剣に向き合ってくれたから。
「それでも……」
一度、息を吸う。
「それでも僕は、鮫島さんの事が好きです」
今度は、逃げなかった。目を逸らさなかった。心臓は相変わらずうるさいが、不思議と頭は静かだった。
「僕が鮫島さんに恋とか愛とか教えられるかどうかは分かりません。恋愛が何かなんて僕も分かってないです。だって今も分からない。でも……」
少しだけ、笑ってしまった。自分でも驚くほど、自然に。
「一緒に考える事なら、僕にだって出来ると思います」
沈黙。しまった。心からの嘘偽りのない本心とは言えども、流石に気持ち悪い。格好つける事の難しさを知った。
だけど後悔ばかりではない。言えた自分が少し誇らしくもある。
「退屈でも、不器用でも、それでも一緒にいてくれるなら……僕は、全力で向き合います」
言い切った瞬間、肩の力が抜けた。結果がどうなってもいい、とは思えない。でも、言うべき事は言えた気がした。
鮫島さんは、小さく息を吐いた。
「……ずるいですね」
そう言って、ほんの少しだけ困ったように笑う。
「そんな事言われたら、もう信用するしかないじゃないですか」
責める口調ではなかった。むしろ、どこか安堵したような声音だった。
「不器用なのも、退屈なのも…多分、私も同じです」
視線が、公園の木々に向く。濡れた葉が陽を反射して、風に揺れていた。枝の影と陽の光が鮫島さんの横顔に写り、見惚れてしまう。本当に一枚の絵画のように見えた。
「だから、条件を。これだけは2人で守りましょう」
再び、鮫島さんが僕を真っ直ぐに見る。
「無理はしない事。分からない時は、分からないって言う事」
それだけ言ってから、少し間を置き、付け足す。
「……それに急がない事」
僕は何度も頷いた。首がもげそうなくらい。
「はい、約束します!」
言い過ぎだと分かっていても、止まらない。勢いがついてつい声が大きくなる。
鮫島さんは、そんな様子を見て、今度ははっきりと笑った。こんなはっきりとした笑顔を見たのはもしかしたら初めてかもしれない。
「じゃあ、改めて」
ベンチに置いていた鞄を持ち、立ち上がる。
「今日から、よろしくお願いします。西嶋さん」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。派手な高揚じゃない。ただ、確かにそこにある感触。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。鮫島さん」
二人はベンチを離れ、並んで歩き出した。
そして僕は冷静になって気付く。
(……何を話せばいいんだろう)
付き合う、という言葉は使っていない。よろしくお願いしますとは何だ。何をよろしくすれば良いんだ。疑心暗鬼の虫が顔を出し始める。
歩調を合わせようとして、少し速くなり、また遅くなる。横を見ると、鮫島さんは特に気にした様子もなく、前を見て歩いている。
沈黙。
さっきまでの沈黙は、優しかった。
でも今の沈黙は少しだけ怖い。
(退屈だと思われてないかな)
(いや、初日からそんな事考えるのも変か)
(そもそも“初日”って言っていいのか)
そんなどうでも良い事が停めどなく溢れ始めてきた。
「あの……」
声を出した瞬間、後悔した。
「……寒くないですか」
言ってから、しまったと思う。今日はむしろ暖かい。見切り発車は大抵の場合で上手くいかない。
鮫島さんは一瞬きょとんとした後、小さく笑った。
「大丈夫ですよ。西嶋さんは?」
「え、あ……はい。大丈夫です」
会話が終わる。
(終わった……)
そりゃあ終わるよ。胸の奥が、じわりと縮む。それでも、不思議と逃げたい気持ちはなかった。
(無理はしない)
(分からない時は、分からないって言う)
(急がない)
さっきの条件を、頭の中でなぞる。
「……あの」
今度は少しだけ間を取った。
「さっきの僕の言い方、もし重かったり気持ち悪かったら…すみません」
また謝っている自分に気付きながら、それでも言葉を止めなかった。これだけは言っておきたいと思った。
鮫島さんは歩きながら、少し首を傾ける。
「重い、というより……必死だな、とは思いました」
心臓が跳ねる。
「……やっぱり、自分でも…その、きも」
「いえ」
即答だった。
「むしろ、分かりやすかったです。安心しました」
安心。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
僕は頷きかけて、でもやめた。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかったけれど、足取りはさっきより軽い気がする。当たり前だけれど、足を出せば少し前に進んだ。
この恋が成就するかなんてまだ分からない。いつか愛想尽かされる事もあるかもしれない。
正解も、距離も、きっとこれからも分からないままだ。多分、沢山間違って、沢山謝って、もしかしたら怒らせてしまうかもしれない。喧嘩なんてものもしちゃうかもしれない。まだ想像できないけれど。
それでも。
鮫島さんの隣を歩くという選択だけは、これからもずっと続けていくんだ。勇気を出して一歩を踏み出す。僕はこれからも続けていきたい。




