02 ムスク
ムスク姉ちゃんは、僕の村で唯一の魔法使いだ。
歳も若く、正確には知らないけれど二十代前半だったと思う。
村のみんなが言うには大層な美人だそうで、スタイルが良いだとか、胸が大きいだとか、よくわからないことを言っていつも盛り上がっていた。
確かにムスク姉ちゃんは優しいし、顔も綺麗⋯⋯だと思う。見た目に関しては、他に若い女性を見たことが無いからわからない。とはいえ、他の皆が褒め称えているのだから間違いはないはずだ。
でも、僕には正直関係ない。
ムスク姉ちゃんは大好きだけど、僕が強く会いたいと望むのには別の理由があった。
「あっ、いた! ムスク姉ちゃーん!」
村を走る僕の目に飛び込んできたのは、見間違うはずも無いムスク姉ちゃんの姿だった。
どうやら家の前を掃除していたようで、竹箒を持って散らかった落ち葉を払っている。
僕の声に気が付いたムスク姉ちゃんは、竹箒を動かす手をピタリと止めると、こちらへと顔を向けた。
「もしかして⋯⋯エリオン!? あら、また大きくなったわね!」
嬉しそうにムスク姉ちゃんが笑った。
会うのが久しぶりすぎて、その笑顔を見るだけで嬉しさが込み上げてくる。
僕は体温が高くなるのを感じながらも、走る勢いをそのままにムスク姉ちゃんに飛びついた。
「久しぶり! 元気だった? ムスク姉ちゃん!」
「えぇ勿論よ! それにしてもあなた筋肉もまた増えたでしょ。流石の私でも今の突進は倒れるかと思ったわ」
僕の体を優しく受け止めたムスク姉ちゃんだったが、先ほどまでの笑顔よりも少しだけ表情に力が入っている気がした。
「ご、ごめんなさい。つい嬉しくって。⋯⋯それにムスク姉ちゃんの匂い好きだから」
「そうだとは思ったわ。私はいくらでもあなたに抱き着いてあげたいけど、初対面のレディーにはそれ言っちゃダメよ。いくらイケメンで可愛いからって許されないこともあるんだから。⋯⋯まぁ、あなたは特別に顔が良いから別の意味で危ないのだけど」
何故だか顔を赤らめるムスク姉ちゃんに、無理やり体を剥がされてしまった。
やはり勢いよく飛びついたのがいけなかったのだろうか。
反省しつつも注意された内容を思い出すが、何故ムスク姉ちゃんが態度を一変させたのかも、何が原因なのかもまるでわからなかった。
そういえば、以前ランサさんが酒場で酔いながら言っていた。女は男とは別の生き物だから接し方には気を付けろ、と。
思い返せば、ムスク姉ちゃんと話す時はいつだって何かを注意されていた。話し方とか、礼儀作法についてだとか。
でも村のお婆ちゃん達と話す時は一度だって何かを指摘されたことは無い。⋯⋯ダメだ。やっぱり何が悪いのか全然わからない。
そうやって頭を悩ませていると、ムスク姉ちゃんがわざとらしくコホン、と咳払いをした。
「と、とにかくよ。今後はいきなり抱き着くのは禁止。私の体と心臓が持たないわ」
「うん、わかったよ。ムスク姉ちゃん」
僕が頷くと、ムスク姉ちゃんはどこか安心したように胸を撫で下ろした。
「それにしても時間とは怖い物ね。ここまで成長するなんて⋯⋯いずれ何人ものレディーが涙することになるわね」
「何の話?」
「な、なんでもないわ! そういえば最後に会ったのはいつだったかしら?」
また顔を赤らめてムスク姉ちゃんが話題を逸らした。
やはり理由はわからなかったが、僕は深く考えないようにして素直に答えた。
「二年前だよ。もっと帰ってきてくれてもいいのに」
「私だってそうしたいのは山々よ。でも私ってホラ、人気者だから」
自慢げにムスク姉ちゃんが胸を張る。
その様子は普段と何ら変わりなく、ようやくムスク姉ちゃんが帰ってきたのだという実感が湧いた。でも、同時に突きつけられた現実もまた、今までと何ら変わりないものだった。
魔法使いは希少だ。
それはムスク姉ちゃんに教わった。
小さい村とはいえ、ムスク姉ちゃん以外に正式な魔法使いがいないのを考えても、多分それは本当の事なのだろう。
魔法が使えれば、世界で猛威を振るう魔物を倒すことだって簡単だ。だから魔法使いは重宝され、その殆どは大きな街で国のために働くことになる。
特にムスク姉ちゃんは有名な魔法使いで、魔物を討伐するために日夜国中を飛び回っていた。
この世界から魔物が消えることはきっと無い。
だから、ムスク姉ちゃんが忙しくて村に帰って来られないのは仕方がないことだ。それはわかっている。わかっているけど⋯⋯、
「それでも寂しいよ。僕はもっとムスク姉ちゃんに魔法を教えてもらいたいんだ!」
自分の耳でもわかるぐらい、僕の声は震えていた。
寂しいから、悲しいから、悔しいから。
理由はきっといっぱいあるけれど、一番はやっぱりムスク姉ちゃんの魔法が見たかったからだ。
僕の家とムスク姉ちゃんの家は近所で、よく一緒に話したり遊んだりしていた。
それだけでも十分に僕は楽しかったけど、ある日ムスク姉ちゃんの魔法を見て世界が一変したんだ。
綺麗だ。
最初に抱いた魔法へのその気持ちは今も忘れたことは無い。
運よく僕には魔法を使う才能もあったから、ムスク姉ちゃんに教えてもらいながら少しずつ魔法を覚えていった。つまり、僕にとってのムスク姉ちゃんは魔法の師匠なんだ。
だからもっと話したい。
もっといろんな魔法を見せてもらいたい。教えてもらいたい。
僕がそう思ってしまうのは可笑しなことなのだろうか。
気が付くと涙が目に溜まっていた。
それを見て、ムスク姉ちゃんは優しい表情を作って、そっと僕の頭を撫でてくれた。
「⋯⋯ごめんね。私ももっとあなたに魔法を教えたかった」
「じゃあ教えてよ! 今日でも明日でも! 二年後だって!」
「エリオン⋯⋯」
ムスク姉ちゃんが悲し気にこちらを見つめた。
何かを言おうとしている。
でも、言うことができない。明らかに何かに対して苦しんでいる。
理由はやはりわからない。
僕はきっと、未だにムスク姉ちゃんのことをまるで理解できていないのだろう。
でも、少なくとも、僕はムスク姉ちゃんのそんな表情を見たくは無かった。
「⋯⋯ごめんなさい、ムスク姉ちゃん。我儘言って」
「そんなことないわよ。ダメね私って、気を遣わせてしまって。こんなのだから妹も心を開いてくれないのかしら」
ムスク姉ちゃんはふいに家の方を見上げた。
二階の角部屋。
閉ざされて暗闇に染まるその部屋を見つめながら、ムスク姉ちゃんは続けた。
「私があなたぐらいの歳の頃、両親は魔物に殺されてしまったわ。残ったのは多少のお金と家と妹だけ。昔から外には出たがらない子だったけど、両親が死んでからは部屋からも出なくなったわ。妹のために頑張って王都でお金を稼いでいるけれど、未だにあの部屋から出てきてくれない。⋯⋯やっぱり私の事、嫌いなのかな」
絞り出された声は、普段のムスク姉ちゃんからは想像もできない程に弱弱しいものだった。
いつも元気で明るく、強くって頼りになるムスク姉ちゃん。
僕はそんなムスク姉ちゃんが泣いているところを一度だって見たことは無い。
でも、妹の話をする時は、いつもどこか悲し気な表情を覗かせていた。
何度か話を聞いていた僕には、ムスク姉ちゃんがどれだけ妹を大切に想っているのかなんて十分に伝わっていた。そして、同じぐらいにムスク姉ちゃんが自分を責めていることも。
「⋯⋯私はお姉ちゃん失格よね」
「そんなことないよ! 絶対に!!」
気が付くと、僕は声を張り上げていた。
完全に無意識だった。
格好いい台詞も、力強い言葉も何一つ浮かんではいない。
ただ、それでも僕は否定したかった。
どんなにムスク姉ちゃんが自分を嫌おうとも、僕は知っている。ムスク姉ちゃんがどれだけ妹のために努力してきたのかを。妹のことをどれだけ愛しているのかを。
「ムスク姉ちゃんはひとりでこんなにも頑張っているじゃないか! 僕はムスク姉ちゃんよりも優しくって頼りになる最高のお姉ちゃんなんて知らない。ムスク姉ちゃんの想いはきっと妹にも伝わってるはずだよ! だから⋯⋯」
と、僕が興奮のままに言葉を続けようとした時、突然ムスク姉ちゃんが強く抱きしめてきた。
ムスク姉ちゃんの柔らかい胸の感触が顔に伝わる。
いや、伝わるなんてものじゃない。余りにも強く抱きしめるので、僕の顔は胸に沈んでいく。もはや息をすることもできない。
「ぐむっ、ちょっと! 苦しいよムスク姉ちゃん!」
「ダーメ。エリオンが悪いのよ? 本当にいい子で可愛いんだから! もう限界。ずっとこうしてたいわ」
さらにムスク姉ちゃんが、抱きしめる手に力を込めるのがわかった。
もはや声すら出せない。
必死にもがくがムスク姉ちゃんの力は尋常じゃない。到底振りほどくことなど不可能だった。
「はぁ⋯⋯おかげで落ち着いたわ。ありがとうねエリオン。あれ? エリオン?」
「⋯⋯うぅ、死ぬかと思った」
僕はヨロヨロとふらつく足で何とかひとりで地面に立つと、ムスク姉ちゃんに言った。
「ムスク姉ちゃん、次からは抱きしめるのは手加減してよ」
「あら、どうして? エリオンも私に抱きしめられるのは好きでしょ」
「好きだけど⋯⋯今のをやられたらいくら命があっても足りないよ。それにムスク姉ちゃんも、さっきは抱きしめるのは良くないって言っていたじゃないか」
「それはそうだけれども。だって、エリオンが余りにも素敵だからついね」
恥ずかしそうにムスク姉ちゃんは笑った。
どうやら元気になったようだ。
ムスク姉ちゃんの奇行には度々頭を悩まされるけど、この笑顔が見れるなら僕にとっては些細なことだった。
「さぁ、エリオンのお陰で充電も満タンになったことだし! 私はそろそろ夕飯の準備をしなくちゃね。エリオンも今日はもう帰りなさい」
「えぇ、やだよ。もっとムスク姉ちゃんと話したい! それに魔法だって教えてもらいたいし!」
「ごめんなさいね。でも、今日は早く帰った方がいいわ。あなたのお父さんも待ってるわ」
「⋯⋯わかったよ」
渋々僕は頷く。
本当はまだまだ一緒に居たかったけど、確かにもう日も暮れ始めている。これ以上、ムスク姉ちゃんにもお父さんにも迷惑はかけたくは無かった。
「それじゃあ行くねムスク姉ちゃん。明日こそは魔法教えてよ!」
「⋯⋯エリオン」
「ん、どうしたの?」
走り出そうとする僕に向かって、ムスク姉ちゃんが優しく微笑みかける。
温かくって優しい僕の大好きなムスク姉ちゃんの顔。
でも、この時は少しだけ寂しそうに見えた。
「あなたはこれからきっと多くの魔法を学ぶことができるわ。そして多くの出会いを経験する。きっと苦しいこともあるだろうけど、あなたなら乗り越えられるはずよ。それと、女の子にはちゃんと接するのよ? 急に抱き着いたら絶対ダメなんだから」
「どうしたの急に?」
「何でもないわ。あなたの大好きなお姉ちゃんの余計なお節介よ。それじゃあねエリオン」
話は終わりだというように、ムスク姉ちゃんが手を振るう。
僕の心は何故だかざわついていたけど、気のせいだと自分に言い聞かせた。
「うん! それじゃあねムスク姉ちゃん!」
僕も手を振り返して走り出す。
明日は朝一でムスク姉ちゃんに会おう。
僕は気持ちを切り替えて、足早に家へと向かった。