縋ったっていいじゃない。女ですもの。
「時代遅れよね」
カフェの一角から聞こえてきた声に、『またか』と思いつつも反応してしまう。喉の奥に冷たいミントティーをこくんと流しながら、私は耳を傾けた。
「この間読んだ小説、婚約者に浮気された令嬢が、『私を捨てないで』って縋りつくの。情けなくてちっとも感情移入出来なかったわ」
「ふふっ、まるで時代劇ね。浮気した婚約者なんて、こっちから願い下げよ。どうせそんな男にはろくでもない人生が待っているんでしょうし、勝手に破滅すればいいんだわ」
「そうそう、『どうぞご勝手に』よ。失った女の価値に気付いた時には、『もう遅い』んだから」
「今時別に男に頼らなくても生きていけるしね。私の価値が分からない男に縋ったり媚びを売るくらいなら、私は一生独りで生きていくわ」
「ええ。それこそが新しい時代の女性像よ。……ほら、あの女性を見て」
視線を感じるも、私は素知らぬ顔でグラスの水滴を拭う。
「斬新な髪型ね。淑女の象徴と言われた髪を、あんなに短く切ってしまうなんて」
「スカート丈も……人前で決して見せてはいけないと言われた素足を、あんなに大胆に出して」
「ああいう女性こそ、まさに新しい時代の女性像よね」
新しい時代の……この私が…………ね。
溶けた氷で薄まった、味のない最後の一滴を飲み干すと、女性達の視線を背にカフェを後にした。
日はもう暮れ始めているというのに、石畳を踏んだ瞬間、もわっと熱気が立ち昇り全身を覆う。
せっかく冷たいお茶で涼しくなったのに……また汗が吹き出しそう。
ハンカチをむき出しの項に当て、さくさくと家路を急ぎながら、さっきの会話を思い出していた。
女性の自立、人権、尊厳。
そんな会話ばかりの新しい時代に、同じ女性でありながら、自分はぽつんと取り残されている気がする。
耳の下でパツンと一直線に切り揃えたこの髪型も、膝丈の短いスカートも、新しい時代の女性像とやらを主張している訳ではない。理由は単純。ただ、暑さに弱いからだ。暑くて死んでしまうくらいなら、好奇の目に晒されようが別に構わないと。
ああ……暑い。暑くて暑くて堪らない。
早く我が家に帰りたいわ。
冷たくて愛しい貴方が待つ、私のお城へ……
アパートのドアを開けると、私の王子様が腕組みをして待ち構えていた。冷たいアイスブルーの目でギロリと見下ろされれば、汗だくの身体がキュンと冷えていく。
「遅くなってごめんなさいね。暑すぎて、ついカフェに」
「……寒い」
「今温かいスープを作ってあげるわ。少し待っててね」
「早く作らないと出て行くぞ」
出て行く……貴方がここを……私の元から居なくなってしまう……
想像しただけで、涙がじわりと滲む。私は彼の広くて冷たい胸に縋りついた。
「いや……出て行かないで。お願い。今すぐ作るから」
「……分かった。だが期待するな。どんなに温かいスープをどんなに手早く作っても、私がお前を愛することは決してない」
「……それでもいいの。あなたの傍に居させてもらえるなら、私何でもするわ」
すりすりと頬を寄せ冷気を楽しめば、冷たい手が私の頭を優しく撫でてくれた。
◇
────彼がここに来たのは一年前。今日みたいにものすごく暑い日だった。
勤め先の美術館で、曰く付きだと気味悪がられた氷の王子の彫像。処分しようかどうしようかと館長が悩んでいたそれを、私が引き取ったのだ。
古代の氷の魔力で創られているらしいその像は、近くに寄れば普通の氷と同じく冷気を感じるものの、決して溶けることがない。睫毛や爪の先まで……今にも瞬きするんじゃないか、動き出すんじゃないかと思う程に美しく、暑がりの私はよく彼の前でうっとりと涼んでいた。
ところが、彼の評判はあまり良くなかった。この像を見ると何だか無性に苛々すると、女性客からのクレームが相次ぎ……酷い客は、持っていた日傘でいきなり彼を殴り付けたり、水を掛けたり、脱いだ靴をぶつけたり。落ち着いた頃に理由を問い質すも、何故苛立ったのか全く分からないと口を揃えて言う。
館長がとあるオークションで購入した彼。その胸元には、五百年も前に滅びた北国の王家の紋章が彫られている。非常に貴い彫像だったのではと推測されるも、前の持ち主も、その前の持ち主も詳細は不明だと言う。分かったことはただ一つ、それに関わる女性達がやたらと苛立ち情緒が不安定になる為、手放したということだけだった。
よいしょと彼を狭いアパートの部屋に運び、どこからでも見えるど真ん中に置くと、蒸し風呂みたいだった部屋に心地好い冷気が一気に広がった。
幸せ……美しいし涼しいし。こんなに素晴らしい彼の、一体どこに苛つくのかしら。
火照った手で滑らかな氷の頬に触れれば、冷気がシャッと放たれ胸を射抜いた。
一緒に暮らす内に、冷たい彼への愛情はどんどん高まっていく。撫で回したり、抱き締めたり、その……ほんのちょっとだけ唇を寄せたり。
そうやって愛でていたら、ある日突然氷が溶けて、中から本当に冷たい王子様が現れた。
開口一番、
『お前を愛することはない』
……って。
古代魔術の専門科に見てもらったところ、どうやら彼は魔術で創られた氷の像ではなく、呪術で氷の像に変えられた生きた人間だと言う。それが何らかの理由で解呪し、長年の時を経て本来の姿に戻ったのだと。彼を見た女性が激しい憎悪や嫌悪感を抱くことから、恐らく女性に怨まれて呪いをかけられたのではないかということまで分かった。
なんて素敵なお話なの! まるでおとぎ話みたい! と、私はわくわくした。
彼の祖国は既に無い為、役所と神殿に事情を説明した所、少し時間は掛かったが、我がトーレス国民として正式に名を登録することが出来た。王子様なのに平民からの再スタートで気の毒だけど、今は身分に拘わらず自由に生きることが出来るのよ、と言うと渋々納得してくれた。
まだ体内に呪いが残っている為、可哀想に……彼はよく寒い寒いと訴える。体調が安定して生活に慣れるまではここに居てねとお願いすれば、『居てやっても構わないが、お前を愛することは決してない。期待はするな』と、冷たく言いながらも素直に頷いた。
それから私は、彼に色々なことを教えた。新しい生活や文字の読み書き、中でも一番習得が難しかったのは、現代の女性達への接し方だ。外では大分物腰も柔らかくなって、よしよしもうこれで二度と嫌われることも呪われることもなさそうねと安堵しているのに、何故か私には変わらず冷気全開だ。
遠くない未来。いつか彼が、私を置いてここを出て行ってしまう日を想像する度に、哀しくて哀しくて堪らなくなる。もし本当に出て行こうとしたら、どんなに情けなくたってみっともなくたって、泣いて縋って離れないと思う。
……どうぞご勝手になんて言えないわ。決して愛してもらえなくたって、私が愛しているんだもの。
◇
「お待たせしました」
トマトと牛肉を煮込んだ熱々のスープを出せば、アイスブルーの目がパッと輝く。
早く出来てよかった……下処理しておいて正解ね、と額の汗を拭い、彼の横に座る。
彼は一旦背筋を伸ばし、手早くお祈りを捧げると、深いスプーンにたっぷり掬い口に入れる。もぐもぐと頬を膨らませては飲み込む内に、青白い唇は段々と血色が良くなっていった。
「古い料理本に、貴方の御国のスープの作り方が載っていたの。手に入らない材料もあったから、似た物でアレンジして作ったのだけど……お味はどう?」
「うん……記憶とは少し違うけれど、これはこれで悪くないな」
『悪くない』は『かなり美味しい』。みるみる底に近付いていくスープ皿に、私の胸はときめく。
────男女平等が叫ばれて、貴族と平民の格差もほとんどなくなって。逆に厳しいことも多かった新しい時代で、自分なりに懸命に生きてきたけれど。『後悔しても、もう遅い』なんて、胸を張れるような特別な価値は、自分にはない気がしていた。でも、こうして愛する人の為に料理を作る自分は、大好きだし大切だと思う。
「……お前は食べないのか?」
「今は暑いから、後で頂くわ」
調理の熱がまだ残っている顔を、手でパタパタと扇ぎながらそう答える。
彼はスープを一匙掬い、それにヒュウと息を吹き掛けると、何も言わずに私の口元に差し出した。
……優しいスプーンに、思わず笑みが溢れてしまう。
パクリと咥えれば、甘酸っぱい冷製スープが、内側からすうっと身体を冷やしてくれた。
「美味しい……とっても」
もう一匙くれないかしらと、彼の顔とスプーンを交互に見ていると、冷たい声が浴びせられた。
「そんな顔で期待しても無駄だ。私がお前を愛することは……愛することは……決して……」
そこまで言うと、彼はスプーンを静かに置き、冷たい親指の腹で私の唇を撫でる。
「赤くなっているな……スープで」
今までに感じたことのない強烈な冷気が私へ迫る。もっと内側から……もっともっと涼しくなりたいと、いつの間にか開けていた熱い唇に、冷たい彼が滑り込む。
冷気を求める私と、熱を求める彼。甘酸っぱいスープの余韻の中、絡み合い混ざり合った温度は、私達の適温だと気付く。
この瞬間から、彼が寒さに震えることも、あの冷たい言葉を吐くことも二度となくなった。
身体の氷は『愛される』、心の氷は『愛する』ことで────
完全に呪いが解けた彼は、仕事を始めて一人でも生きていけるようになった。だけどどこにも行かずに、今夜もここで私を抱き締めてくれる。
熱風みたいな吐息と、燃える素肌。暑さに弱いはずなのに、彼の逞しい熱には必死に縋りつく自分が可笑しい。そんな可笑しい自分が、大好きで大切だ。
……ええ、縋ったっていいじゃない。時代遅れでも、情けなくても。今はただ彼を夢中で愛している、それだけの女ですもの。
ありがとうございました。