転2
キャラクター
塩路礼人
この春から高校生。
写真家の叔母を頼り、上京してきた。絵を描くことが趣味。
しばらく前から、自分の絵に行き詰まりを感じて悩んでいたが、まなせ先輩に出会って何かを掴みかけている。
真瀬先輩
「月明かりでしか顔が見えない」呪いを持つ、れいとの一つ上の先輩。
普段は顔が真っ暗で見えないが、月の光を浴びている間だけ、一時的に素顔が見えるようになる。
満月に近いほど、顔がはっきりと見えるようになる。
夏休み中に実家で迎える、最後の朝。
「もうあっちへ戻るの? 学校始まるのは九月でしょ、まだ一週間以上もあるのに……それに、ぜんぜんゆっくりしてなかったみたいじゃない」
「ありがとう、お母さん。でも東京でどうしても、やらなきゃいけないことがあるから」
それを聞いた母は、仕方ないといった表情になって吐息をもらすと、帰り道でのお弁当を持たせてくれる。
感謝しつつそれを受け取って、今度は妹にも改めてお礼を言う。
「ミヤも、受験生なのにモデルやってくれたりありがとうな」
「別にそのくらい、なんてことないし。ていうかむしろ、息抜きにちょうどよかっただけだから」
兄想いの立派な妹の、頭をポンポンとする。ウザそうな感じを出しつつも、いやがっていはいない様子。
因みにゆみおばさんはというと、こっちへ来てから一週間と経たず、仕事のため先に東京へと戻っていた。
一人旅な東京への道すがら、今回の帰省中のことを思い返す。
先生に美術室を貸してもらえるようお願いをすると、条件付きで許可を出してくれた。
というのも今年は二人も部員が入ったらしく、その子たちの面倒も見てくれたらとのことだった。
一応、どちらも近隣に住む顔見知りではあって。
一人はイラストなんかを描いている女の子と、もう一人は漫画を描く男の子だった。
絵に関することや、東京にいる間のことなんかを聞かれたり。また反対に、モデルをやってもらったりもした。
その子らの提案で、早く描ける練習としてワンドロ――いち時間で描き上げる絵に挑戦したりもして。
先生のいるときには、絵のアドバイスもたくさんもらえた。
後輩の二人とは仲良くなれて、メッセージの連絡先も交換した。(そしてなぜか、先生もいる美術部のグループにアドバイザーとして迎えられ。どうやら、作ったはいいものの連絡は基本的に口頭で済むので、あまり使われていなかったとのこと)
先生曰く、二人とも普段よりやる気を出していた、と感謝をされて。とても充実した時間を過ごせた。
そんなこんなで、三週間ぶりくらいに東京へと戻ってきた。
「おかえり、早かったな」
「うん、これおみやげ」
部屋に入ると、ゆみおばさんが出迎えてくれた。
「ゆっくりできたか?」
「ゆっくりはできなかったけど、すごく充実してたよ」
荷物を片付けながら答える。
「ふーん。ならまだ向こうにいればよかったんじゃないか?」
「ううん。どーしてもこっちで、やり残したことがあったから」
帰っている間は、とても楽しいときを過ごした。
だから今度こそ、まなせ先輩の絵を完成させてみせる。
「なんかちょっと大人っぽくなったか? 雰囲気変わったぞ」
「からかわないでよ、もう。会ってなかったのなんてほんの少しでしょ」
まったく、またすぐそういう冗談を言うんだから。
一通りの荷物整理を済ませて、ほっと一息つく。
スケッチブックを手に取って、完成間近となった先輩の絵を眺める。
うん、ちゃんと真面目な顔をしたまなせ先輩に見えた。
(きっと、この絵と先輩本人とを見比べたら……)
ほとんどの人が、「似ている」「よく描けている」と言ってくれると思う。そう言ってもらえる自信はあった。
先輩自身もきっと、「うまいね」って褒めてくれるはず。
「だけど、まだ足りない」
もっと、もっと誰がどう見ても。まなせ先輩以外の、何者にも間違えようのないもの。
僕がこれまで見てきた先輩のステキなところ、そのすべてをっ、余すところなく体現したようなものを!
ページを、めくっていく。
帰省している間に描いた、妹や、手伝ってくれた後輩たちの絵が続く。
それらを見返して、そっとスケッチブックを閉じる。そして同時に、ある決心をするのだった……。
――
八月終わりの満月三日前、僕らは再び公園へと集まった。
「お久しぶりです、まなせ先輩!」
おじぎをすると、先輩もぺこりとおじぎを返して。
「久しぶり、れいとくん。元気してた?」
メッセージでのやり取りはあったけれど、こうやって会うのは約一カ月ぶり。
それぞれの帰省先のお土産交換を済ませて、広場の方へと移動する。
午後四時過ぎの日没前という時間もあって、そこそこの人がいた。しかし幸いにして、前回のベンチは空いていた。
準備を進めつつ、ベンチに座ってアラームの用意をしているまなせ先輩に、あることを伝える覚悟を……決める。
「先輩に、折り入ってお願いがあります」
「どうしたの? そんな改まって」
先輩の前に立つと、彼女はこちらを見上げて不思議そうな感じで問いかけてくる。
今はまだ呪いで表情は見えないけれど、それでもできるだけ目の方を見て。
「絵をもう一度。最初から描き直したいんです!」
そう告げると先輩は、少し驚いた様子をみせて。
それから顎のあたりに手を当てて小首をかしげ、わずかに思案したかと思うと。
「……うん。いいよ」
「えっ!? 理由とか……聞かないんですか?」
あっさりと、許してくれた。
あれだけ付き合ってもらった上で、最悪怒られてモデルをやめられることまで覚悟していたのに。
「大事なこと、なんでしょ? だったらもうとことんまで、付き合うよ!」
そう言って、彼女は両手でガッツポーズを作って見せた。
その心の広さに、胸が熱くなった。
「せ、先輩っ……本当に、ありがとうございますっ!」
深々と頭を下げる。
(ああ、自分の目に狂いはなかったんだ)
この人と出会えて本当によかった、心の底からそう思えた。
先輩に促されて頭を上げ、すぐに描き始める準備を整える。
時刻は午後四時半過ぎ、月はすでに昇り始めている。天気も味方していて、今日は目いっぱいにできそうだった。
一度目のアラーム。
下絵も前回よりも迷わず進められている、いい調子!
内心手ごたえを感じていると、休憩中の先輩が。
「なんだか、顔つきが違うね」
「えっ? そう、ですか?」
突然そんな風に言われると、ちょっと照れくさい。
「うん。前よりも余裕がある感じ?」
他の人からだと、そう見えるのだろうか。
自分だとあまり変わった気はしないけれど。
「実家に帰っているあいだ、中学の美術の先生から色々教わったんです。それに、妹や美術部の後輩たちにモデルの協力をしてもらったりもして」
先月は僕が不甲斐ないばっかりに、まなせ先輩には色々負担をかけてしまったから。
それを聞いた先輩は、納得した様子でうーんと深くうなずいて。
「なるほどねぇ。男子三日会わざれば……ってやつだ」
「先輩? えっとぉ……?」
言われた意味が分からずに、聞き返してしまう。
「いやぁれいとくん、男を上げたねって」
「へっ!? いやそんな、からかわないでくださいよもう! それを言うなら腕を上げた、でしょう」
ゆみおばさんといい、まなせ先輩といい、僕をからかって遊ぶのが流行ってるの?
そんなに言われるとなんだか、本当にそうなのかと勘違いしちゃいそうになるじゃんか。
「えー、別にからかってないけどなぁ」
彼女は不服そうに頬を少し膨らませて、抗議の意思を示した。
(さんざん子どもあつかいなくせに、まったく先輩って人は……)
「続き、やりますよ!」
それからもまだまだ暑い中、適度に休憩をはさみつつ順調に作業を進め。
四度目のアラームが鳴るころ、だいたい輪郭を取り終えて。
五度目のアラームが鳴って、より細かい部分に入る。
それから三十分ほどさらに付き合ってもらい、あと少しで色塗りに入れるというところまで持って行けた。
「今日は無茶を聞いてもらったり、こんな時間まで付き合ってもらって、本当に感謝してもしきれないです!」
先輩との別れ際、もう一度お礼を言って頭を下げた。
時刻は午後九時になろうかというところ。これまでたった一言の愚痴さえもこぼさない、まなせ先輩には本当に頭が上がらない。
「そんな気にしないでよ。どれも私がやりたくて、やってることだから」
「そうなんですか?」
モデルをやってみたかった、とか……?
でもそれだけなら、わざわざまた一から付き合う理由にはならないような。
答えはすぐに先輩の口からもたらされた。
「うん。こんな自分が……誰かの役に立てていることがね、嬉しくてたまらないんだ。それにいつも助けられてる大事な後輩に、恩返しもできるしね」
「そんな! 先輩にはこれまでもたくさん助けられてますよ! それに、僕はなんにも……」
いつもお世話になるばかりで、助けただなんて。
せいぜい園芸部の手伝いを少ししたくらいで、それだって今までのお返しに、しかも大したこともできていないのに。
「離れないでいてくれるだけでもう。十分すぎるんだよ、私にとっては。まあそれにあとは、自分の似顔絵なんて生まれて初めてのことだから、純粋にすごく楽しみだし」
まなせ先輩はそう、本当に楽しそうに言った。
でも。ここまでの言葉一つ一つに、重さがあった。
こうなったら、自分のためだけでなく先輩の為にも。
「僕、必ず先輩が満足してくれる絵に仕上げてみせます!」
「よしじゃあ、期待させてもらうね」
それで彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
――
翌日も、そのまた次の日も先輩と絵を描き進め。
二日間で計五時間近く励んだ結果、彩色の工程も全体の八割くらいのところまで来ていた。
そして今日は四日目、つまり夏休み最後の満月の日。
より細部を描き込んでいく予定だったのだけれど――
「これ……晴れてくれるかな? 予報だとまだしばらくは、曇りになってる」
まなせ先輩がスマホで天気を確認しつつ、空の方へと顔を向ける。
もちろんその表情は真っ暗で見えない。
「すみません、それなのに付き合わせてしまって」
今日は朝から一日中、空には雲がかかっていて。今のところ、月は見えそうもない。
しかし夜中には晴れるとあって、もしかしたらという期待を込めて集まってもらっていた。
今日の残り時間はあと二時間くらいなので、それまでに少しでも晴れて欲しいけれど……。
背景や制服など顔以外の、出来る部分を進めながら様子を見ることにして。
一度目のアラームが鳴り。次のアラームをセットして、作業に戻る。それから少ししたとき――
「あ、お月様出たよ!」
そう、笑顔の先輩が夜空を指さした。
ちょうど雲間から月が、顔を覗かせている。先輩は嬉しそうに月を見て笑いながら、こちらに語りかけた。
そんな彼女を見て僕は思う。
(ああやっぱり……キレイな人だなぁ)
それは本当に美しくて。今までで一番強い輝きが見えた。
ただ容姿の端麗さだけじゃない、ふとした瞬間に垣間見える表情や仕草を、この二人の時間でたくさん見られた。
たとえば、休憩に入るときのふっと力の抜ける表情。汗をぬぐうときの仕草。モデルの途中で、時々髪をイジるくせ。作業の終わりにはいつも、大きく伸びをするところ。お茶を飲む際の髪をかき上げるさま。休憩中に月を見上げて、こぼす笑み。
先輩の向けてくれる、優しい笑顔。
そういう端々にも映る、まなせ先輩の魅力。
それら全部が、この人を形作っている。
この一枚でどれだけを表しきれるんだろう。ただ求め続けてひたすらに、この手を動かしつづけてきた。
しばらく夢中で描いていたら、ふと軽快な鼻歌が耳に入ってきた。
「~♪」
そちらの方を見ればまなせ先輩は、たぶん無意識に、ご機嫌な様子で鼻歌を奏でている。
やがて、思わず止まっていた手を再び動かす。
暗い影の中で迷っていた自分に、光をくれたこのステキな先輩のことを。ずっとずっと先まで、残したいと思った。
もしもこの絵を描ききったそのとき、人生が終わってしまうのだとしても。たぶんこの手は止められなかった。
「あんまりできなかったね」
帰り道、まなせ先輩はがっかりそうに言った。
結局月が出ていたのは三十分ほどで、またすぐに薄く雲がかかってしまい。顔がうっすら見えなくもないけれど、黒く覆われてしまってまさに、月に雲がかかっているかのような状態となっていた。
それ以上は待っていても、雲がすぐには晴れそうになかったので、相談して切り上げることに決めた。
「それでも、すっごくはかどりました」
「そうなの?」
先輩が意外そうなトーンで聞き返す。
「はい」
たしかに月の出ていた時間は短かったけれど、受験本番の日以上の、人生で一番くらいの集中で作業を進めることができていた。
もうあとは仕上げに入って、それが終わればいよいよ完成になる。
まなせ先輩のくれたこの特別な時間が、あと少しで終わってしまうのは寂しいけれど。
でもそれとは比較にならないほどに、先輩にとってのこの時間が、価値あるものとなって欲しい。
そのために僕がやれることは、この絵を会心の出来で完成させることだけだから。
「先輩、明日もよろしくお願いします」
「うん。また明日ね」
――――
「ただいま」
ひかりが家に帰ったとき、奥からスーツ姿の父親がやってきた。
(お父さん? なんでこの時間に……)
彼女の父親は普段もっと、遅い時間に帰ってくることがほとんどだった。
「ひかり、こんな時間までそんな格好で。どこで何をしていたんだ」
時刻は八時を過ぎた頃。学生が夏休みに、わざわざ制服でという不自然さ。
それを咎められる。
「なにって、それは――」
説明をしようとした娘の言葉をさえぎり、父親は続けた。
「ここのところ毎日だそうだな? それに高校に入ってからときどき、夜暗くなってから家を出たりもするそうじゃないか。なにか、よからぬことでもしているんじゃないだろうな」
「はっ? なにそれ、そんなわけない!」
自分の話を聞こうともせず、一方的に決めつける口調に、ひかりはカチンときて。
「じゃあいったい何をしてたって――」
「お父さんになんて関係ないから!!」
父親の脇を押しのけるように通り抜けて、自室へと向かう。
「おいっ、ひかり! とにかくもう夜に出歩くのはやめなさいっ!」
その制止の言葉を無視して、部屋のドアを勢いよく閉めた。
(久しぶりに話したと思ったらこれって、さいあくだよ……)
ひかりはしばらく、しゃがみこんで膝を抱えていた。