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浮世呪いばなし  作者: 蔵亜 謙
第二話 月下美人
8/10

転1

キャラクター

塩路礼人しおじれいと

 この春から高校生。

 写真家の叔母を頼り、上京してきた。絵を描くことが趣味。

 しばらく前から自分の絵に行き詰まりを感じている、悩める男子。


真瀬まなせ先輩

 「月明かりでしか顔が見えない」呪いを持つ、れいとの一つ上の先輩。

 普段は顔が真っ暗で見えないが、月の光を浴びている間だけ、一時的に素顔が見えるようになる。

「先輩に絵の、モデルになって欲しいんです!」

 月夜の公園で。

 かつてないほどの興奮状態で、まなせ先輩の目をまっすぐ見て頼み込む。

 もしも一生のお願いをするとしたら、ここしかないとすら思えていた。

「私の絵を、れいとくんが……?」

 先輩が自分のことを指さしつつ、困惑した表情で聞き返す。

「はい! ぜひっ!」

 珍しく押しの強い後輩に、戸惑う先輩。

 そこでようやく我に返って、急にぐいぐいと行きすぎてしまい、失礼だったかもしれないという気持ちが芽生える。

「うーんと……」

 困った顔のまなせ先輩。

 その顔を、じーっと見つめる。

 彼女は見れば見るほどの美人顔で。全体のバランスも整っていて、左右対称。声や言動から想像していたよりは、少しクールな印象だった。

「えっととりあえず、テストも近いし。もう少しで夏休みだから、入ってからなら。ね?」

 熱い思いが先輩へと伝わった……!

 と、いうより。押し負けたという感じ?

 まなせ先輩はちょっと恥ずかしそうに頬を赤くして、両手でこちらを押し返すようなジェスチャーで、少し離れるよう促す。

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 一歩後退しつつ、頭を下げてお礼を言う。すると彼女は少し、ほっとした表情になって軽く胸に手を当てている。

 気持ち的には、その先輩の手を取ってぶんぶんと上下に振りたいくらいだけれど。これ以上困らせないように、それはがまんしておこう。

「今日はもう遅くなるし、この話の続きはまた今度にしよっか」

 と、その日は解散となった。


 後で聞かせてもらったところによると、先輩の呪いはどうやら、満月に近い時ほどはっきりと見えるということなのだそう。

 今月中はテスト期間とかぶっていてムリなので、夏休みに入った七月の末に、という約束をした。

 テストなんてなければ……という気持ちもあったけれど。そもそもテスト勉強のおかげで教えてもらえたのだったと、思い直して。


 とはいえ、テスト期間も絵のことで頭の中は一杯だった。家で勉強しているときもつい、先輩の落書きをしてしまったり、集中を欠きつつ。

 それでも先輩たちとの勉強の成果もあって、なんとか赤点は免れることには成功。



 一学期末テストが終わってすぐ、まずは画材の調達を始める。

 テスト期間中の買いに行きたい衝動を、必死に抑え――ゆみおばさんにも止められた――試験の終わった、次の日にゆみおばさんとインターネットで調べる。

 ちなみに最終日当日は、小島くんたちと打ち上げをした。

 

 少し大きめのちょっといいスケッチブックだったり、色鉛筆の少なくなった色なんかを買い足したいと思っていた。

「へー、折り畳み式のイーゼルなんてあるんだ」

「イーゼル?」

 インターネットで調べていた時、おばさんに聞き返される。

 高校の合格祝いだということで、欲しいものを買ってもらえることになっていた。

「美術室とかにある、絵を描くときにキャンバスとかを乗せるやつ」

「ああ。あの、カメラの三脚みたいなやつな」

「そうそれ!」

 しかもけっこう、お手頃な値段のものも。

「必要なら買ってやるぞ、いくらだ?」

「だいじょうぶ。よく油絵とかで使われるけど、僕は色鉛筆だから」

 他には、持ち運べるコンパクト腰かけも欲しいと話したところ、おばさんが持っているものを貸してくれると言ってくれて。



 それから、まなせ先輩とも二人で話し合って。場所はこの前の公園の、広場に設置されたベンチに決めた。

 開けた屋外じゃないと月の当たる時間が限られてしまうし、遅い時間なこともあって、ちょうどいい屋内が思いつかなかったなどの事情からだった。


――


 一カ月近くが経ち、七月の末。

 ついに、その日がやってきた。

 満月とその前後三日間くらいが、かなりはっきり見えるようになるということで、先輩の教えてくれた月齢が十二を超える日を待った。

 夏休みに入ってからはずうっと、この日が来るのが待ち遠しくてうずうずしていた。


 絵を描くために少し遅い時間に出歩く許可も、きちんと事前にゆみおばさんからもらっておく。

 曰く。

「お前ももう高校生。ちょっとくらいやんちゃしたっていいだろ」

 こうも続ける。

「でも危ない事には気をつけろよ。あと人に迷惑はかけるな」

 と。最後に、

「しっかりな」

 なんて軽く肩を叩かれる。

 なにか勘違いをされているような気もするけれど……ちゃんと先輩と二人で絵を描くって言ったのにな。


 今日の月の昇り始める時間に合わせて、公園の入り口に集まる。

「あれ? れいとくん早いね」

「いえ、お待たせしてしまってごめんなさい!」

 画材セットを一式持ってドキドキしながら集合場所へつくと、先に着いていた夏制服姿のまなせ先輩が迎えてくれた。

 話し合いの結果、日をまたいでも同じ服でいられるように、制服ということに決まった。

 先輩によれば今日の月の出が、午後四時半ごろらしく、その十分前には着いたのだけれど。

「ううん。私が早く来過ぎただけだから……あ、今来たとこって言った方がよかったか。ごめんね?」

 先輩は両手を合わせて、茶目っ気交じりに謝った。

 今はまだ先輩の表情は見えないけれど、なんとなく思い浮かぶようだった。

「とりあえず、準備をしましょうか」

 そんな普段通りの彼女につい口元が緩みつつ、広場の方へと歩きはじめる。


 広場に着くと幸い、人もまばらで。まなせ先輩のアドバイスを元に目星をつけていた、街灯も近くて東向きなベンチは空いていた。

 事前のロケハンにて、

「この位置なら、前が開けていて東に面しているから月の光が当たりやすいし。それに街灯も近いから明るくていいと思うな」

 という先輩の考察から。ここが空いていなければ、先輩には持ってきたイスに座ってもらって、立って描くことにするつもりだったけれど幸運だった。

 ベンチの正面に適度な距離で、折りたたみイスを設置。画材の用意も済ませる。

 ほどなくして準備は完了……したものの、月が出る時刻からある程度は月が昇ってからでないと、先輩に月の光が当たらない。

 呪いが消えてまなせ先輩の顔が見えるようになるまでは、できることをしておこう。

 まずは構図、といっても正面からにするのは決めているので、あとは画角の問題。

 新品のスケッチブックを縦向きに、先輩の顔を中央やや上寄りに来るように設定。その長くきれいな髪もできるだけ入れるために、あばら付近までが映るような少し引き気味に決めた。


 いざ、そのまま鉛筆で下絵に入っていく。

 もう何年も、おもに風景画か静物画ばかりを描いてきた。

 特別苦手という意識もないけれど、久しぶりの人物画。昔はよく家族をモデルにして、特に妹に付き合ってもらいながら――たまにせがまれて、描いていたりもした。

 中学の美術部でやった石膏像のデッサンを除けば、最後にまともに人を描いたのは……妹が中学に上がるときだから、二年以上も前になるだろうか。


 キレイに背筋を伸ばして座る先輩と、目の前の画用紙との間で何度も何度も、視線を行ったり来たり。描いては消して、また描いては消すを繰り返していたら。

「あ……」

 ふと先輩の顔が見えるようになって、描いていた腕が一瞬止まった。

 しかし、すぐにハッとする。

「ごめんなさい先輩、じっとしてるのツライですよね! 暑いですし、飲み物とかもガマンせず、いつでも飲んでくださいっ。それから好きに体を動かしたりしてもらって、だいじょうぶですので!」

 まなせ先輩はむずがゆそうな表情で、さらに上気して汗が流れだしているのが見えた。

「うん、ちょっとごめんね」

 彼女は脇に置いた自分の手提げから、ペットボトルのお茶を出して勢いよく飲んでいる。気温も昼間よりはマシといっても、まだ日が沈みきってもいないし十分に暑い。

 今更ながら、ずっと元気よく鳴いているセミたちの声も耳に入ってきた。

 視線を背後にやれば、いつのまにか遠くの空に昇ってきたほぼ円形のお月さまと目が合った。

 集中していて、すでに一時間以上も経過していることにまるで気がつかなかった。もう午後六時を回っているし、今日の残りの作業時間はあと二時間くらいか。

 今は下絵のあとの全体的な輪郭を取る作業に入っていたけれど、なかなかうまくいかずに苦戦していた。

「ぷはっ。ねえこれって、どんな表情をしていればいいのかな?」

 お茶を半分くらい飲みほした先輩が、そう尋ねた。

「えっと……ムリに作らなくても、自然な表情でいいですよ」

「ん~~、わかった」

 すると先輩は、きりっとしたまじめな顔になった。

 自分自身も、持ってきていた水筒の氷水を一口含んで、額の汗を腕で拭う。作業再会だ。


 身体の輪郭はおおよそ取れた。

 その一方で、一番だいじな顔についてはこれから修正していく必要がある。

 彼女の顔をじっと見る。目鼻立ちは整っていて、全体的なラインはシュッとしている。肌の色は健康的で血色がよくて、目元や眉はキリッと、口元は優しい薄桃色でつややか。

(なんとか、この魅力を余すところなく……!)

 描いてみては納得がいかず、描きなおす。

 顔が気になって直せば、今度は首から下のラインが気になり。髪を直してまた顔に違和感を覚える。

 描きなおす。また描きなおす。また…………

「……くん、れいとくんっ!」

「はっ、はい!? どうしましたか!」

 名前を強く呼ぶ声にハッとして、慌てて手を止めて彼女の方を向く。

 まなせ先輩は控えめに手を挙げていて、申し訳なさそうな顔でお願いをされる。

「あのさ、お茶を飲んでもいいかな? それとちょっとお手洗いにも……」

 言われて気が付く。

 先輩は赤らんだ顔で、額には大粒の汗を浮かべていて。反対の手で顔を扇いで風を送っていた。

「すぐにどうぞっ!」

 また、いつのまにか一時間半近くの時間が経過していた。まだ輪郭さえも取り終えられていなかった。

 なんにしても。先輩の顔をガン見していたくせに、そのツラそうな表情に気づけなかったことに悔恨の念がわきあがる。

(しっかりしろ、僕!)

 時刻は午後七時半前。

 僕はよくても、先輩はあんまり遅くなりすぎるわけにいかないはずだ。

(もっとうまく……でも、どうすれば?)

 まなせ先輩がお茶を飲んでからトイレに行っている間、絵の中の彼女とにらめっこをしながらどうしようかと悩んでいたら――

「ぴゃっ!?」

 突然冷たいものが首筋に当てられて、変な声が飛び出してしまう。

 いつの間にか戻ってきていた先輩が、おそらく買ったばかりの水滴だらけのお茶のペットボトルを当ててきていた。

「れいとくん、顔真っ赤だよ? 汗だくだしちゃんと水分とった?」

「あ……飲みます」

 とても心配そうな顔で言われてしまい、水筒を取り出して中の氷水を一気に流し込む。

「はぁっ、はあ~……」

 急速に体中の熱が引き、少し冷静さが戻ってくる。

 その間に元のベンチに座りなおした彼女は、またマジメな顔になっていて。


 額の汗をぬぐい、また鉛筆を手に絵の続きに入った。



 そうして、午後八時半を過ぎるころには作業が一段落する。

「ありがとうございます、長い時間付き合ってもらって」

「いやあ、こっちもいい経験になってるよ」

 今は公園から引き上げて、並んで家路についている。

 一度は断られたけれど、送らないと気がすまないというと先輩の方が折れてくれて、お家の近くまで同行させてもらっているところ。

「うう、すごくかゆい……」

「えっ、れいとくん虫よけしてないのっ!?」

「えと。はい……」

 そうなのだ。そのおかげで蚊に吸われたい放題で、作業中は気にならなかったけれど、肌の出ていた腕や足に顔など、いたるところがかゆかった。

 言われてみれば集まったとき、先輩からは虫よけ特有のにおいがしていたかもしれない。

「明日は持ってきてあげるよ」

「すみません、助かります」

「うん。ここまででいいよ、集合時間は後でメッセージ送るね」

 そして彼女は人差し指を立てて、こう付け足す。

「れいとくんも気をつけて帰るように。寄り道して迷ったりしちゃダメだよ」

「もちろんですっ。明日もよろしくお願いします!」

 先輩は満足そうに笑って頷くと、こちらに背を向けて歩き出す。

 その背中を眺めていると、途中で振り返って手を振ってくれたので、こちらも振り返す。それから道を曲がってその姿が見えなくなるまで、見送った。


 部屋に帰ってからかゆみ止めの薬を塗りたくると、体中がしばらくスースーした。

 スマホが震えたので見てみれば、明日は今日より一時間近く遅い集合とのこと。お礼のメッセージを返す。

 ご飯を食べてシャワーを浴び、涼しい部屋にいたら、どっと疲れがやって来てさっさと布団へと入る。眠りに就く前、脳裏にはまなせ先輩の姿が浮かんでいた。


――


 次の日。

 集合時間よりも少し早く昨日と同じ場所に行くと、やっぱり先輩の方が先に来ていた。

「まなせ先輩!」

 声をかけるとこちらに気づいて、顔を向けて手を振ってくれる。

 今はまだ、その表情は見えないけれど。

「はいじゃあ、両手を広げて立ってね。念のため目もつぶって」

「は、はい」

 先輩は昨日より膨らんで見える手提げかばんの中から、虫よけを取り出して構えた。

 因みに昨日の反省を生かして、極力長めの丈と袖の服装で来たので、肌の露出部は抑えられていたりする。

 シューッ、シュッ。と、手際よく前から後ろからくまなく吹きかけてくれて、ツンとした匂いが鼻をついた。

「それからハイ、これとこれも」

「わわっ」

 頭にキャップを、肩にはタオルをかけられる。

「ありがとうございますっ……あの、どうかしましたか?」

 顔は見えないのだけれど、こちらにジッと顔を向けて、指で髪をいじる仕草や雰囲気などから、どことなくなにか言いたげに見えた。

 彼女は、「えと……」と口ごもった後で。

「いやぁ、そのなんというか……すごく男の子っぽいな~って」

 ……たぶん、すごく言葉を選んだんだろうなってことは察しがついた。

 深く考えたら負けだと思う。

「帽子とタオルありがとうございました。さ、はじめましょ」

「ごめんごめん!」

 重ねてお礼を言い、さっさと作業へと入っていく。


 月が昇り始め、まなせ先輩の顔を覆い隠す呪いが、晴れる。

 昨日の時点で輪郭はほとんどできていたので、ちょっと修正してすぐにより細部へ移れる。と、思っていたのだけれど。

 実物の先輩を前にすると、どうにも色々と気になってしまい。

(やっぱりもう少し…………)

 ――ピピピピッ!

「れいとくん」

「はいっ」

 まなせ先輩のスマホのアラームが鳴り、休憩時間に入る。これも先輩からの提案で、ムリのないよう四十五分ごとに休憩を取ることにしたのだった。

 作業開始から、気が付けばもうそんなに時間が経っていたことに驚く。先輩の貸してくれたタオルで、額の汗をぬぐう。

 互いに水分補給を済ませ、また作業へと戻っていく。

(とりあえずは、こんな感じで……)

 次のアラームが鳴る頃には、ひとまず納得のいく形にまでなっていた。

 おそらく時間的に今日は、次の次のアラームが鳴る頃にはやめていないといけないだろう。


 休憩時間を経て、一度イスから立ちあがって、前方のリアルな先輩と絵の中の先輩とを落ち着いて見比べる。

 軽く修正したのち、ひとまず次の工程へと移った。ここからは顔の各パーツなど、より細部の描写に入る。

 この絵のキモであり、腕の見せ所でもある。


 まずは目、鼻、口と順番にあたりをつける。

 バランスが整ったら、描きこみを始める。何回も生身の先輩と見比べて、少しずつ調節を繰り返しながら。

 髪や眉などもより細かに書き足していく。


 時間はあっという間に過ぎて、一度目、二度目とアラームが鳴る。

 時刻は午後八時を過ぎていた。

 絵の中に少しずつ、まなせ先輩ぽさが見え始め、もうじき彩色へと入れそうなところだった。

「それじゃあね、れいとくん。また明日」

 昨日と同じ場所まで先輩を送ると、少し疲れが見て取れる様子で笑いかけてくれる。

 汗でぐっしょりと濡れた、借りたタオルをぎゅっと握る。

「あの、タオル洗って返しますから! それと帽子もっ……」

「あ、帽子はいいよ。今返しちゃって」

 言いながら彼女は、つばを掴んでひょいと持ち上げると、そのまま自分の頭へかぶせる。そしてそれを、くるりとひっくり返した。

 いたずらっぽく笑う先輩は、その後ろ前なかぶり方も相まって。いつもとは違って少しだけ、子どもっぽく見えた。


――


 三日目がやってきて。

 満月の一日前となる今日の月の出は、午後六時過ぎで。作業時間も初日、二日目と比べてどんどん短くなっている。

 まなせ先輩の話では満月をピークに、日が経つにつれて少しずつ呪いが濃くなってしまい、顔が見えづらくなっていくのだそう。

 クリアに見えるのは満月から三日後くらいまでと聞いていたけれど、そもそもその頃には月の昇る時間が、夜遅くになりすぎてしまう。

 つまりどんなに多く見積もっても、今日を入れてあと四日。それを逃せばまた一カ月後の満月付近まで、待たなければいけなくなる。

(残りの作業可能時間は、どんどん短くなってる……もっと早く。それでいてクオリティは落とさずに!)

 帰宅時間が遅くなりすぎるのも問題だし、それになによりも、まなせ先輩の貴重な夏休みの時間を使っているという事実を、重く受け止めないと。

 今日もまた、先輩に虫よけをかけてもらって。作業へと移っていく。

「今日もよろしくお願いします!」

「よろしくね~」

 彼女は片手をゆるく左右にふって応えた。

 まずは前回の続き、顔面をより本物の先輩へと近づけるべく、ブラッシュアップしていくところから…………。


 一度目のアラームが鳴り、四十五分が経過したことを告げてくれる。

 途中からはもう、彩色へと入っていた。まずは全体的に、少ない種類でベースとなる色を塗っているところ。

 とは言っても、まだ真っ白な部分のほうが多かった。

(今日はあと一セットが限界……時間が、ぜんぜん足りないっ!)

 水筒の中身を口に含み、今日は自分で持ってきたタオルで、顔から溢れ出る汗をぬぐう。

 まなせ先輩がトイレから戻ってきて、引き続き作業に。

(やっぱり顔をもっと明るめに……先輩?)

 しばらくして、ふと先輩の方に目線をやったとき、彼女が俯き加減で船をこいでいるのに気がついた。

「先輩、まなせ先輩っ……?」

「へっ、は!? ごめん寝てた?」

 呼びかけると、すぐに気が付いた彼女は慌てて姿勢を正す。

 スマホを確認すると、さっきの休憩からは三十分くらいが経っていて、少しだけ早いけれど今日はもうやめておいた方がよさそう。

「すみません、今日はもう終わりにしますね」

「ううんごめんね、だいじょうぶだから! ちょっとお茶飲んだら、続きやれるよ」

「でもあのホントに、ムリはしないでいいので……」

 もにもにと、自らの頬を揉んでいた先輩は片手でグッドを作って答えた。

 そして最後に、ぺんっと勢いよく両手で頬を挟み込んで、気合を入れている様子。

「……もっとリラックスしてもらって、問題ないですからね」

「そうなの? でもなんだか、れいとくんがガンバっているから私も~、ってなっちゃって」

 彼女は気恥ずかしそうに、たぶん無意識に首元の髪を手櫛で梳いている。ときどき見る先輩のクセ。

 それからすぅっ、と鋭く息を吸うとやっぱり真剣な顔になるのだった。


 少しして二度目のアラームが鳴ったが、キリのいいところまで待ってくれるというので甘えて。

 結局その後も三十分近く延長してしまっていたところで、いい加減に切り上げた。イヤな顔一つせずに付き合ってくれたまなせ先輩には、申し訳なさと、そして感謝でいっぱいになる。

 でもそのおかげで作業ははかどり、まだ少し真っ白な部分も残っていたけれど、大半はベースとなる色を塗り終えられていた。


 その日も家に帰ってから、布団に入ると気絶するみたいに眠りに落ちてしまった。


――


 ついに今日は満月。

 午後七時前に集まって、作業時間は一時間くらいになってしまうだろうか。

「うーん今日のお月様も、キレイだね。あ! 他意はないよ?」

「? そうですね。晴れてよかったです」

 まなせ先輩は人差し指と親指をくっつけてわっかを作り、その穴を東の空に見え始めた月へとかざしながら、嬉しそうに言った。心なしかテンションが高そうで、ご機嫌な感じだ。

 他意、の部分はよく分からなかったけれど、月がキレイなことには同意だった。そしてそんな満月に照らし出された彼女は、いつも以上にキラキラと輝いて見えた。

「よし、じゃあ準備オッケー。いつでもはじめていいよ」

「はい!」

 今日はまず、残りの箇所に下地となる色を塗っていき。

 次はそこから、より多くの色を重ねていって質感をリアルに近づけていく。明日中には仕上げに入りたいことを考えれば、かなり遅れていた。


 あっという間に一度目のアラームが鳴り。

 そしてあっさりと二度目も鳴った。

「今日も、ありがとうございました……」

 切り上げ時だ。

 先輩の厚意で二度目のアラームまでは続けられたけれど、もう二十時半を過ぎていている。

 連日遅くまで付き合ってもらっておいて、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。

「うん、れいとくんもお疲れさま。順調そう?」

「それが……かなり時間がかかっていて。もしかしたら、今週じゃ終わらないかもしれなくて……こんなに協力してもらっているのに、本当にごめんなさ――」

「いいよいいよ。ダメでもまた八月やろう」

 謝罪の言葉を言い切るよりも前に、まなせ先輩は前向きな口調で励ましてくれる。

 その優しさにどれだけ、助けられてきたか。本当に、感謝してもしきれない。

「それよりもさ。えっと……」

 彼女は言うかどうかをためらって、もごもごな感じで。

「どうか、しましたか?」

「その。ちょっと絵を見せてもらうのって……いいのかな?」

 ずいぶんと控えめにお願いをされる。

 人によって、完成までは誰かに見られたくない、みたいなことに気を遣ってくれたのかな。僕は特には気にしないけれど。

「はい、それではどうぞ」

 と、スケッチブックを先輩の方へと向けようとした途端――

「あ! ごめんやっぱりなし! 完成してからにする!」

 片手をずびっと前に突き出し、待った! のポーズで顔を背ける。ちなみにもう片方の手では目元をおおって、うつむき加減になっている。

「わ、わかりました!」

 なぜだかこっちまで、きっぱりとした口調で返してしまいつつ。

 スケッチブックをしまう。

「楽しみは……最後にとっておくことにする。そんなわけだから急いで帰ろっか!」

 まなせ先輩はどうしてだか、困った顔で笑ってそう言うのだった。


――


 翌日は、午後七時半過ぎに集まった。

 もう月の昇る時間もかなり遅くなってきていて、作業可能な時間も残りわずか。

「こんばんは、れいとくん」

「こんばんは先輩、今日もよろしくお願いします」

「うん。がんばろうね」

 笑顔で頷いてくれたまなせ先輩。今日明日で終わらせる……のはムリでも、なんとか仕上げの段階までは進めておきたい。

(気合い入れろよ、僕……!)


 作業も五日目となり、本格的に顔の着色へと入っていた。

 健康的な肌の色味。つややかな口元。通った鼻筋。シュッとした目元。ちょっぴり上がった目尻。キリッとした眉。

 つるりとした肌。柔らかそうな頬。長いまつげ。すっきりしたあごのライン。薄桃色の唇。吸い込まれそうな瞳。

 ほんのり赤みのさす頬。前髪のスキマからわずかに覗くおでこ。耳を隠す横髪。


 そして黄金比を思わせる、バランス。

 丁寧に、先輩自身のように魅力的に、それでいてできるだけ手早く。


 ――ピピピピッ!

 今日一度目のアラームが鳴ったとき、もう午後八時を過ぎていた。

 顔は詰めの部分まで来ていて、本音を言えばもう少し続けたかった。

(でもこれ以上は……)

 連日暑い中にも関わらず、遅くまで付き合わせてしまっている。

 一昨日だって、先輩は途中で眠ってしまったくらいだ。すでにかなりの負担をかけている現状、これ以上のわがままなんて言えるはずがない。

「次のアラームセットするね」

「えっ!?」

 驚いて先輩の方を勢いよく見る。

「でももう、こんな時間なのに……」

「れいとくん全然やりたりない、って顔してるよ?」

「うっ」

 彼女は微笑みながら、ちょいちょいと自らの顔を指さす。

 感情が表に出過ぎていたと、少し気恥ずかしくなる。

「私はちょっとくらい大丈夫、もう小さな子どもでもないし。れいとくんが平気ならね」

「延長、よろしくお願いします……っ!」

 先輩は口元に手を添えてクスッと笑った後、一つ頷いて合図した。

「よし。じゃあ善は急げってことで、スタートするよ」

 本当にここまで、まなせ先輩には感謝しかない。

 この恩に報いるためにも、この絵は絶対に最高の形にしてみせるぞ!



 そうしてその日の作業の終わりには、顔も描きあがりなんとか絵全体の完成もだいぶ見えてきた。

 明日で首から下の色塗りを進められれば。今月では完成させられないけれど、時間を置いて来月に最終仕上げへとスムーズに入れる。

 ただ明日の月の出は午後八時前後、残された時間はもう限りなく少ない。

「明日は……たぶんむりっぽいかな」

 すると先輩の方から、そう切り出されてしまった。

 ……一呼吸おいて、出来るだけ冷静に返す。

「はい。時間が、遅すぎますよね」

 まったく予想していなかったわけじゃ、ない。

 もうすでに、連日十分すぎるほどに時間を使ってもらっている。先輩にだって夏休みの予定があって当然なんだ。

「えっとね、それよりもなんだけど……」

 言いながらまなせ先輩は、スマホの画面をこちらへと向けて見せてくれた。

 首をかしげながら覗くと、そこには明日の天気予報があって。

「あっ、雨……」

「うん。降水確率九十パーだって」


――


 次の日は、天気予報が裏切らず。朝からあいにくのお天気。

 いそいそと、てるてる坊主を窓際に吊るしてはみたものの、残念ながら祈りは天に通じなかった。

 まなせ先輩は明後日から実家に帰省するらしく、続きは来月まで待つことになる。


 因みに夜になって、てるてる坊主を外そうとしたら。

 いつの間にかゆみおばさんの手によって、オシャレに改造されていた。リボンや髪の毛なんかが付け足されていたけれど、これって坊主っていえるのかな……?



 その翌日は一日中、無気力に過ごして。それから何日かは、夏休みの宿題なんかを進めながら過ごす。

 けれど先輩の絵のことばかりを考えてしまって、まともに手につかず。気がつけばスケッチブックを開いては、描きかけの絵を眺めてばかりいた。

 またその間には何度か、先輩からの連絡が来たりもして。無力感やもどかしさで、ゆらゆらと日々を消費していた。



 そして八月に入って数日、僕もゆみおばさんと一緒に実家へと帰ることに。

 でもやっぱり頭の中は、先輩の絵のことで一杯だった。

 歯がゆさと悔しい気持ちを抱えたままの、帰郷。


 半日かけて、東京に来た時と反対向きのルートをたどる。

 まだほんの、四カ月ぶりとかなのに、もうずいぶんと久しぶりに感じられた。

 家族に東京での話、たくさんあったはずのに。せっかく帰ってきたにも関わらず、東京で出会ったあの輝きが頭から離れない。

 今すぐ東京に戻って、先輩の絵の続きを描きたい。

(そんなの、ムリだってわかってるけど……)

 まなせ先輩だって、今は東京にいないし。

 そもそも次の満月が来るまでは、どうしようもないのだから。

「はぁ……」

 帰ってきてもう、何度目かわからない溜息が漏れる。

 途中でゆみおばさんに、帰りたくないのかと心配されてしまったほど。

 まるで、心を東京に置いてきてしまったかのようだった。


 帰ってすぐ荷物を降ろすと、家族に色々と土産話を聞かれたりして。

 それから途中で少し家を抜けてきて、数カ月ぶりに地元の海岸線沿いを散歩していた時のこと。

 ――すてきな海。

 変わらずそこにあった故郷の海は、東京に行く前とは少しだけ違って見えた。

 そんなとき、ふいに背後から声をかけられる。

「あれ? れいと君じゃない」

「先生!?」

 振り返るとそこにいたのは、中学校時代にお世話になった美術の先生で、顧問でもあった人。

 二年生以降は部員が一人きりだったからとてもよくしてもらって、ほとんどマンツーマンでの指導になっていた。

 そこでふと、ある考えが頭に降りてくる。

(そうだ、もともと次の満月までは描けないんだから。だったら……!)

「先生、美術室をお借りできませんかっ!?」


 全身に活力が、またみなぎってきた!

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