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浮世呪いばなし  作者: 蔵亜 謙
第二話 月下美人
5/10

キャラクター

塩路礼人しおじれいと

 この春から高校生。

 写真家の叔母を頼り、上京してきた。絵を描くことが趣味。

 しばらく前から自分の絵に行き詰まりを感じている、悩める男子。

 いつしか。

 自分の絵にどこか、行き詰まっているような感じがしていた。


 昔から絵を描くことが好きで。物心がついてからずっと、目に映るものを手当たり次第に描いてきた。

 小学生の時の話だけれど、描いた絵が表彰されたこともあった。

 でも中学に上がったくらいからだんだんと、自分の絵に少し、また少しと違和感が芽生えていって。まるで大きな影に飲み込まれて、光を奪われてしまったような。それは暗闇の中を明かりもなしに、さまよい歩くような感覚。

 絵を描きたい気持ちはあるのに、何を描けばいいのかわからない。そんなもやもやを抱えながら、ただもがくように筆を動かし続けていたら、迷子のままに中学校生活を終えた。



 ――そしていまは、三月の終わり。

 中学校卒業のタイミングに、海と山に囲まれた故郷を発って向かうのは、東京。

 バスと電車に新幹線を乗り継ぎ、半日近くの道のり。


 高校受験の期間を経て、絵からしばらく距離を取っていた間もずっと、絵を描きたいという気持ちはあった。

 しかしいざ終わってみても、やっぱり自分は何を描きたいのか。何を描けばいいのか、その悩みが晴れることはなく。もう一年以上もずっと、行き詰まったままだった。

 そのあたりの悩みを前に、東京で写真家をやっている叔母が帰省しているとき、相談をしてみたことがあった。そしてそのとき、

東京(こっち)に来ないか』

 と、誘われたのだった。



 東京へとやって来るのは、受験の時以来。

 これまでにも数度、母や妹と叔母のところへと遊びに来たこともあった。


 叔母の住んでいるマンションの最寄りの駅までは、優秀な妹お手製の()()()()()――ネットで調べてくれたルートなどの情報を、紙にまとめてくれたもの――を頼りにどうにかこうにか、一人でたどり着くことができた。

「えっと、ついたらスマホで連絡を……たしかこうだっけ?」

 受話器のアイコンを押すと、連絡先を開くことができた。

 高校の合格祝いにと買ってもらったばかりで、いまだ不慣れな人生初スマホだけど……(というよりも機械全般苦手で、テレビの録画予約すらおぼつかないけれど)。

 よかった、この分なら「しおり」で電話のかけ方の確認をしなくても問題なさそう。

 登録された叔母の番号に電話をかけると、数回の呼び出し音が続いたあとでつながる。

『もしもし、駅についたか?』

「うん。ついたよ」

『よーし、そんじゃすぐ迎えに行ってやるから。そのまま大人しく待ってろな』

「はーい」

 ――通話終了――


 迎えが来るまでの間、夕方の駅前で荷物とともに一人立ち尽くす。

 …………流れていく、たくさんの人。

 ここには生まれてから当たり前のようにずっと、あった波の音も潮の匂いも、潮風もない。

 みんな、故郷に置いてきたもの。

 すうーーっ……。

 胸いっぱいに吸い込んでみた新天地の空気は、なんだか複雑なにおいがした。

(東京に、来たんだ)

 ワクワクする感じと、同じくらいのドキドキが胸いっぱいに押し寄せる。

「おーい、礼人(れいと)!」

 名前を呼ばれ、そちらに顔を向ける。

 スラっとしてこじゃれた装いの、よく見知った顔の女の人がこちらへと、片手を上げて見せた。

「ゆみおばさん!」

「よく一人で来れたな」

「もう高校生だし、それに妹が道のりを紙にまとめてくれてたから」

 ちょっぴり胸をそらしながら、得意になってそう答えた。

「ああそれは納得。あいつはデキるやつだからな。に、しても……もうお前も高校生になんのかぁ」

 彼女は感慨深そうに、うんうんうなずいたかと思うと。

「相変わらずちっせーまんまだな。てか小さくなったんじゃないか?」

「なってないよ!」

 頭をポンポンされながら、大変失礼なことを言われる。

 まったく、失礼しちゃうよ。

 やがてその手をこちらへと差し出し。

「それじゃあ行くか。手荷物持ってやるよ」

「うん、ありがと」

 財布や()()()、手土産などの入った手提げを引き渡した。


 この姉貴分な女性こそが、僕を東京へと導いた叔母その人。母の妹で、同じ塩路(しおじ)姓だったりもする。

 この人は大学への進学と同時に単身故郷を飛び出して上京、それからずっとこっちで写真家として暮らしているのだ。

 昔から兄妹(きょうだい)の中でも一番かまってもらっていて。しっかり者な自慢の妹と並んで、僕が尊敬をしている人物の一人。昔から時々ふらっと帰ってきては、またしばらくするとスッといなくなるのが常だった。



 一年と半年前の夏もそうだった。

 実家に帰ってきた彼女に、絵で行き詰っていることで相談をした。

「なに悩んでんだ、れいと? 恋か?」

「それが。恋じゃなくてちょっと絵のことで……おばさんは、仕事じゃないときには被写体ってどうやって決めるの?」

 何気なく投げかけたその質問に、叔母は真剣な顔で考え込んでくれて。

「まあ、その時々ではあるんだけど。そうだな……一番間違いがないのは、撮らずにはいられないものに出会ったときだな」

 彼女のその言葉で、はっと気づく。

 思えばこれまで自分は、ただ目の前のモノを描いていれば満足だった。それがすべてだった。

(今まで僕がやってきていたことは……ひょっとして間違っていたのかな)

 そのあとでサラっと言われたのだ。

「礼人。お前、東京に来ないか?」

「えっ?」

 突然の言葉に驚いて、咄嗟に叔母の顔を見つめた。

「つまらないだろ、こんな田舎」

「そんな、ことは……」

 反射的に否定しようとして、でも最後まで言い切ることができなかった。

 べつに生まれ育ったこの町は嫌いじゃない。ましてや自分がここを出て行くなんて、今まで考えもしなかった。

 だけど今の日々に満足をしているのかと、聞かれたらば。それは――

「昔な、私はこのクソ田舎が大嫌いだったんだ。まあ今でもあまり好きじゃあないが」

「……」

「けど外に出たことで、少しはマシに思えるようにもなった」

 叔母の言葉に、黙って耳を傾けた。

「押し付ける気はないし、別に今決めなくてもいい。ただまあ、色んなものを知って……最終的にどんな道を選ぶにしても、できるだけ多くの中から選ばれた選択肢の方が強いだろ」

 とても真剣なまなざしで、そう語りかけられる。

「代り映えのしない日々を過ごしていても、進展はしない。こんなところで腐ってたって仕方ないだろ」


 その数日後に叔母はまた東京へと帰っていった。

 そして年明けのころ。中学二年生の冬休みに、再び帰ってきた叔母へと東京に行ってみたい旨を告げた。

 それから叔母は両親と三人で話し合い、叔母の住んでいる近くにある私立校を、一校だけ受けることになり。受かったらそこへ……という話に決まった。

 妹と違って勉強は得意じゃなかったから、一年間は絵のことを一旦忘れて勉強に励んだ。


 後で聞いた話だけれど、ゆみおばさんは私立に通う分の学費を負担してくれたのだそう。

 そんなささやかな努力と、大きな助けがあって今は、ここにいた。



「ついたぞ」

 ゆみおばさんの住んでいるマンションには、受験の時にも泊まらせてもらっていた。

 今回は半ば機材置き場兼物置になっていた部屋をあけて、そこを使ってもいいと。おばさん曰く、

「多少手狭だが、まあなんとかなるだろ」

 とのこと。玄関の中に入ると、よその家の匂いがした。

 あてがわれた部屋に通されると、そこは実家の自部屋より一回り小さいくらいの部屋。物置と聞いていたから少し覚悟していたけれど、何も置かれていないところを見れば不便はなさそうに思えた。

 ひとまずは荷物をおろして。主に修学旅行の時に使ったドラムバッグと、部屋に上がるときに返してもらった手提げ。

 手洗いなどの後で、持ってきた荷物の整理をする。お土産をおばさんに渡すと、お風呂を勧められた。

「長旅で疲れたろ? まずはサッパリしてこい」


 お風呂に関しては明確に、実家よりもずいぶんと狭く、少し慣れない入浴を済ませる。出たころにはもう日も暮れていて。

 キッチンにはエプロン姿のおばさんが立っていて、カレーの匂いが広がっていた。

 ドライヤーで髪を乾かしたあと、荷物整理の続きなんかをしていると、夕食ができたと呼ばれ席に着く。

「よし礼人、まずは合格おめでとう。がんばったな!」

 そう言いながら、がしがしと頭を撫でられる。

「いやまさか受かるとはな~、この辺じゃちょっと難易度は高めだってのに」

「自分でも、キセキに近いと思ってるよ」

 合格祝い関してはまた後日、欲しいものをと言ってくれた。

 ここに住まわせてもらえるだけで、もう十分もらっているのだけれど。

「ゆみおばさん、色々とありがとうね。これからお世話になります」

 今一度、しっかりと頭を下げる。

「そんなあらたまんなよ。こっちが好きで勝手にやってんだ」

 照れくさそうにしながら、よせやいとつっこまれてしまう。

 いただきますの挨拶に、めしあがれの返しで上京一日目の夕ご飯の時間となった。


 食事の後片付けを手伝って、部屋の窓から見えるたくさんの街明かりを眺めた。

「都会の夜ってホント明るいね。それに大勢の人が街にいて、高い建物もいっぱいで……東京駅とかびっくりした」

 今日ここに来るまで、電車からの景色などを眺める中で強く感じていたことだった。

「ははっ、わかるわかる。最初は圧倒されるよな。通勤時間帯とかの都心部は、マジすっごいぞ?」

「うわぁ。なんか想像しただけで、目が回りそう……」

 驚ながら振り返る。そんなお上りさん丸出しの感想を、叔母はテーブルの向かいで頬杖をついて楽しそうに笑って聞いていた。

 そしてどこか、懐かしんでいるフンイキでもあった。

「それにさ。なんだかみんな……何かに追われてるみたいにせかせかしてるよね」

「あー、まあたしかにそうかもな?」

 さっきまでと違って、返事までに思考時間が混ざる。

 その辺の感覚は、おばさんはもしかすると都会寄りになっているのかもしれない。

「それでどうだ、こっちではやっていけそうか?」

 その質問の答えは正直、自分でも今はよく分からないけれど。

 今の段階で確かに言えることとしては。

「まだ初日だしよくはわからないけど、でもとりあえず。見る物どれも目新しくってワクワクしてる!」

「そりゃあたくましいことで。呼んだ甲斐もあるってもんだわな」

 ゆみおばさんは、満足げに言った。

 それともう一つ感じていることは。

「ただ、都会人になっている自分はちょっと想像できないけど……」

 本当に、まったく。

「ははっ、たしかにお前はぽくないな」

 おばさんは可笑しそうに笑って、同意した。



 明日は、家具類や生活必需品などを一緒に買いに行くことになっている。

 今日は来客用の布団を出してもらい、まだ何もないけれど新たな自分の部屋で横になる。

(それにしても……ゆみおばさんはこんな中に、一人で飛び込んでいったんだよね。すごいなぁ)

 改めて、叔母に尊敬の念を覚える。


 長旅の疲れか、その夜はぐっすりと眠れた。


――


「完全にやっちゃった……」

 昨日――つまり東京へやって来て二日目は、一日かけてゆみおばさんとホームセンターなどを回り、必要な物資の調達をして過ごした。

 そして今朝はいよいよ、学校への道順の確認もかねて、街を散策してみることにしたのだ。朝早くに目覚めて身支度を整え、筆記具とスケッチブックを入れた手提げを持って出発。

 家を出る前。起きてきたおばさんに、「午後からは雨らしいぞー」と言われていたのに。うっかり傘を置いてきたことに気が付いたのは、マンションを出てしばらく経った後だった。


 それでも学校までは片道二十分くらいだからと、取りに戻る手間を惜しんだのが間違いの始まり。

 目についたものに片っ端から近づき、脇道なんかもいくつか抜けていたら、気がつくと完全な迷子になっていた。

 なんとか記憶を頼りに来た道を戻って大通りを目指すも、ついには雨に降られ。今はなんとか住宅地内で見かけた、近隣住民のための小さな公園の、端の方の木の下に避難して雨宿りをしている。

 こんな時に頼りになる……であろう買ってもらったばかりのスマホは、残念ながら今はお留守番中だ。

(うーん、困った。もう学校のだいぶ近くまでは、来ていたと思うんだけど……)

 まだ小雨ではあるが、これから強くなっていきそうな空気。

(雨が止むのを……って、一日中とか言ってたような)

 曇り空で薄暗いし、じゃっかんお腹もすいてきたしでちょっと心細くなってきた。

 子どものころに迷子になった記憶が思い起こされて、かなり情けない気持ちになる。これはもう完璧に、上京して浮かれていたとしか言いようがない。

 待っていても状況は好転しそうにないし、こうなったらまだ本降りではない内に走り回って、大通りを目指すか、人を見つけて助けてもらうしかないか。

 ゆううつな溜息をついて、手提げを抱え込んで守るようにしつつ、走り出す準備の深呼吸をしていると――

「そこのキミ、どうかしたの?」

 いきなり声をかけられて、ビックリしつつそちらを見る。

 するとそこには。黒い傘を少し前方に傾け、何故か顔を隠すようにしている……? ちょっと怪しげな、一人の女の人が立っていた。

「え、っと……」

「ああ、決してあやしいものじゃないよ。諸事情で顔は見せられないんだけど……って言っても、やっぱりあやしいかな?」

 自称あやしいものじゃない、そうは言ってもやっぱりあやしそうな女性は。ちょっと困ったようにそう言うと、ちゃんとは見えなかったけれど、肩をすくめたような動き。

 腰のあたりまでありそうな長い髪と。大人な余裕というか、不思議と落ち着く声の持ち主だということは分かる。

 顔は見えなくともなんとなく、悪い人ではないんだろうなと感じられた。

 その人の方が身長が「ちょっとばかし」高いので、顔が見えないくらいに少し距離を空けられているけれど、ともあれ人と出会えて安心する。

「違ったらごめんね。何か困っていそうに見えたから」

 ちょっと変わってはいるけれど、とりあえずいい人そうな相手が通りがかってくれてツイていた。

 ここは一度恥を忘れて、ワケを話して大通りまでの道を教えてもらおう。

「それが、ちょっと。迷子になってしまいまして……」

「あっちゃ、やっぱ迷子だったんだ。それで今日は一人なのかな?」

「はいそうなんです」

 その人はとても、丁寧な物腰で接してくれる。

 たぶんすごく優しい人なんだろうな。

「うーん、おうちはわかる?」

「えっと…………」

(あれ、あそこなんて名前だったっけ!? まずいとっさに出てこないや……)

 マンションの名前を思い出そうと、うんうん唸っていたら。

 困った様子の女性が話を先に進める。

「そっか、おうちわからないかぁ」

 うっ、そう言われるととてつもない恥ずかしさが……!

「じゃあだれか、おうちの人の携帯番号とかも……わからないかな?」

「それもちょっと。わからない、です」

 実家の電話番号はもちろん覚えているけれど、それだとどうにもならない。

「ううぅん、こうなるともうお巡りさんのとこに行くしか……」

 困り果てた女性の口から、とんでもない提案が飛び出し慌てて止めにかかる。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

「へ?」

 この歳で迷子として警察に行くのは、なんとしても避けたい。しかも上京わずか三日目にして。

 それに、とても重要なことにも気が付いた。

「その制服って、藤咲高校のものですかっ?」

「え? そうだよ。よく知ってるね」

 よく見れば彼女は学生服を着ていた。

 よかった。この前の入試のときに案内の先輩が着ているのを見たやつな気がして、うろ覚えだし肩のあたりも見えていないけれど、当たっていたようだ。

「はい、そこからなら帰り道分かります! 今度から通うので」

「そうなの? それはよかっ……え、高校生!? 小学生じゃなっ――」

 ほっとした感じから一転、びっくり仰天といった調子に早変わり。

 え。小学生……?

 女の人は、たぶん口元を手で押さえる仕草。

 正確には傘で隠れて見えなかったけれども、肘の曲がり方と前後の発言からして合っていると思う。

「あーっ、と……ごめんね?」

「いえ。まあはい。ダイジョブです」

 申し訳なさそうに謝られ、気まずい空気が流れた。

 いやに優しい口調だなとは思ってた、思っていたけれど児童あつかい……かなりショック。

「新入生だよねっ? いやまさか、後輩だったとはね~。あれ、ていうか迷子なの??」

「いえっ、その! 一昨日こっちに越してきたばっかりで地理にうとい感じでしてっ」

 たしかに高校生で迷子は、ちょっとアレすぎる。

 早口になりながら、せめてもの言い訳はしておく。相手もそれで一応の納得をしてくれて。

「あっ、あ~なるほどねうん。よしじゃあ、学校まで連れていってあげる。と、その前にー」

 目の前の女性……あらため先輩さんは、持っていた学生カバンの中を探り。目当てのモノを見つけたらしく、こちらへと差し出してきた。

 それは薄い青色の折り畳み傘。

「雨も強くなってきてるし、これを貸してあげよう」

「あっ、ありがとうございます!」

「こっち。ついてきて」

 歩き出す先輩、傘を開きつつ慌て気味にその背中を追いかける。


 五分くらいだろうか、すたすたと歩く彼女の少し後ろを黙ってついていくと、大通りに出て。

 その道を渡った先には、学校の塀らしきものも見えていた。少し歩いた先の横断歩道のところまで行き、赤信号で先輩が止まったのに合わせ、一歩引いたところで同じように立ち止まる。

 彼女はほんの少しだけ、こちらを肩越しに振り返るような動きを見せた。絶妙な角度の傘に阻まれ、相変わらず顔は見えなかったけれど。

 それから前へと向き直ると、傘を持っていない方の手を真っすぐに伸ばして前方を指さす。

「このままいけば学校の正門につくよ。そこからならもう、帰り方はわかるんだったよね?」

「はい、わかります」

 それを聞いた先輩は頷いたようで、長い後ろ髪が上下に揺れる。

 ちょうど信号が青に変わって、渡るために一歩目を踏み出したところで――

「よし。じゃあ私はここでもう行くから、今度は迷子にならないように気をつけて」

「え、あっ」

 彼女はそう言って、うまく背中をこちら側へと見せるようにして振り返り、元来た方へと歩き出してしまう。

 咄嗟のことに少し虚をつかれ、片方の足を前に出した半端な姿勢で停止してしまう。

「えっとその、ありがとうございました!」

 上半身で振り返って、なんとかお礼の言葉だけはしぼり出せた。

 先輩は傘を持つのと反対の手を、身体の外側でひらひらと軽く振って見せた。追いかけるべきか迷っている間に、やがてさっき通ってきた道を曲がって姿が見えなくなる。

 彼女は最後まで顔を見せることなく、行ってしまった。

「あ、名前……それにこの傘どうしよう」

 手に持った青色の折り畳み傘を見上げて、呟く。

 ふと前に向き直って見れば、信号はもう青から赤に変わるところだった。


「ただいま」

 返事はない。ゆみおばさんはまだ、仕事から帰っていないようだ。

 家につくころには、もう雨は本降りだった。とはいえ借りた傘のおかげもあり、抱え込むようにしてガードしていた手提げはほとんどぬらさずに済んだ。

(すごく、変わったひとだったな……)

 こっちでは意外と普通、とかそんなわけないか。

 タオルで、雨で濡れた部分を拭きながら考える。

(どうして顔を見せられないんだろう?)

 汚れてた、とか。

 いやいやここは東京なんだし、ひょっとしたら芸能人だったり?

(もしや決して他人に顔を見られてはいけない、特殊な任務中だったり……!)

 なーんて、まさか。

 普通に制服を着て、学校に通っているみたいだったしね。

(やっぱり探さない方が……いいのかな。でも傘を借りちゃったままだし)

 学校が始まれば、そのうちまた会えるだろうか。

 とはいっても。黒い長傘に、長い黒髪で女性の先輩、という情報しかないわけで。

 果たして傘を返すことはできるのだろうか。

「あ、そういえば」

 どうしてこんな時期に、学校に行っていたのだろう?

「へっくしゅ!」

 う。濡れたところが冷えて、ちょっと寒くなってきた。

 もうこのままお風呂に入ろう。


 なんにせよ、この東京で初めて出会えた人が。優しくて親切な学校の先輩というのは、何気にけっこうなラッキーだと思う。

 すごく謎に包まれている点だけが、ちょっと気になるくらいで。顔も名前も分からないけれど、でもきっと悪い人ではないはずだし。

 あとはこちらがかなり情けなかった、というところに目をつむれば……ステキな出会いだった、よね?



 次の日から、この辺の地理をちゃんと把握しつつ、学校近辺であの先輩を探せないか……と、思っていたのに。

 結局、翌日から風邪を引いてしまって。学校が始まるまでの数日は家で大人しくする羽目に。

 ……そもそも雨以外の日に見かけたとして、気づけるのかというのは疑問なんだけれども。

「寒さには強いと思ってたのにな……」

「疲れも出たんだろ。とにかく大人しくしてな」

 おばさんに早速迷惑をかけてしまった。

「ごめんなさい。一人で大丈夫だから。お仕事がんばって」

「まったく、傘を持ってけって言ったろ? まあなんかキツかったら、遠慮なく連絡して来いよ」

 こんなことでやっていけるのかな、僕。

 いやいや、弱気になっちゃダメダメ!


――


 そんなこんなで、あの日に助けてくれた先輩との再会はできないままに入学式の日がやってきた。

 朝起きてメガネをかけ、朝食を食べ、歯磨きをして。後ろ髪を短く縛ってまとめ、新品のブレザーに袖を通し、カバンを持って玄関へ。

 よし、準備は万端。

「おー、なんというか……着られてるって感じだな」

 制服姿の甥を見た、叔母の感想。

「傷つくよ、ほんとに」

「わるかったって。まあでもそのうち馴染むだろ」

 まったく。

 僕の体よ、どうか大きくなることを諦めないで欲しい。

「もう行くのか? けっこう早いんじゃないか」

「うん。ちゃんとたどり着けるよう、一応ね……」

 ちょっと視線をそらしつつ答える。

「ふーん、そうか? 後で私も行くから。気をつけていけよ」

「うん。いってきます」

「いってこい」

 その言葉と共に、パシッと軽く背中を叩かれた。

 叔母に見送られながら玄関を後にする。

 今日はよく晴れた気持ちのいい天気で、春の陽気を感じられた。


 そんなわけで、通り沿いのお店や建物だったりに目を奪われつつも、寄り道はせずまっすぐ学校へと到着。

 張り出されていたクラス表を確認し、一つのクラスに三十を超える人がいて、しかもそれがいくつもあることにちょっとした衝撃を覚える。

(うわ、なんか変に緊張してきた……友だちちゃんとできるのかな?)

 ここにきてようやく、なんだか今更ながらの不安を覚える。

 小・中学校時代、お世辞にも友人が多かったとは言えない。そんな田舎のボーイが、東京人たちとうまくやっていけるだろうか。


 いざ自分の教室まで行くと、扉は開け放たれていて、中にはまばらに生徒がいた。数名は話をしていて、あとの数名はスマホをいじっている。

 とりあえず自分の座席を確認すると、まだ周りは誰も来ていなかった。

 席について一人、軽く頭を抱える。

(えっとどうしよう。は、話している人たちに混ざりに行ってみる? でも変なやつとか思われないかな。ていうか中学からの知り合いとかの可能性も……)

 思考がグルグルしてきた。

 そわそわしてつい、かけていたメガネのレンズを拭いたりしつつ。

(そもそも話についていける? あそうだ、困ったときはまずなんでもスマホで検索しろって妹が……!)

 慌ててカバンを探る。あれ、ない?

 全部のポケットの中も探る。うん、ない。

 どうやら今も、部屋で留守番をしてくれているらしかった。

(ぜんぜん準備万端じゃないっ! ええとこんなときこそ、慌てず冷静にーっ……そうだ、絵でも描いて一旦落ち着こう)

 さっき見た校門から続く桜並木が綺麗だったし、思い出しながら描いてみよう…………。


 ――はっ。

 つい熱中してしまい、気がつくと教室内は生徒で賑わいだしていて、そしてなんかみんな近くの人と話してる!

(ど、ど、どうしようこれ!? どうすれば、どうしよう!!)

 などと焦り散らかしていると、その間に担任の先生がやって来て。

 結局誰とも話せていないまま、入学式の運びとなってしまった。


 心ここにあらずのまま入学式を終えて教室へと戻ってくると、配布物に明日以降の連絡などどんどん進んでいき。

 解散になったところで、隣の席の男子――小島くんが周りの子に声をかけ始めていた。

「メッセの友達登録してくれる?」

 と、せっかくこちらにも声をかけてくれたのに……。

「ごめん! 今日スマホを家に置いてきちゃって」

 ここで、先ほど発覚した痛恨のミスが効果発動。

「そうなのか。じゃあー、次持ってきたときに教えてよ」

「うん! ほんとごめん!」

 小島くんを主導にしてこのクラスのグループ? とかももう、作られているらしい。

(しょ、初動でやらかしてる……っ)

 こうして登校初日は、苦い高校デビューを飾ることとなった。


 そのあとで保護者と合流して、入学式の看板と並んで、叔母のカメラで写真を撮ってもらい。

「楽しくやれそうか?」

「ぅぐっ」

 いきなり痛いところをつかれて、変な声が飛び出てしまう。

 こちらの様子を見たゆみおばさんは、目をぱちくりさせ。

「えっ、もうなんかあったのか?」

 早すぎやしないかと、驚きの目で見られる。

「ほとんど誰とも話せなかったし、スマホは家に置いてきたし……」

 どんよりとしたテンションで告げる。

 おばさんは苦笑いで、慰めの言葉をかけてくれた。

「まあまあ、まだ初日だし。なんとでもなるって」

 それから明るい口調で。

「おし、昼飯はどっか外食だ! うまいもん食おうな!」


 その日のゆみおばさんは、いつも以上に優しかった。



 登校二日目、今度こそスマホを持って行って小島くんと友だち登録をすることに成功。

 やり方を事前におばさんに聞いて、予習をしておいて正解だった。おかげでスムーズに進められた。

 それからクラスのグループにも招待してもらったのだけれど、メンバーの数的に言ってどうやら一番最後らしかった……というのがわかってしまい、地味ツラポイントだった。

「そういえば、昨日なにか描いてたよね」

「あ、うん。これを……」

 ノートに描いていた昨日のラクガキを見せる。

「おお! これって校門の桜並木でしょ」

「うん。ちゃんと見て描いてないから、だいぶ違っちゃってると思うけど」

 思いのほか好感触だ。

 てっきり、絵なんてダサい、とか言われるんじゃないかとちょっと心配してたのに。

「こんだけうまいってことは、やっぱし美術部?」

「中学までは。高校では、ちょっと迷ってるんだ」

 こっちに来て、色々と描いてみたい欲も出てきているけれど。でもやっぱりまだ、何を描いたらいいのか、という迷いの中にあって。

 そんな話をしていると、二人で話していた前の席の女子たちも会話に混ざってくる。

「なになに? なに話してるの?」

「うちらもまーぜて」

 人懐っこそうな工藤さんと、スポーティな見た目ながらどこか脱力した雰囲気のただよう佐々木さん。

 それぞれ、右斜め前と一個前の席。小島くんは工藤さんの後ろだ。

「いやあ、塩路(しおじ)が昨日描いてた絵を見せてもらっててさ」

 小島くんはこちらをちらっと見た後、それを二人にも見せた。

 受け取った二人は、口々に感想を言う。

「へーうまいね!」

「マジでやるじゃん。うちとかガチで絵がヘタクソだから、チョーうらやま」

 ただのラクガキでここまでべた褒めされると、照れくさくなってくる。お世辞かもしれないけれど、バカにされたりしなくてホッと一安心。

 これで少し、打ち解けられたような気がする。昨日のミスも少しは取り返せたと思うし、小島くんには感謝だ。

 そこからあらためて自己紹介、部活動のことなど、学校生活にまつわる雑談タイムに入ったおかげで、話題についていけないなんて心配もなく。

「あそうだ私、同中だった先輩から聞いたんだけど。一個上の学年に、なんか怖い人がいるんだって」

 途中で工藤さんが、そんな噂話を聞かせてくれた。

「怖い人? それって、不良とか?」

 小島くんがそう聞き返す。

(都会の怖い人……いったいどんな危険人物なんだろう)

 裏社会とつながりがあるとか? 最悪、人を取って食ったり……!

 内心ブルっていると、工藤さんが先ほどの質問に答える。

「んーよくはわかんないんだけど、なんか顔が見えない? らしいよ」

「顔が見えないって、どゆことさ」

 今度は佐々木さんが聞き返した。

 ん? 顔が……。

「それが文字通り、見れないとかって。写真も撮っちゃダメだからって、送ってくれなかったんだけどね」

「そういわれてみればなんか、SNSとか画像の取り扱いとか、昨日からかなり注意されたっけな」

「そだっけ? うちあんましちゃんと聞いてなかったかも」

 三人の会話を聞きながら、頭の隅でこの間の出来事が思い起こされた。

 顔が見れない? 顔が、見れない……まさかね。だってあの先輩はとっても親切だったし、そんな怖い人だなんて。

「塩路くん、どうしたの? そんな難しそうな顔して」

「えっ? その、どんな人なんだろうなって。性別とか」

 ちょっと考え込んでいたら、工藤さんから心配される。

 誤魔化し気味にそう質問すると、彼女はちょっと思い出しつつ、答えてくれた。

「うーん、と。たしか女の人って言ってた気がするけど」

「あれ女子なのか。怖いっていうから、てっきり男子かと思ったわ」

 小島くんのその言葉に、「うちも」と佐々木さんが同意して頷く。

 ……まさか、ね。


――


 入学式から無事(?)に数日が経過して、ついに授業も始まり。

 小島くんたちをきっかけに、徐々にクラスにもなじみつつあった。そちらは順調である一方、あの日に出会った先輩の方はサッパリ。

 顔も、名前も、学年も分からない、のないないづくし。これではたとえ一クラスずつ回ってみたとしても、わかる気がしない。

 いつでも返せるように、借りたままになっている折り畳み傘をカバンに入れて毎日、持ってきてはいるのに……当分は返せそうにないかも。


 放課後になり。

 小島くんたちと教室で別れ、趣味と実益をかねての校内探索に。知らない場所は、昔からついつい探索したくなるタチだった。

 それに色々歩いていれば偶然にも、あの先輩に会えたりするかもしれないし。

 そんなこんなで色々と歩き回ってみていると、少し裏手のあまり人気のない空間に出た。

 初めて来たその場所には花壇があって、園芸部のひとだろうか? ジャージを着て、長い黒髪を後ろで一つにまとめた人が、しゃがみこんで何やら作業をしている後ろ姿があった。

(あれ? 長い髪の女性……)

 ふと、あの日の先輩さんのことを思い出す。

 顔は最後まで見られなかったけれど。後ろをついて歩いている時、腰のあたりまで届きそうなほど長くサラリと伸びた黒髪が、強く印象に残っていた。

「あ、あの!」

 どきどきしながら、声をかけてみる。

 正確な長さは分からないけれど、この人もかなり長そう。もしかしたら……そんな淡い期待がふくらむ。

「はい?」

 そう返事をする声は、どことなく、あの日の女性に近いような気がしないでもないような。

 その人の振り返る様子が、やけにゆっくりに見え。果たして、振り向いた相手の顔は――

「っ!?」

 ()()を見た瞬間驚きに目を見開き、全身が硬直してしまう。

 なぜなら、その女性の顔はっ……顔、が!

「あっ、ごめんつい! おどろかせちゃっ……て、あれ?」

 顔の全部がなぜか、真っ黒い絵の具で塗りつぶしたかのように、ただの真っ暗闇で何も見えなった。

 不思議と、同じように黒い色の髪の毛については、ちゃんと見て取れるのに。顔面だけがどこまでも暗くて、輪郭すらもとらえられない。

 その立体感のなさから、そこに頭という三次元的な物体がまるで存在していないような錯覚さえした。

 あまりに現実離れした不気味さ、異質さのせいで、周囲から浮き立って見える。


 ――上の学年に怖い先輩が。

 ――顔が見えないんだって。

 呆然と立ち尽くしながら、工藤さんの言葉が頭をよぎり。

「キミって、もしかして……この間の高校生迷子くん?」

「はいっ!?」

 こちらを指さしながら、何事かを言われ。混乱のただなかで、咄嗟に返事をしてしまった。

 その女性――声や体型からしても――はそんなこちらの様子を気にした風でもなく、話を進める。

「あーやっぱり。いやそっか、男の子だったかぁ」

 間違いなく例の()()先輩は、一人で何かを納得していた。

 メガネをくいっと押し上げて、ようやく衝撃からちょっとだけ立ち直りつつある頭で、さっき言われた内容を思いだそうとする。

(えっと、この人はなんて…………迷子?)

「あ! あの時に助けてくれた、先輩さんっ……?」


 こうして、思っていたよりも早く。

 恩人兼この街で最初に知り合った人との、再会が果たされた。



 先輩の作業が一段落するのを待って、花壇の脇に並んで腰をかける。

「さっきはごめんね。こんなだから、すごく驚かせちゃったよね!」

 両手を顔の前で合わせた先輩が、勢いよく頭を下げてくる。

「い、いえダイジョウブです!」

 こちらも慌てて両手と首を左右に振りつつ、返事をした。

 先輩は少し距離をあけて座ってくれているのだけれど、それでも近くで見るとソレはより一層の迫力があった。

「それでその。顔について、って聞いても平気……ですか?」

「ぜんぜん問題ナシ。これは生まれつきでね、まあ呪いのせいで顔が見えないっていう感じかな。ちょっとした秘密も、あるんだけど」

 ――呪い。

 そうなんじゃないかな、とはちょっぴり思っていたけれど。これまでの生活ではほとんどなじみのなかった単語。

 前に学校で習ったはずだけど、あんまりちゃんとは覚えていないような気がする。

(たしか現代科学では説明のつかない。不可思議な現象に見舞われる人が、時々生まれてくる……とかだったような?)

「顔が見えない呪い、ですか。なんだかすごく、その、大変そうですよね」

 なんとも情けない感想。はずかしい。

 ところでさっき出てきた、「秘密」の部分も気にはなったけれど。それは秘密なんだし、変に探らないでおいて。本当に秘密にしたいのなら、自分からは言わない気もするけれど。

「んー、まあね。でもこれも個性だよ、個性」

 思っていたより、あっけらかんとした答えが返ってくる。

「そ、そういうものですか……。それにしてもあの時の、顔が見せられないっていうのは、こういう」

「そうそう。あの時は……てっきり、子どもだと思っちゃってたから。怖がらせないようにっていうつもりで、ね」

 アレは。

 ちょっとした悲劇だった。

「そういえば! 先輩の名前っ。あのとき聞きそびれてから、ずっと気になっていたんです。あていうか、僕は塩路(しおじ)って言います。しおじれいと。それからその節は、大変お世話になりまして。ありがとうございました」

 今更ながら、あわてて名乗る。

 その後で改めてあの日のお礼をして、深々と頭を下げた。

「いえいえ、これはどうもご丁寧に。へーそっか、れいとくん、か。私は真瀬(まなせ)……まなせ、ひかり」

 彼女はなにやら含みのありそうな相槌の後、少しためらいがちに名乗った。

 そこら辺も少し気にはなったけれど、今はもっと別に気になっていることもあるし。

「よろしくお願いします、まなせ先輩」

 手を差し出す。

 彼女は軍手を外して、控えめに握り返してくれた。

「よろしくね、れいとくん」

 表情こそ見えないけれど、歓迎的なムード……だと思う。

 なのでここはひとつ、さっきどうしても気になったところを質問させてもらうおうかな。

「ところでさっきなんですけど。男の子だったか、とか。言ってませんでした?」

「しまった、つい……!」

 まなせ先輩は片手をサッと、口元あたりをおおうように当て、うっかり口がすべったというモーション。

 咄嗟に誤魔化したりしないあたり、すごく素直な人なのかもしれない。それとも確信犯?

 まあそこはさておき――。

「女の子だと思ってたんですかぁ!?」

 子どもだと思われていただけでもアレなのに、まさか男とすら思ってもらえていなかったなんて……かなり大ショック!

 先輩はコホンと一つ咳ばらいをして、弁明を開始した。

「いやね、髪を後ろで小さく結んでたし声も……女の子にしては少し低いかな? ってくらいだったから。どっちかなぁ~、と」(※ 因みにこの時。優しい先輩は、「童顔でかわいい感じだったし」ということは言わずに伏せておいた)

 今度は人差し指で、およそ頬のあたりをかいている。

 もちろん顔は真っ黒で見えないけれど。

「そんなぁ。ズボンだってはいてましたよぉ」

「え? 女の子だって別にズボンくらいはくでしょ、普通に」

 首をかしげながら、少し困惑したような声音で返されてしまう。

 首を傾げた際、長い黒髪がさらりと肩から流れた。

「うっ、いやまあ……そうですよね」

 もっともなことだとは思うのだけれども。

 それはそれとして、男だと思われていなかったことは非常に心外なのであって。

 釈然としない気持ちと格闘していると、そこで先輩は両手のひらを胸の前で、ぱちんと打ち合わせて話題を変えようとする。

「そういえばれいとくん、キミはここへと何をしに来たのかな? もしかしてまた迷子?」

「ちっがいますよ! そんないつも迷子になったりなんて、しませんからぁ」

 その勘違いはあんまりにも不名誉なので、即座に訂正する。

 たしかに前科はあるけれど、そうそう……ましてや学校の中で迷子になんて、流石になったりしないよ。

「えっとそれじゃあ、もしかして入部希望だったりするのかな?」

 うーん、と少し首をひねったまなせ先輩から、今度はそう尋ねられる。

 やっぱりここは少し奥まっているし、あんまり人が来ないのかな。

「え? いえ! ちょっと校内の探検をしていたところで。先輩はその、園芸部とかですか?」

 他の部員の姿は見あたらないけれど。

「そうだよ。でもそっか、違ったかぁ。ちょっと残念」

 先輩は肩の前で両手を、体の外向きにぱっと開いてみせる仕草。

「なんかすみません……そうだ、この間のお礼じゃないですけど、なにか手伝えることとかってありますか?」

「え? う~ん、それじゃあせっかくだし。ちょっと手伝ってもらおっかな」


 こうして僕は生まれて初めて、呪いを持つ人と知り合ったのだった。

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