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浮世呪いばなし  作者: 蔵亜 謙
第二話 月下美人
10/10

キャラクター

塩路礼人しおじれいと

 この春から高校生。

 写真家の叔母を頼り、上京してきた。絵を描くことが趣味。

 しばらく前から、自分の絵に行き詰まりを感じて悩んでいたが、まなせ先輩に出会って何かを掴みかけている。


真瀬まなせ先輩

 「月明かりでしか顔が見えない」呪いを持つ、れいとの一つ上の先輩。

 普段は顔が真っ暗で見えないが、月の光を浴びている間だけ、一時的に素顔が見えるようになる。

 満月に近いほど、顔がはっきりと見えるようになる。


宇賀田うがた先輩

 ひかりとは中学からの同級生で、かつ親友。

 突然現れて、いつの間にかひかりちゃんと仲良しなれいとのことが、ほんのり気に食わない。

 満月の翌日、十九時に約束をしていた。

 絵の完成も近く、ドキドキしながらいつもの場所へと行く。すると初めて、まなせ先輩よりも早くについた。

 時刻を少し過ぎたところで、先輩が駆け足でやってくる。

「遅れてごめんね!」

「いえ! 僕もちょうどさっき来たところです」

 先輩が両手を合わせて謝るので、気にしなくていい旨を伝える。

 と、そこで彼女の携帯がブルブルと何事かを、訴え続けていることに気がつく。

「あの、先輩。なにかさっきから震えっぱなしですよ?」

「ああこれ? だいじょうぶ、大した用じゃないから」

 言って、何やらスマホの操作をすると震えは止んだ。

「よぉし、さっそく始めようか!」

 先輩はなんだか、少しおかしなテンションでそんな掛け声を。

(まさか、暑さにやられてたり……)

 などと失礼なことを考えてしまいながらも、さっさと準備を完了させる。


 月が先輩の顔を照らしだすのを、二人とも押し黙って待っていた。

 やがて呪いが晴れて、彼女の顔があらわになって。

(先輩……?)

 まなせ先輩は月が昇ってきたことにも気づかず、どこか深刻そうな表情をしていた。

「だいじょうぶですか、先輩?」

「へ!? ごめんね、なに?」

 さっきから様子が少し変なので、心配になって声をかける。すると彼女はよほど考え込んでいたのか、そんな風に聞き返されてしまい。

 こちらが答えるより先に、先輩もはっと気がついて。

「お待たせ、いつでもいけるよ」

 真剣な顔になってそう言った。

 それに対して、でも、と食い下がる。

「ムリとかしてるんじゃ……」

「ううん、本当に平気だから。おねがい」

 やっぱり心配だし、気になるけれど。

 それでもまなせ先輩がそういうのであれば、不安を振り切ってここは一度信じることにした。

「ではアラームのセットを、お願いします」

 彼女はコクリと頷いて、いざ作業へと入る。



 描き始めてから、ほどなく。

 …………それは今までにない、不思議な感覚だった。

 完成を目前に控えて、手は止まらない、それどころか勢いを増していたのに。

 頭の中では思考が、色々なところへと向かっていた。まるでどこか境地めいた、もしかするとこれがゾーンっていうやつなのかもしれない。


 一カ月前、描き終えられなかったときの悔しさ。続きを描けないもどかしさ。

 それをバネに、帰省中はかつてみたいにただひたすら、絵と向き合った。周りの人たちにも助けられながら。

 家にいる間も、絵を描いている間も、ずっと先輩のことばかりを考えてしまっていた。


 東京に戻ってきて、彼女と再会して。

 一度離れたからこそ、見え方も変わった。

 もっともっと先輩のことを知りたい。絵のためでも、それを抜きにしてでも。これからも一緒にいられたらって思う。

 思えばまだ出会ってから、ほんの半年足らずなのに。いつのまにか自分にとって、こんなに大きな存在になっていた。


 でもまず今は、先輩に見て知って欲しい。僕がどんな風に、あなたのことを見ているのかを。

 それと同じくらいみんなにも、見て欲しい、わかって欲しい。

 この人はこんなにも、素敵な人なんだよって。

 だからその魅力を余すところなく、描いてみせるんだ。目で見えるところも、見えないところも。

 全部をこの絵に込める、世界に刻み付けるために。僕自身の、この手で。


 ふと……小さな頃の記憶がよみがえった。

 無心で絵を描いていたとき。元気のいい絵、楽しそうな絵だねとか言われていたのに。

 いつからか、絵のうまさを求めるようになって。リアルさばかりに、盲目的になってしまっていた。

 思えばここ何年も、絵を描くことそのものを楽しめていなかったような気がする。

 先輩に出会って、先輩の絵を描いて。そのころの初心を取り戻せたような。


 これまでの自分の絵は、とことん写実的で、遊び心なんてなかった。

 ただ目の前のものを、紙の上に書き写すだけ。一カ月前だって、目の前の先輩の姿をただなぞるだけで、石膏像をデッサンするのと大差はなかった。

 でも今はそこに、伝えたい気持ちがあった。


 なんで絵を描いているのか。

 ただ、楽しいから……だけじゃなくって。

 その先へ――

 言葉では伝えきれないものを、この絵に込める。

 先輩にはとても助けられました。先輩はとても魅力的な人です。先輩のことを尊敬しています。

 あなたに、力いっぱいの感謝を。


 先輩に見た光を頼りに進んで。

 殻を破れたような。囚われていた過去に決別をするような。



 ひかり先輩。

 この一か月。最高の時間を、ありがとうございました。


 ――そっと、色鉛筆を置いた。




「ふううぅぅぅー……」

 長めに、ゆっくり息を吐き出す。

 それに伴って肩の力も抜けていく。

 目の前に描き表した先輩と、リアルの先輩との間を。視線で何度も行ったり来たりしながら、静かに見比べる。

 この一か月間で、先輩のいろんな顔を見られた。その中で一番好きで、彼女らしい表情になったと思う。

 やがて今度は一つ、大きく息を吸って――。

「できたっ、出来ました!」

 その一言を聞いた彼女も、姿勢を崩して「ふぅーーっ」と全身から力を抜いた。

 それからホッとした様子で、笑顔とともにピースを向けてくれる。

「やったね、れいとくん。おつかれさま!」

「はい、先輩こそ本当におつかれさまでしたっ」

 本当なら、少し時間を置いてから確認をしなおした方がいいんだけれど……これ以上はあまり先輩に負担をかけたくないのと、それに現時点で十分に出しきれた感覚もあった。

 こちらへと歩み寄るまなせ先輩に、作品を差し出して。

「先輩。見て、もらえますか?」

「……わかった。見せて、もらうね」

 こちらの緊張が伝わったか、心なしか硬い返事。

 先輩は完成するまでお楽しみにしていたし、満足してもらえるだろうか。喜んで、くれるだろうか。

「っ……!」

 果たして。受け取ったまなせ先輩はというと、絵を見て小さく息を呑んだ後、そのまま何秒も――それはとても長い時間に感じられた――微動だにしなかった。

 ちゃんと見えているはずなのに、今はそれがどういう表情なのかがわからず、困惑する。

「あの、せんぱ……いっ?」

 不安になって声をかけようとした矢先、彼女の予想だにしない反応で軽くパニックに陥る。

 まなせ先輩は何も言わないままに、ただその瞳から涙をあふれさせていた。

(なんで泣いて、なにか気に障った? どうしよう、どうすれば……!)

 突然目の前で、年上の女の人が涙を流し始め、理由もわからずおろおろとするばかりで、どうしようもできないでいた。

「あるね……」

 ポツリ。

 こぼれ出た先輩の言葉。

「へっ?」

「顔……ちゃんと私の、あったんだね…………っ!」

 絵を涙で濡らさぬよう、胸の前で立てて抱えるようにして嗚咽する。

 その姿は知り合ってから見てきた先輩の姿よりも、幼く、そして細く頼りなさげに見えた。

「あ……」

 彼女のもらした言葉の意味を理解し、不甲斐なさが襲う。

(僕は、バカだ……)

 なんでこんな当たり前のことにさえ、今の今まで気づけなかったのだろう。

 みんな、まなせ先輩のことを見ては、好き勝手を言う。

「怖い」

「気味が悪い」

 僕だって、初めて見たときはビックリした。

 でも。この呪いで、一番怖い思いをするのは、してきたのは誰か?

 そんなの。考えるまでもなく、わかることで。先輩自身に決まっていた。

 この人はいつも、どこか飄々(ひょうひょう)として、大人な態度で受け流していたから。

(ううん。それも単なる、言い訳でしかない)

 先輩と知り合ってまだ、そう長くない期間にも関わらず。彼女へ向けられる言葉や視線を、いくつも見聞きしてきた。

 以前に、先輩はこの呪いを個性だと言っていた。

 そんな風に言えるようになるまで、どれだけイヤな目にあってきて、どれほど苦しんできたのか。今の自分は、まるでわかっちゃいないんだろうけれど。


(これからは少しずつでも、そのツラさに寄り添えたなら)

「先輩……」

 歳がたった一つ違うだけの、心優しいお姉さんの。

 震える背に、そっと手を当てた。



――ひかりが家を出る前――


 家を出ようとしたそのとき、父親が呼び止める。

「ひかり、どこへ行くつもりだ! 昨日やめろと言ったばかりだろう!」

「どこだっていいじゃんっ。別に変なことなんてしてないし、お父さんにも迷惑かかってないでしょ!」

 父親の制止の声を無視して、そのまま玄関から出ようとして。

「ちょっと待ちなさい!」

 腕を掴まれ、それを振り解こうとひかりは身をよじる。

「昔から私に無関心だったくせに、急に父親面しないで!」

「っ、いい加減に、しなさい!」

 パシンッ。

「……?」

 何が起きたのか、ひかりは一瞬理解できなかった。

 父親が手を振り上げ、その直後に乾いた衝撃音が脳を揺さぶる。

 無意識に、叩かれた頬を手で押さえていた。

 父親の方を睨む。咄嗟に手が出てしまったことに、父はおどろいた顔で固まっていた。

 先に衝撃から立ち直ったのは、娘の方。

「お父さんが心配しているのは……私じゃなくて世間体でしょっ!」

 そんな捨て台詞を吐いて、ひかりは家を飛び出した。

「ひかり!」

 開け放たれた玄関。彼は呆然と立ち尽くした。

 いつのまにか、弟と母親も来ていて。父親は額を押さえながら、大きく溜息をつく。

「まさか、手を出してしまうとは……」

 すぐに悔恨の言葉が口をついて出た。

 それを聞いた母親は、ぺちっと、軽く旦那の頬に手をあててたしなめる。

「あの子は……ちゃんとした子よ。もう少し信じてあげなきゃ」

 そう指摘されてしまった父親は、自らの行いを省みて渋い顔になった。

 母親はさらに続けた。

「それに。ずっと多くのことを我慢させてばかりだったから、出来る限りあの子のやりたいことをさせてあげたいの」

 騒動から一歩引いた位置にいる弟は、黙してことの推移を見守っていた。

「あの子が帰ってきたら、ちゃんと謝ってあげなさいね」

「……ああ、そうしよう」

 父親は疲れた顔で返事をする。

 その顔は、一気に老け込んだように見えた。


――


 家を飛び出して、れいとくんと約束している公園へと向かう。

 父にはたかれた頬は、意外なことに痛みはそんなになかった。痛い以上に、驚いた。

 たぶん、加減はされていたのだろう。

 待ち合わせ場所についたとき、すでに彼は到着していた。

「遅れてごめんね!」

「いえ! 僕もちょうどさっき来たところです」


……

…………


「先輩。見て、もらえますか?」

 れいとくんから完成した絵を差し出されたとき、本当は少し不安だった。

 前に一度、途中で見せてもらおうとしたときだって、ただこの呪いと向き合う勇気が足らなかっただけ。

 もしも彼に見えているものと、私に見えているものが違ったらどうしよう。月明かりで照らし出されているものが、全部自分の妄想だったとしたら……!


 意を決して受け取り、恐る恐る絵を見た。

「……」

 その絵の中には、どこか嬉しそうに微笑んだ……「私」がちゃんとそこにいた。

 そのとき胸に抱いた感情は、うまく言葉には表せないもので。


 自分で触ることはできる。見ることもできる。写真にだって写る。他のひとにだって、見えているらしい。

 けれど。誰かが見ているその自分の顔を、こんな風に()()()()()()()ことは、今までに一度もなかった。

 まばたきをすることさえも忘れ、その絵を見つめていた。

 気が付けば、頬を涙が伝って。


「顔……ちゃんと私の、あったんだね…………っ!」

 そう、口に出したらとめどもなく、目から熱いものがあふれ出した。


……

…………


 ひとしきり涙を流して、落ち着くまでの間。

 彼は隣でずっと、ただ背中を一定のリズムでタップし続けてくれた。

「ごめんね、急に泣きだしたりして。びっくりしたよね」

「いえ……落ち着きましたか?」

「ありがとう。もう、大丈夫だよ」

 後輩の前で醜態をさらした恥ずかしさなんて通り越し、いっそ清々しいまでに泣きまくった。

 なんとなく、れいとくんがお兄ちゃんなことが分かった気がした。

「落ち着いたから、もう帰らないとだね」

 スマホで確認をすれば、時刻はもう午後九時を回っていた。

 れいとくんは男の子だとはいえ、ちょっと心配な容姿をしているし。

 無事に絵が完成された今、長居は無用のはず。手に持ったままだったスケッチブックを、返そうとしたら。

「よかったら先輩、その絵をもらっていただけませんか。いやでなければ、なんですけど……」

 彼は上目遣いになりながら、こちらをうかがい見る。

「いやじゃないよ! でもこんな、本当にもらっちゃってもいいの?」

「はい。できたら先輩に、もらってほしいと思って描きました。なのでもらってくれると嬉しいです」

 彼はスケッチブックから、できたばかりの絵を丁寧に切り離す。

 それをこちらへと差し出してくれる。

(そっか……これを私のために、描いてくれたんだ)

 たとえ、私のためだけではなかったのだとしても、それで十分すぎた。

 目の前の後輩のことも、描いてくれたその絵も愛しく思う。

「とっても嬉しいよ。ずっとずっと大事にするね」

 お互いに両手で、賞状を受け渡すようにして絵を受け取りながら。

 彼は幸せそうに笑った。でもすぐに真面目な顔になって。

「それから最後にもう一つ、先輩にお願いがあるんです」

「お願い?」

「はい。とても、大切な」

 なにやらすごく真剣な様子だが、彼に限って変なお願い……ということもないと思うし。

「私にできることなら、いいよ」

 れいとくんのお願いなら、できるだけ叶えてあげたい。

「それじゃあ、先輩のおうちにお邪魔できませんか? その、今から」

「えっ、今から?」

 思っていたよりも変わったお願いだった。


 歩きながら話を聞くと、親と会って直接話をしたいとのことで。

 日を改めるという提案もしたのだけど、できることならこのタイミングがいいと言われてしまって。

 本音を言えば、家を出る前のことがあったし、父親のいないときの方が都合がよかったけど。でも仕方がない。

「ここ、ついたよ」

「ここが先輩のおうちですか……あの。ムリ言ってしまってごめんなさい」

 れいとくんが申し訳なさそうに、頭を下げる。

「そんなに気にしないでいいよ。えっと、玄関に入ったら少し待っててね。呼んでくるから」

「はいっ」

 やや緊張気味の、固い返事がくる。

 こちらもさっきのことで一人だと、非常に入りづらかったから。れいとくんが一緒に来てくれて、助かったかもしれない。

 やけに重苦しく感じられる玄関扉を引くと、鍵はかかっていなかった。

「ただいま」

「お、おじゃまします」

 すると呼びに行くより早く、廊下の向こうから父と母が連れたってやって来た。

「おいひかりっ、いままでいったい――」

 いきなりお叱りモード全開の父だったが、見知らぬ客の姿を認め、言葉が途切れる。

 今度は母が口を開く。

「おかえりなさい、ひかり。その子は?」

 れいとくんの容姿を見て、平静を装いつつも困惑の色が瞳に浮かんでいる。

 たぶん娘がいきなり、知らない少年を連れてきたように映っていることだろう。ごめんれいとくん。

「は、初めまして塩路礼人(しおじれいと)と言います! 夜遅くにいきなりごめんなさい!!」

 彼は言いながら勢いよく、深々と頭を下げた。

 それから顔を上げて、続ける。

「あ、あの。先輩にはいつもとてもお世話になっていて、それでその、謝りたくて来たんです!」

 いっぱいいっぱいの様子のれいとくんに、何が何やら状態の父と母。

 そんな彼のおかげで、逆に冷静さを保てている私が、助け船を出さないと。

「すこし、落ち着こっか」

 彼の背中をトントンと軽くたたいて、一度クールダウンするよう促す。

 当の本人はそれを受け、すぅ、はぁー。と一つ大きく深呼吸。

「ごあいさつが遅くなりっ、なってしまいごめんなさい。ここのところずっと、まなせ先輩に絵のモデルをお願いしていましたっ。だから、先輩は悪くないんです! どうか先輩のことは怒らないでください!」

 もう一度、れいとくんは深々と頭を下げた。

 彼がどうして今日ここへ来たがったのか。それを知って、私も彼にならい一緒になって頭を下げる。

「私も、ごめんなさい……」

 頭を下げたとき、れいとくんがぎゅっと手を握りしめているのに気が付いた。

 そっと、上から覆うようにしてその手を握る。彼は驚いた様子でこちらを見ると、それから少しずつ握り拳を開いた。

「絵の、モデル」

 父親は思いもしなかったようで、しばらく黙った後にそうとだけ繰り返して。

「二人とも、もう顔を上げなさい」

 母に促され、二人そろって顔を上げる。

 そのタイミングで、触れていた手を離す。

「その絵というのが、それなのか?」

 父は、私が胸の前で持っていた画用紙に視線を向けながら尋ねた。

 れいとくんの方に顔を向ければ、小さく頷いてくれて。

「うん。そうだよ」

 二人に見えるよう、胸の前で掲げて見せる。

「おぉ……」

「っ」

 父は息をもらし、母は息を呑んだ。

 父はそれから微動だにせず絵を見つめ、母は手を口元にあてて少し涙ぐんでいる。

 そんな様子を見た私は、誇らしい気持ちと照れくさい気持ちになって。隣に立つ後輩と目が合って、互いに笑った。



「本当に、送らないでもいいのかい?」

「はい、そんなに遠くないので。ありがとうございます!」

 家を出たところで、父がれいとくんを車で家まで送ることを提案したが、彼は丁寧に断った。

「そこまでも送らなくて平気?」

 一抹の不安がよぎって、そう提案をする。

 しかし本人は胸を張ってそれを固辞した。

「平気ですよ! それじゃあ先輩、また!」

 小走りで駆け出す彼の背に、「おやすみ!」と声をかけると、振り返って手を振ってくる。

 やがてその姿が見えなくなる。見えなくなるその時まで、手を振り返しつつ見送った。

 父と二人きり、もう怒ってはいないようだけど。なんとなく気まずい。

「こういうことなら、そうと言ってくれれば……」

「だって説明しようとしたのにお父さん、いきなり決めつけるから!」

 咄嗟に責める口調で返してしまった。

 これではまた喧嘩になってしまうと、自責の念がわいてくる。

「……そうだな。コミュニケーションを図ろうとしなかったのは、ずっとお父さんの方だ」

「……」

 父は自ら、非を認めた。

 その態度に驚く。

「その絵……そんな顔も、するようになったんだな」

「……うん。みたいだね」

 そこでようやく、父はこちらに顔を向けて。

「顔、ちゃんと見せてくれないか?」

「ん」

 素直に顔を向ける。何年か、もしかしたら十年ぶりくらいに父と目が合った気がする。

 記憶の中の父と比べて、こんなにも歳をとっていたかと、ビックリした。

 しばらく、無言の時間が流れる。先に沈黙を破ったのは、父の方だった。

「今まで。ちゃんと向き合えずに、すまなかった。父親らしいことをロクにできず、本当に……すまなかった」

 そう言って、目頭を押さえた。

「私も、ごめんなさい。可愛くない娘だったね」

 それを見て私も、ずずっと鼻を鳴らす。

「いいんだ、ひかりは気にしなくて。責任はぜんぶ父さんにある。お前は、何も悪くない」

 その言葉が、胸に響く。

(お父さんも、苦しんでた……)

 そのことを今初めて知れた。

 と、そこに母の声がかかる。

「二人とも、そこでどうしたの?」

「いや、なんでもない。さあもう中に入ろう」

「うん」

 玄関へと向かう父の背を追う。

 ここからもっと、ちゃんと父と娘をやれるかな。そうありたいなと思った。


 もしそうであったなら、キミに真っ先に伝えよう。

 お礼を言えばきっと、「自分は大したことしてない」なんて言うんだろうな。それから自分のことのように、すごく喜んでくれるのかな。





エピローグ

1、親友とわたし


 夏休みも終わりまで、残すところ幾日となったある日。

『宿題を一緒にやらない?』

 というメッセージがひかりちゃんから届いて、もうほとんど終わってたけど二つ返事でオーケーを。

 そしてその日のうちに約束した集合場所の、区立図書館へ行くと、なぜかあの後輩くんもくっついていて。

「れいとくんがちょっと宿題がアブナイみたいで、私もまだ終わってなかったから一緒にやろうと思ってね」

 後輩くんは、面目なさそうにシュンとしている。

 まあ、おじゃま虫がついていたのは想定外だったけど。久しぶりにひかりちゃんに会えたのは単純に嬉しいし、レアな私服姿が見られて眼福だから許す。


 涼しい図書館の中、平日のお昼過ぎという時間のおかげか空いていたテーブル席を囲って、三人で宿題をして過ごす。

 と言っても、わりと後輩くんにつきっきりで教える羽目に。あとはひかりちゃんがわからないときに小声で教えたり、ひかりちゃんが彼に教えたり。

 そうして勉強会は粛々と進み。四時間ほど経ったところでそろって図書館を出た。


「まほちゃん、この後ってまだ時間ある?」

「ある! 絶対ある!」

 たとえなくても、あらせてみせる。

「それじゃあ見せたいものがあるから、私の(うち)に来てくれる?」

「おじゃましますっ」

 万難を排してでも行かせて頂きます。

 と、ひかりちゃんは今度は後輩くんの方を向いて。

「絵、見せてもいいかな?」

 絵……ということは、ウワサのひかりちゃんがモデルをやったやつか!

 後輩くんもピンと来たようで。

「! はい、()()()先輩の好きにしてもらっていいので」

 今、聞き捨てならないワードが聞こえたぞ。

「おう、こぞー。しばらく二人きりで会ってたからって、ナニ馴れ馴れしく名前で呼んじゃったりしてるんだよ、おうこらー。くっちまうぞぉ~」

「わひぇ、すみませんすみません!!」

 相変わらず過剰にビビり散らかしている。

 ほんのちょっといい気味だ、わたしはまだ認めてないんだからな。

「こらこら、後輩をおどかさない。それに私からおねがいしたことで、れいとくんはわるくないんだよ」

「ふしゃ~!」

「威嚇もしないの!」

(だいたい、ちょっと絵がうまいくらいでいきなり、ひかりちゃんの絵を描こうなんて。スケベ心が見えてんだから!)


「おじゃまします」

 久し振りのひかりちゃんの家に、うきうき気分になる。

 あのあと、ひかりちゃんが後輩くんも誘っていたけど。

「れいとくんも来る?」

(ナヌッ!?)

 そりゃあまあ? 描いた本人だし、いても不自然じゃないかもしれんけど。

 知り合って半年足らずでひかりちゃんの家にまで上がり込むなんて、いくらなんでも許されざる所業!

「えっと、今日は帰って宿題の続きをしないとなので……」

 ちらっとこっちを見て。

 どうやら空気を読んだというか、恐れをなした?

 ということで、あの後輩くんは帰ったのでようやく二人きりになれたっ。

「いらっしゃい。こっち来て」

 リビングに飾られているというので、ひかりちゃんについていく。

 どのくらいのものか、とくと拝ませてもらおうじゃあないですか――。


(……うっまぁ)

 リビングの壁に、額に入れられた絵があった。

 その正面に立った瞬間、心の中でそう思ってしまっていた。

「だよね!」

「えっ!?」

 ひかりちゃんから心の声に返事があり、驚いて彼女の方を見ると、首をかしげられてしまう。

(思わず口から出ちゃってた……んだ)

 なんか悔しくて、口元を手で覆って少し赤くなる。

 ついつい漏れ出た賞賛の言葉に、隣のモデルさんは嬉しそうに喜んでいる。


 正直、絵のことなんてぜんぜん分からないけれど。まごうかたなき、月に照らされたひかりちゃんその人が描かれていた。

 黒く塗られた背景の、真ん中に。胸のあたりまでの、座っているひかりちゃんが描かれたシンプルな構図。

 華美な装飾はなくて、特筆すべき点といえば、ひかりちゃんが薄く発光しているかのように、黄色く淡い光で囲われていること。

(そっか、これ月明かりなんだ)

 単純な画力の問題だけじゃない。

 この絵にはなんというか……ひかりちゃんへの想いが詰まっているように感じられた。

 優しい目元。つややかな黒髪。無邪気な笑顔。きりっとした眉。可愛らしい唇。

 健康的な肌。つい触りたくなる、きれいなラインのつやっとした頬。ほどよく膨らんだ胸。姿勢のよさと、バランスの取れたスタイル。


 それらが淡い色使いで描き出されていて、どこかふわっとした、柔らかさのようなものがあった。

 そして黒い背景に、満月を思わせる黄色い光のオーラというだけのシンプルさが、また彼女を引き立たせ。どこか神秘的で、幻想的な雰囲気を(かも)し出してもいた。


 描き手がその相手をどう見ているのかが、否応なしに伝わってきてしまう。

 そんな絵だった。



 気がつけば、十分近くも絵の前で立ち尽くしていたようで。

 その日の帰り際、ひかりちゃんからこんなことを言われる。

「れいとくん、ほんといい子だよ? だから、イジメないであげたってよ~」

「まあ。なんとなーく、わかるけど」

 あの後輩くんを、悪い奴とは思っちゃいないけどさ。

 ただ呪いのこととか、二人だけの秘密だと勝手に思ってたのに。突如やってきた田舎育ちの純朴な少年に持っていかれた感じが、寂しくて、ちょっと悔しいだけ……なーんてそんな本音を全部、言えるわけがなーい!

(うぅ~……!)

 そりゃあんな絵を見せられれば、認めざるを得ないって思うけどぉ。

「でもやっぱり負けたくないっ!」

「えぇ!? なんの勝負?」

 ひかりちゃんの手を捕まえて、ギュッと握る。

 すると、なんだかはよくわかっていない様子ながら、彼女も握り返してくれるのだった。




2、先輩と後輩


 れいとくんの絵が完成した後日、学校の花壇で作業を手伝ってもらいながら話をした。

「あの絵ね、お母さんとお父さんのお願いでリビングに飾ってあるんだけど。この間弟が見てて、いい感じって言ってくれてね~」

 それがほんの少しだったけど、久し振りに弟と話すきっかけともなった。

 れいとくんに絵を描いてもらってから、元から良好な関係だった母を除いて、異性の家族との仲にいい風が吹くようになっていた。

 もっと描いてもらおうかな?

「それもこれも、全部れいとくんのおかげ。だからありがとう」

「僕は大したことなんて、そんな……そのまんま描いただけで、本当にすごいのは先輩ですよ」

「……まったく、キミという子は」

 本当に()い後輩だよ。

 そんな可愛い後輩くんに、あの絵を見たときから気になっていたことを尋ねてみることに。

「ねえ、聞きたかったことがあるんだ」

「はい、なんですか?」

「私ってモデルやってるとき。あんな顔に、なってた……?」

 自分では真面目な表情を保っていたつもりだったのに、あんな顔をれいとくんにずっと見られていたんだとすると、けっこう恥ずかしい。

「あれは、その。まなせ先輩はちゃんと、真面目な顔をしていたんですけど、僕が一番好きだった表情を……ですね」

 顔を赤くして答えるれいとくん。

 えっ。ど、どうしよう。私ってば、いつあんな表情になっていたのかな?

「ち、ちなみにいつシテましたカ?」

 つい敬語になってしまった。

 この答え次第では、なんというかすごくアオなハルっぽいシチュな気がして、ドキドキしつつ。

「月を、見上げてるときです……」

 彼は口元を手で覆い隠しながら白状する。

 それは、意外な答えだった。

(私って月を見てるとき、あんな顔……してたんだ。知らなかったな)

 でもなんだか、彼らしい答えで安心した。

「そっか、そうだったんだ」

「はい」

 うんうんと頷く。

 改まって彼の方へと向き直り。

「あのね。れいとくんには今回の、なにかお礼をさせてほしいの」

「お礼だなんて! むしろこっちがしないといけないくらいで……」

「まあまあ。ここは先輩を立てて、素直にお礼を受け取っておいてよ。私にできることなら、なんでもいいから」

 すると彼は少し考えこんだあとで。

「それなら……これからも先輩を描かせてもらっても、いいですか? あっ、ときどきで、全然いいですから!」

「え、そんなことでいいの? 私でよければ、うん。もちろん構わないけど」

 なんならさっき、もっと描いてもらおうか~、なんて冗談で考えてたくらいだし。

 そんなことでお礼と言えるのか、と思ったけど。

「いいんですか! ありがとうございますっ」

 れいとくん本人はすごく嬉しそう。

 本当に控えめで、いい子過ぎて心配になるくらい。もっと欲張っても、誰も文句を言わないだろうに。

「それであの、僕も何かお礼がしたくて……先輩にはもらってばかりで、このままだと気がすまないんです!」

 挙句この発言。

 できすぎた後輩に、先輩は感動を覚えました。

「そこまでいってくれるなら、うーんと、それじゃあねぇ……」

 少し悩む。

 そしてちょうどいいのを思いついた。

「そうだ。これからは名前で呼んでよ。お姉さん、れいとくんともっと仲良くなりたいな~」

 一瞬キョトンとしたれいとくんは、すぐに頷いて。

「わかりました、ひかり先輩!」

 うんうん、いい感じ。

 というわけで。ここらへんで一つ、学校の先輩として聞いておかなければいけないことについて、話題をふってみる。

「ところであのさ。れいとくん、宿題の方は順調?」

 すうっと、見る見るうちにかわいい後輩は血の気を失っていき。

 それはもう見てるこっちが不安になるくらいに。

「まさか、まったく手を付けて……なかったり?」

 おそるおそる尋ねる。

 すると、ぶるんぶるんと首を横に振ってくれたけど。

「は、半分くらいは……帰ってるときに、妹も手伝ってくれましたし」

 最悪の想定からは大きく離れているけど、それでも一人でやるにはかなり苦しそう。

 だったらここは。

「半分か。私もまだ残ってるし、空いてたら明日から一緒にやろっか?」

「せ、先輩……っ!」

 れいとくんは突如現れた救世主に、祈りをささげるみたいに両手を組んで目を輝かせた。

 こんなことでこの偉大な画家さんの助けになれるのなら、お安い御用だ。




3、おいとおば


 先輩二人との勉強会から帰っていると、仕事帰りらしきゆみおばさんが。

「礼人も今帰りか」

「うん、おばさんおつかれさま」

「どーも~」

 彼女に続いて帰宅。

 勉強道具を部屋に置いて居間に行くと、座椅子に腰かけてくたびれている叔母が。

「肩でも揉もうか?」

「お、なんだ気が利くな。小遣いでも欲しいのか~?」

「そんなんじゃないって」

 こうしてこっちで住まわせて、養ってくれているだけで十分すぎるんだから。

「あー、それいい感じ」

「りょうかいっ」

 しばらくマッサージを続けて。

 途中でふと、その手を止めて。ここで本当に伝えたかったことを口に出す。

「東京に来てよかった。本当にっ……ありがとう、ゆみおばさん」

「ん、そりゃよかったよ」

 たくさんの感謝の気持ちを、そのありがとう一言に込める。

 おばさんは前を向いたまま、こちらへと手を伸ばし、頭をくしゃくしゃ撫でてくれた。


 いつか、ゆみおばさんが言っていたこと――。

 僕も出会えたよ、描かずにはいられないもの。

 心の底から描きたいと思える人に。


――


 どこか自分の絵に、行き詰まりを感じていた。

 生まれ故郷から飛び出した先で一人の、とてもステキな先輩に出会い。その人の絵を描くまでは。


 この身を覆っていた暗い陰、停滞感はすっかりと消えて、晴れやかな気分に全身が包まれている。


 本当は場所なんて問題じゃなくって。

 必要なのはあふれる想いや、たぎる情熱。それらをくれるものを、見つけられるかどうか。

 僕の場合のそれは、ひかり先輩だった。


 自分はきっと、このために絵を描いてきたんだ……って、今なら心からそう言える。

 この先もずっと、もう迷ったりなんてしないだろう。

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