東京スカイツリーからあの頃へ・・・思い出の生地経堂
幼い時分、父親にいい思い出なく生きてきたノブは、半世紀を過ぎ、東京スカイツリー展望台を訪れた帰りの地上降下エレベーターで不思議な現象タイムスリップに出くわします。
父親に抱いていたネガティブなイメージを変えた出来事。そして亡くなっている父親への感謝の思いが生地経堂を起点に今日まで繋がっていることに気付いたのでした。。。
決心がつくということは、あるきっかけで起こることはよくあります。このことも父親のお墓参りへなかなか行けず、胸騒ぎを感じていたとき、そんなときにおとぎ話のような奇妙な事がきっかけになり、今年こそは父親のお墓参りに感謝の意を伝えるため行くことを決心しました。これからお話することは、そんなウソみたいなホントのような奇妙なお話を信じていただきたく、筆を執った次第です。
そのことは真夏のお盆が近い日に起きました。父親が他界、10年以上も過ぎ、コロナ禍で親族大勢が集まってお墓参りにも行けない世の中、冠婚葬祭はひっそり近親者のみで済ませておく、こんな決まり文句「葬儀は遺族近親者のみで済ませ、後日お別れ会を行う予定」により、故人を忍んで人が数多く集まるようなことがなくなった令和4年の出来事でした。
自分も生まれてから半世紀が過ぎ、過去を色々と思いめぐることが増えてきました。自分がこの世に生を受けた場所は、東京都世田谷区経堂という所です。近頃よくなぜか経堂を訪れることがふえてきました。すずらん通り、経堂駅前付近、農大通り。。。本当のところ、幼い自分のテリトリーは自宅から農大通りまでになります。兄、そして、誕生したばかりの妹、5人家族が賃貸アパートで暮らしておりました。兄はというと、いつも外で遊びまわり、自分は家にこもって妹のそばに寄り添っている、そんな毎日が過ぎて、小さなアパートの小部屋には幸せが詰まってました。
母と一緒に小田急線の線路を越えた先の「恵泉浴場」(現在その敷地にはマンションが建ってます)という銭湯へ出かけることもありました。当時幼い自分にとっての夕方の小旅行であります。
たまに、兄に連れられて近所へ「冒険」しに行くこともありました。
「冒険」というのも、自分は兄と違って、内向的であまり外で遊ばない性格であったので、外へ出かけることに勇気と決断が必要であったのです。
大人と会話することすらためらいもあり、今の自分の性格では考えられないことでした。
家庭環境は賃貸アパートで暮らしていることもあり、とても裕福とは言えない状況ですが、幼い兄弟妹にはそんなことは物心つくまで気にせずにいました。
そんな幼い時期にも変化が起こります。
父親の仕事上、埼玉県川口市へ移転することになり、住み慣れたと思った経堂を離れることになったのです。埼玉へ移転しても家庭環境は経堂時同様に賃貸アパートを転々と変え、暮らしぶりに変化はみられません。むしろ、両親の喧嘩が絶えず、それが常態化して兄弟妹たちは気にせず無邪気にテレビ、外遊びに熱中する日々でした。母親が父親に叩かれる光景は幼い兄弟妹たちにはトラウマにもなるおぞましい記憶になります。そんなことで父親に対するイメージは悪く残っていました。。。
父親は教育・芸術熱心でよく兄、自分たちをコンサート、映画等へも連れて行ってくれました。夏は海浜へ赴き、家では晩酌ながら歴史上の偉人話をしてくれたり、今思うと物心ついた自分たちの情操教育は父親のおかげかと思います。ですが、母親を卑下することは相変わらず、この点が父親を尊敬できずにおりました。(母親が浪費するからこうなんだと、愚痴、言い訳します)
時は流れ、兄弟妹たちも成人を過ぎて親元離れ、それぞれ独立した生活になります。父親はというと、タクシー運転手で日々売り上げを自慢、生き甲斐としてますが、ギャンブル等はせず、あいかわら賃貸アパートのまま?稼いだ収入は宗教絡みのことに入れ込んで費やしているようでした。
自分は埼玉を離れ、東京へ仕事探し、仮住まいを求めるようになりました。
職場を転々と変え、昼夜を仕事する生活が続き、それから半世紀が過ぎて東京スカイツリーも完成、展望台を訪れた帰りのエレベーターで地上に降りる最中、不思議なことは起きました。
歳のせいか、めまいがはじまり体が宙に浮く感じにフラッシュバックが脳内をめぐると地上についたエレベータの扉が開きます。そして目の前に広がった世界はセピア色の昭和30年代の上野駅近辺の街でした。そこでたまたま乗車したタクシー、運転手には驚きました、なんと自分たちの父親でした。運転中に世間話をすると、子供思いの話に度々涙を誘うこと、初めて父親の本音を知ったときでもありました。
運転手(父親):「お客さん、どこまで行きましょうか」
そうだな。。。考えてとっさに口に出たのは「経堂、あ、世田谷区経堂までお願いします」
運転手(父親):「え(驚き)、経堂ですか。偶然ですね」
・・・これから運転手である父親との世間話が続きます。・・・
運転手(父親):「うちの住まいも経堂なんですよ!アパート住まいに5人家族ですけどね(照れくさそうに)」
運転手(父親):「妻も、子供たちも可愛くて、可愛くて、自分の生き甲斐でもあるんですよ」
このとき、今まで抱いていた父親のイメージが払拭され、むしろその続き話が気になり、聞き続けるのでした。
そうか、あんなに厳格で母親を卑下していた父親も実はいい人だったんだなぁ。。。と思っていたらタクシー運転手の世間話は続きます。
コロナ禍現在ではタクシー運転手の乗車客と世間話という会話はありえないことでありますが、昭和の当時ではタクシー運転手と乗車客との世間話会話は普通のことでした。
これこそが昭和、令和4年現在の違いを感じるものでした。
自分はやっぱり昭和時代に戻ってる。。。間違いない、この人は自分たちの父親なのだ!
そう思っているとタクシーは世田谷区に入り、現在と異なる風景が広がりました。
小田急線にはところどころ踏切があり、現在ガードのある経堂駅にも踏切があります。そして時折聞こえるロマンスカーのメロディーは当時のままです。
運転手(父親):「お客さん、どこで降りますか」
そう尋ねられた自分は、迷いながら、「え~と、農大通りの入り口あたりで」と応えると、
運転手(父親):「では、経堂駅の踏切そばでいいですか」と聞き返されたので、
とっさに「お願いします!」とかしこまって応えました。
そこには幼少の頃、かすかに記憶が残る懐かしい経堂駅付近の街がありました。そして、もうこれで当時の父親との出会い、別れがくることに寂しさを感じました。
もっと色々と話を聞きたい、本音を語ってもらいたい、自分のことをどう思っていたのかと。
そして、降車するときに、運転手である父親に思い切ってこう尋ねるのです。
「あのぉ、失礼ですが連絡先を教えていただけますか」と言うと、
運転手(父親):「よく聞かれるんですよね~」とまんざらでもなく、メモ帳に住所と電話番号を書いて、渡してくれました。
料金を支払い、お礼をして、父親のタクシーはすぐさま次の乗客探しへ去っていきました。
セピア色の昭和30年代、東京オリンピック開催がせまった昭和時代は現代の令和時代とは全く異なる雰囲気で経堂の街も賑わってました。
先ほど父親からもらった連絡先の住所、まさしく自分たち兄弟妹が暮らしていた賃貸アパートの名前が記されてました。そして、「やっぱりそうか」とつぶやきました。
このセピア色の光景は直らないのかと思うけれど、たぶんタイムスリップのせいだろうと納得するのでした。そして、現代とは違って賑わう経堂、農大通りに向かってみるのでした。
農大通りの商店街が視界に入ってきました。よく母親に連れられた店先、一人では買い物にも行けず人見知りな性格であった頃を思い出します。懐かしい光景に自然と泪がこぼれることにも気付かず、あの頃の住まいへ、父親からもらった連絡先を頼りに向かうのでした。
「1丁目27番地はこのあたりかな」、ありました。残ってました!当たり前ではありますが、古びた木造2階建てアパートでした。「確か、2階に住んでいたからあがってみようかな」と思いながら、勝手に侵入を試みます。けれど、「いけない、過去、歴史が変わってしまうかも」と思い、断念するのでした。
時折、聞こえてくる母親と子供たちの会話に自分たちだと確信しつつもその場を後にするのでした。そして当時高層の新築マンション(幼少ながらそう思っていたです)に向かうのです。経堂セントラルマンションはありました(そして今もあります)。大人になった自分からみると、たいして高くもなく(7階建て?)もはや高層マンションのイメージではなくなっていました。小さき子供の目線でみると当時の世界は大人の目線で見るものと異なっていたのでしょう。。。
記憶に残る経堂には、
・ロマンスカーのメロディー
・農大通り
・木造2階建てアパート(当時暮らしていた場所)
・経堂セントラルマンション
・経堂セントラルマンション裏手にある遊歩道
・夕方、母親に連れられて通った銭湯
としてありますが、
木造2階建てアパート、銭湯以外の場所は今も当時のまま残ってます。
我に返り、現代に戻ること、戻り方を考えました。「どうしたらいいものか、このままこの世界に残ってしまおうか」そう考えていると、再び父親の運転するタクシーが現れて、つい乗車してしまうのです。そして思わず、「東京タワーへ行ってください」と言うと、タクシーは走り出しました。
また車内で世間話が続きます。思い込んでいた父親像が、この会話で変わる始まりでした。「偶然ですね!」とタクシー運転手の父親に話かけると、こう返してくれました。
運転手(父親):「そうですね、先ほど会ったばかりで、こうして再度乗ってもらえるお客さんはめったにいませんよ」
運転手(父親):「ところで、経堂での用事は済んだのですか?もういいんですか?」
そう聞かれると、頷き、「もう大丈夫です、済みました」と応えました。タクシーは東京タワーに向けて進んでます。
運転手(父親):「実はね、経堂を離れ埼玉へ引っ越そうと思います」
運転手(父親):「幼馴染の旧友が不動産業を営んでまして、一緒にやらないかって誘われたんですよ」
運転手(父親):「いま借家でしょ、気にしてくれて持ち家に住めるとも言ってくれました」
そうか、そういうことだったのかぁ。。。父親も家族のことを思い、埼玉へ移住することを考えていたのかと、この会話でわかりました。つまり、埼玉へ移住したのは旧友の誘い、家族のことを考えてのことだったのです。
これまで父親に対して抱いていた疑問、それは、
・なぜ経堂を離れたのか。
・なぜいつまでも借家生活なのか。
・なぜ母親にいつも暴力を振るうのか。
そのうち、1つの疑問が解けた瞬間でした。。。
さらに父親との世間話を続けていると、残りの疑問を解消してくれる事実がわかりました。
運転手(父親):「以前ね、不動産業をやってまして羽振り良かったんですよ」
運転手(父親):「それでね、銀座でホステスをしていた妻とも知り合いました」
運転手(父親):「そのうち、子供ができちゃいましてね。。。」
運転手(父親):「一緒になってくれないと自殺するなんて殺し文句、籍を入れて、妻になったのですけど」
運転手(父親):「お金を貯めて、持ち家で身を固める決心がつかなかったのですよ」
運転手(父親):「妻からはいつもあなたには甲斐性がないから、いつまでも借家、貧乏暮らしとまで罵られ、そのたびに悔しくて、腹いせに妻を殴りました。本当にすまないことをしました」
まるで懺悔を終えたように。父親は恥ずかしそうな顔をしました。
初めて、父親の母親に対する謝罪めいた愚痴を聞いたことに正直驚きました。いつも母親の浪費を理由に卑下する愚痴しか聞いたことがなかった父親の口から正直な本音を聞かされたからです。父親が羽振りの良いころに知り合った母親、母親との家庭をもってうだつが上がらない父親、そのついていない人生の悔しさを妻である母親にぶつけていた父親、今の自分にも思い当たる気がして、父親を誤解していたことに泪こぼれるのでした。
よくことわざで「後悔先に立たず」とも言いますが、まさにこのときの心境にあてはまる瞬間でした。心の中でも父親に「誤解していたよ。辛かったんだね。ゴメンね。」と、つぶやく自分がいました。今では父が他界して10年以上経ち、この誤解を解消することで、これまで引きずってきた苦い思い出、トラウマすらも消え去るようでした。さらに父親の会話は子供たち(兄、自分、妹)の思いへ続きます。。。
運転手(父親):「子供が3人いましてね。男の子が二人、女の子が生まれたばかりです。」
運転手(父親):「長男は自分と性格が似て、じっとしないで外へ遊びに行っては友達を作って仲良くなって、勝手にその子の家にお邪魔して帰ってこない始末です。」
木造ボロアパートの自宅よりお友達の立派な一戸建ての家は居心地が良かったかもしれません。
運転手(父親):「長男は活発、聡明ですが、次男は正反対の性格で人見知り、内向的ですが、可愛くてね。うまれたばかりの妹にいつも寄り添ってます。」
・・・父親は子供たちの性格をしっかり把握していたようです。・・・
埼玉へ移転、移住しても賃貸アパート暮らしは続きます。けれども最初に移住した鳩ケ谷では一戸建ての住まいに初めて一家が暮らせるようになりました。(これで持ち家になったと思った矢先、その後、また転々とアパート暮らしが続きます)
妹に続き、弟が生まれました。妹の誕生から3年後のことです。自分も男兄弟の兄と呼べる状況ですが、当時、幼稚園児の自分にはそんな意識はまだありませんでした。
「メロスは激怒した」は太宰治の作品「走れメロス」の有名な冒頭文ですが、「父親は激怒した」に始まり、収まることが見えない夫婦喧嘩が子供たちの目前で始まります。そのきっかけは、父親曰く「お前が着飾る余計な服にお金を使いすぎるから、俺が一生懸命働いてもいつまでもお金が貯まらず、家族は借家暮らしなんだよ!!」といって、母親を激しく殴打するのです。その勢いは一向に止まず、しまいにはテレビまで壊す?始末です。このような夫婦喧嘩は定期的に繰り返されるうち、子供たちも「また始まったか。。。」といった慣れっこになりました。
父親は教育熱心でしたが、特に「勉強しろ!」とまで言わず、自分が勉強したくても勉強できずに大学まで進学できなかった悔しい思い出話を度々、子供たちに話してくれました。そして、将来必要になるからと、英語をしっかり身につけるように勧めるのでした。父親も苦学生だったようで、働きつつ、英語を学んだようです。
母親はよく池袋、新宿の某有名デパートへ自分たちを連れて行ってくれました。ほとんどウィンドウショッピングが目的なのですが、母親曰く、「お前たちにオモチャを買ってあげられず、不憫な思いをさせたくないから、せめてもオモチャ売り場に放し、お昼ごろにはレストランでお子様ランチを食べさせたかったのよ」(その間、母親はウィンドウショッピングで洋服売り場にいたそうです)この話を聞くと、母親らしい、涙ぐましい子供思いの健気な優しさを感じるのです。
母親が農大通りで自転車と接触して転倒、後頭部を強打して昏睡状態となり入院することになりました。男親の父親には幼子の面倒は無理、子供たちを施設に預け、仕事に専念することになりました。そのため、母親の愛情を糧にして育ってきた次男のノブは、その愛情を断ち切られたことにより、日々、母親の愛情という光を求めて毎日天井を見上げて泣き叫ぶことが続いたようです。しかし、無情にもその叫びは虚しく施設の部屋中に響くだけでした。
けれども母親の心配は、施設に預けられたノブのことを考え、早く退院することでした。ともかく、早く退院し、施設からノブを引き取りに行く。母子は見えない絆で繋がってるようでした。そのため、母親は退院予定よりも早く自宅に戻り、施設に預けた子供たちを引き取りにきたようです。
ノブ(自分)は毎日、母親を求め泣き続け、そのうち涙も枯れて茫然自失となり、係員の大人たちもお手上げとなる子供であったようです。そのことが原因かどうか、わかりませんが、大人たちへの不信、強い人見知りの性格が築かれたと思います。兄の場合は、弟のノブとは別の施設に預けられ、いつもどおり遊び友達を作り、無邪気に振舞っていたようです。弟の立場と違い、兄はこのとき社交性が築かれたみたいです。
よく過去から未来、あるいは未来から過去へ遡るといったタイムトラベルにつきものなのが「世界線」という何通りもの過去と未来を結ぶ因果関係による世界が決まるレールです。なので、「もし、・・・であれば・・・であったろうに」といったことが成立するのです。確かに、「もしここを通らなければ出会ってなかった」といったことはあると思います。母親の場合でも、もし頭の打ち所が悪ければ、幼い子供を残して死別していたかもしれません。タラレバを言ってもきりがないことは承知しておりますが、タラレバで片付けてほしくない事実でもあります。
父親はよく激怒した挙句、よくテレビを壊しました。なぜかというと、父親の言い分では、「こんなのがあるから、子供たちは勉強しない、女房は家事をやらず、だらけるんだ」ということです。テレビのせいにするのもわかりますが、子供たち、母親の唯一楽しみがテレビだけであったのも事実です。そのため、テレビを壊して失った翌日はこっそり復旧させて父親に知られないように見ていた思い出があります(もしかしたら父親は気付いてたかもしれません)。
「世界線」のことをは前述した通りです。なので、父親に遭遇できたことも偶然、その世界線に乗って、未来の現代から過去へ遡った結果だと思い込んでました。要するに、この世界線を曲げるようなことはせずにおもむくまま過ごせばいいのだと。最初はそのつもりでしたが、セピア色の経堂世界にいるうち、もう世知辛い令和4年の現代に戻りたくない気持ちが沸き起こり、過去の父親に未来からきたことを打ち明けてしまおうと思いました。
「運転手さん!、話したいことがあります」、心で自分に落ち着くように言い聞かせた後、ついに自分が未来の大人になった息子(次男)であることを打ち明けます。
運転手(父親):「どうしたんですか!?、何か私失礼なことしましたか?」
父親は急な予期せぬ問いかけに驚いてました。そして話は核心へと続きます。
「実は、自分はこの世界の人間ではなく・・・」といいかけた途端、運転手である父親はすでにわかっているかのようにこう応えるのです。
運転手(父親):「もうわかってますよ」
拍子抜けです。すでにわかっていたとは。
さらに続けてこう言いました。
運転手(父親):「未来世界では自分はまだ生存してますか」
さすがにこの質問にはっきりと答えることはできませんでした(適当な嘘をつきました)。そしてタクシーは東京タワーの入り口付近に到着、降車時笑顔で自分にこう言って去るのでした。
運転手(父親):「未来でも兄弟妹、仲良く、力を合わせて助け合ってくださいね」
父親は最初の出会いから、自分が未来からやってきた息子であるとお見通しだったのです!だから最初に経堂でタクシーで自分を降ろしたときにすぐ次の乗客探しせず経堂に残っていたのです。父親のいつもの心配性の気質が(未来からきた息子である自分が気になり)、そうさせたのでしょう。もうこれで父親と本当に会えなくなると予感したとき、素直に口から出た言葉、「どうも本当にありがとうございました!」は涙交じりの声で聞き取りにくいことになってました。そして何度もお礼をして、父親のタクシーが霧がかった世界へ消え去るまで見送り続けるのでした。
東京タワーに着き、父親と別れた後、エレベーターで展望台へ向かいました。その最中に東京スカイツリーで起きたことと同様に不思議な現象がまたしても起きたのです。これまでセピア色だけ一色だった経堂の世界はタイムスリップのせいだと思い込んで、このことは半ばあきらめていたのですが、エレベータが展望台に着き、扉が開いたとき、眩しい光に体が包まれたと思うと、暗闇に落ちるような感じから意識が戻ってくるような気分になりました。「何が起きた?俺はどこにいる?ここはどこだ?」ゆっくりと目を開けると、目前は鮮やかな色付きの世界の部屋、というか病室に自分がいることに気付きました。真横に「プシュー、プシュー」と周期的に鳴る人工呼吸器があり、数人の人影が自分を囲んで見守っている、これで自分がどういうことなのか、なんとなく理解できたかと思うと、「ノブ!」、「お兄さん!」、「ノブ兄さん」、何度か呼びかける言葉が交錯し、主治医と思わしき男性が「よかったですね!」といいかけた途端、急に泪が沸き、頬をつたい落ちるのでした。「ここは現代なのか。ついに帰ってこれたのか。。。」視界はすっかり色付きの現代になりました。そんな変化も気にならず、数人の人影は兄弟妹たちと分かります。この病室はいわゆる集中治療室ICUであり、自分は生死をさまよう状態で数日間、昏睡状態にいたそうです。そんなことも知らず、時折、口から出る言葉は「経堂、お父さん、お母さん、経堂・・・ごめんね、どうもありがとう、さようなら」といった寝言のようにも聞こえる、本人だけにしか分からない夢らしき世界での独り言のようでした。
現代に戻ったというか、意識が目覚めたのか、不思議な気分で色付き世界の自分がいる部屋の病室天井をみつめてボーッとする日々が一週間ほど続き、やっと正気になってきました。「そうか、あの東京スカイツリーエレベータ内で気を失ったのか。。。」そのように自覚できるまで回復してきました。お医者さんの所見によると、軽い脳梗塞で気を失ったとのことでした。ですから、開頭手術はせず、血圧降下剤でしばらく回復するまで様子見だったようです。それでもあの昔の経堂に戻った世界がどうしても脳裏でめぐらされた夢とは思えず、貴重品BOXに残されていた財布から父親にもらった連絡先メモを探してみるのです。。。ありました!ちゃんと残ってました。やっぱり、タイムスリップは間違いなかった(そしてゆっくり泪がこぼれるのです)。
連絡先のメモに残された父親の筆跡から当時の住まいは『白ゆり荘』という賃貸アパートであったこともわかります。「しっかり残っていたな・・・」と心の中で呟き、後日、退院したら経堂を訪れてみたいと思うのです。
その知らせは真夜中過ぎの丑三つ時のころ、突然、兄からの連絡で知りました。とても信じられない出来事でした。「チャコが脳溢血で救急病院に運ばれた。。。」とのこと。チャコとは三男で自分の弟にあたる兄弟です。深夜で運ばれた病院も不明ということもあり、直ぐに入院先へ駆けつけにも行けず、翌朝の様態を待ってから病院へ行こうと思い、夢心地のまま朝を迎えるのでした。
朝、目覚めても深夜、兄から連絡を受けた弟が脳溢血で倒れたことは事実でした。。。よく夢であってほしいと願うばかりといいますが、まさにこのことです。病院へ向かう準備をして、その後、弟の様態はどうなっているのか、まさかもうダメなのか、いや、まだ大丈夫だろう、色々と心配想像は続き、兄に連絡してみると、たまたま傍にいた親友がチャコの異変に気付き救急車を呼んでくれたとのこと。そして現在、集中治療室で重篤な状態であることを知りました。
病名は脳幹部の橋出血でした。ほとんど助かる見込みのない、脳出血でした。。。こればかりは驚きというか、なぜ弟が。。。そんな状況でした。弟は頑張り屋で数多くの仕事をこなし、酒を愛し、仕事にも精を出す、そんな日々が弟の脳を壊したのでしょう。。。全くかわいそうでなりません。あ~これで弟ともお別れなのか、先日、父親とも再会できたのに。ふとそのときあの言葉を思い出しました。「兄弟妹、仲良く、力を合わせて助け合って・・・」、こういうことだったのですね。こうなることをおそらく父親は知っていたかもしれません。いや、知っていたから経堂にタイムスリップ、自分に伝えたかったのです。そう確信して兄とともに病院へ行く段取り後、弟が眠る病院へ兄弟妹が集合したのは言うまでもありません。このとき思いました。「兄弟妹が集まれば、チャコもきっと自分たちの願いが通じて助かってくれる、そうあってほしい」と。お医者さんの診断ではかなり厳しいようでした。よりにもよって自分よりも全然若い弟がという気持ちと半ばあきらめの覚悟が交錯した変な気持ちでした。
後日、主治医の所見を伺う機会に兄とともに同席しました。結論からして、弟の命はなんとか救えそうではあるが、これまでどおりの生活は無理とのことでした。つまり、こういう病後にはつきものである後遺症により、99パーセント、リハビリを経て車椅子等を頼っての生活は避けられないということでした。そして、主治医がおっしゃるには弟のように命が助かった患者はこれまでなく、ほとんど奇跡に近いとのこと。
その日は、澄み切った青空広がる快晴の早朝でした。新年を迎えた元旦のように、これから行こうと向かうのは父のお墓参り、兄とともにドライブを兼ねて父の眠る広大な墓地へ向けて、いよいよ出発です。これまで何度か父のお墓参りを見送ってきましたが、今回ばかりは、何としてもこれまで起こったことも含めて父に感謝を伝えたくて思い立ちました。本当は兄弟妹、全員揃って父のお墓参りに伺いたいと計画していましたが、生憎、弟、妹の都合あわず、今回は兄と二人だけで行くことになりました。それでも父のことなら容赦してくれる、きっと寛大な気持ちで受けとめてくれると信じておりました。
お墓は埼玉県よりだいぶ離れた土地、茨城県の山中に位置してます。父は生前、この土地にお墓を購入してました。そして、いつも自分たちに「俺はもうお墓を購入してあるから、いつでも死ねるよ、お前たちに迷惑はかけないよ」と言ってました。そんな口癖を聞いて、自分は「お墓より持ち家だろうが」と内心思ってました。。。そして、本当に父が他界したとき、有言実行な人だと感心したものです。
※続くエピソード予定
・兄と一緒に久振りの父親お墓参りへ
・兄とともに現代の経堂を訪れて
等を予定してます。特に現代に戻るところが本作一番のクライマックスな節です。
お楽しみに!
本作、亡き父親の知られざる過去の人間性を解明することをファンタジー要素<タイムスリップ>を加えて表現しておりますが、現代においても思い込み、先入観により人間関係で誤解がおきて、トラブル、事件に発展すること、多いかと思います。
本作で本当に伝えたいこと、それは、もっと理解力をもって人と接してほしい(若気の至りでは無理かもしれません)、そうすれば違った展開、未来があること、そうあってほしいと思うばかりです。。。
寂しい現代、コロナ不況が蔓延してます。ロシアとウクライナの戦争も続き、物価高にもなり、商店街に空きテナントが目立つようになりました。高度成長期、東京オリンピック景気で盛り上がった昭和30年代と比べて異なる状況の時代、令和4年の現代、人々の活気は失せて、家族の絆も薄く、このまま過ぎていくのかと思うと、本当に寂しいばかりです。せめて昭和のよき思い出がわずかに残る経堂は自分にとっては救いの地です。このまま残していただきたいくらいです。