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三十五 様々な終わり

 水鏡は歩を進めた。赫天が力尽きた場所の地面が焦げている。よく見ると、そこに小さな石がある。水鏡が手をかざして力を送ると、石はぼうっと燃え上がり、赤と橙の、どことなく可憐な色合いの炎が上がった。炎は踊り、色を濃くし、やがて一つの形をとった。

「気に食わぬかもしれぬが、しばらくはこのままだぞ」

 赤子だ。赤い短い髪に、赤い眸のまるまるとした赤子だった。水鏡が手を振ると産着が現れ、もう一度手を振ると赤子はそれを身にまとっていた。水鏡が困った顔で抱き上げる。赤子はそれこそ火が付いたかのように泣き喚いた。

「あの、その子は……」

「赫天という。隣国の神だ。普段は遠い火の山にいるのだが、おそらく人間に操られてここに連れてこられたのだろう。もともと私とは相性が悪い」

 水鏡が顔を顰めるので、宵は戸惑う。

「はあ」

「力を使いすぎたので赤子になっている。しばらくはこのままだろうな。元の棲家に帰ればじきに回復するだろうが、国境を侵した以上返すわけにもいかない」

「面倒は誰が見るのですか?」

「うん? 人の赤子とは違うから、面倒などいらんよ。食わず寝ずとも勝手に育つ。力を失っているから悪さもしない。しかし、これはうるさいな」

 顔を顰める水鏡に宵が思わず、というように手を伸ばしたので、水鏡はつられて赫天を渡した。赤子の重さを覚悟した宵は、軽い、と呟いた。赫天には火の重さしかない。宵の子守の経験は、避けられていたので多くはないが少なくとも水鏡よりは豊富だ。うるさいと叱責されるので泣かさぬようにするのなら得意だった。ゆすってやる。

 赫天はきょとんと赤い目を瞠って自分を抱く知らない腕の中で身を捩った。宵と目を合わせると、にっこりと微笑んだ。宵も笑う。

「可愛い」

「可愛いものか」

 水鏡はついそう言ってみるが、宵の腕の中にいる赫天は生まれてこのかたの諍いなど何も知らぬ無垢なありさまだ。水鏡も笑ってしまう。

「まあ、国同士のことが片付くまでこやつはここで預かることになろう。お前が嫌でなければついていてやれ」

「みなそこに連れて行っても平気なのですか? 火の神様なのに」

「私ともとは同じものなのだから平気だ」

「ではよろしくね、赫天……様?」

「様はいらん」

「よろしくね、赫天」

 きゃっきゃと赤子は喜んでいる。水鏡が覗き込んでも、楽し気に笑っている。ふと、水鏡は思い出す。遠い昔。自分と他のきょうだいと母の区別もつかないほど昔、確かにこのきょうだいと、こんなふうに笑い合った日もあった。はっきりとしてきた自我と他の大切な記憶の中に埋もれた些細な思い出。

 赫天が攻めてくる日が来るとも思わなかった。それ以上に、笑い合う日など来るとも思っていなかった。きょうだいであっても、仲睦まじくあるとは限らない。むしろ、血によって反目を約束されているのだと感じていた。今赤子としての赫天と向き合うと、そんなことはただの馬鹿げた思い込みに過ぎなかったのだとわかる。ほんの小さな立場の違いで、思いは掛け違う。だが、また何かの違いで、結びつくこともあるのだ。本当は一度だって、自分は赫天と向き合おうなどとしなかった。背を向けられたから、諦めていた。憎み合うよりは笑い合うことを望んでいたのに。

「姉さん……」

 泥にまみれた娘が、かすれた声で呼びかける。宵ははっとして、赫天を水鏡に手渡した。這いつくばっているのは環だった。ひどく弱っている。宵は慌てて力を使い、環の傷を癒してやった。初めてだが、よくできた。環は何が起きたのかわからず、倒れたまま呆然と宵を見上げた。

「姉さん……?」

「……ええ」

 こうして向き合ったが、宵は環と何を話せばいいのかわからなかった。ただ、環が生きている。それだけで構わない、というか、それ以上のことは自分の手に余るように感じていた。

「姉さんは……私の代わりに……」

 環の唇は震えていた。宵はしゃがんで、妹の頬を撫でた。よく似ている、と、思った。環と自分は、本当によく似ている。村にいた頃にそう思うことはほとんどなかったが、そっくりだ。鏡に映したかのように、何かがさかさまになっているだけ。本当なら同じように育ち、同じような娘になったのかもしれない。でも今、人と神としてここにいる。

「仁と村の男衆が、私を湖に沈めたの。あなたの身代わりに」

 そのことを話しても、もう心は揺れなかった。物語のなかのように感じる。あの満月の夜。

「ごめんなさい!」

 環は泣きながら地に伏した。神の報復の恐ろしさではなく、宵の身に起きたことを思って泣いていた。環は無垢な娘だった。だから村の皆に愛されていた。宵もこの無垢な妹を、うらやみながらも愛していた。

「別にあなたが謝ることじゃない……私も、あなたが生贄になるのを、ずっと仕方がないと思っていたから……」

 宵は環を抱き起した。そんなことをさせたくなかった。環は涙に濡れた目で宵を見た。

「私も、ごめんなさい」

 宵は自分の謝罪がひどく薄っぺらいと感じた。必ず許してもらえるとわかっているとき、今、自分が神という立場にあって謝ることに、たいした意味などないのだと思った。卑怯でさえある。本当はもっと違うときに、環が死を恐れて泣いているときに謝り、そして別の手段を探すべきだったのだろう。時期を間違えた謝罪にはあまり意味がない。

「ゆるしてくれ、宵」

 思いがけない言葉に振り返った。そこには父がいた。母も。二人とも頭を下げていた。弱り切って、怯え切っていた。二人は宵と、水鏡を恐れていた。

「すまなかった」

「悪かったね、宵」

 時期を間違えた謝罪だ。宵は困惑した。どうしていいかわからず黙って村人たちを見ていると、うしろめたさから彼らの口は軽くなる。両親だけでなく、他の村人たちも謝罪を口にした。

「しかたがなかったんだ。許してくれ。わしらもああするほかなかったんだ」

「何も俺らも悪気があったわけじゃねえ。ゆるしてくれ」

「神様のところではずいぶんいい暮らしをしてるみたいじゃないか。村も焼けて、ずいぶん人が死んだんだ。もういいだろう」

「村が焼ける前に、男たちが何人もいなくなった。あれもお前さんの仕業じゃないのか」

「あれだけやってまだ満足できないのか」

 黙っている宵に気が焦るのか、宵が村にいた頃の調子を取り戻したのか、言葉は徐々に宵を責めるものになる。母が宵を睨みつける。幼い頃と同じように。

「あんたのせいで、私たちもずいぶんひどい目にあったんだよ」

 宵は言葉が出なかった。どうしたらいいのかわからない。村にいた頃の弱い心に戻ってしまう。

「な……やめて! みんな!」

 環が声を上げる。宵の手を握る。母が叫ぶ。

「環は黙ってなさい!」

「そうだ! 自分だけ助かろうとしやがって!」

 村人たちの声はやまない。

「見苦しいな」

 涼やかな声が響き渡った。

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