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二十四 知る

 宵は水鏡を探していた。書庫に隣にいたのだが、いつの間にかいなくなっていたのだ。特に用事はないのだが、探しに静かなみなそこの屋敷を歩く。

 今日もみなそこは静かだ。常に静か。はじめこそ戸惑ったが、宵は沈黙を好んでいたのでやがて慣れた。誰もいないということは、虐げるものがいないということだから。みなそこで何もすることがなくただ歩いているときなど、宵は顔が奇妙なかたちに歪んでいることに気づくことがある。それは、微笑みのかたちだった。笑うことが当たり前になっている。気づいて恥じ、それからここには笑うことを怒るものなどいないことに気づく。宵は微笑みをやめるのではなく、整える。不興を買うのを恐れるのではなく、好感を持ってほしい。水鏡が見かけて、宵を美しいと思うことはないだろうが、好ましく思ってほしい。鈴のように。

 鈴と遊んでいるのかしら。

 水鏡にとって宵と愛くるしい子猫はほとんど同列の存在のようだった。面白がり、可愛がる対象。宵のもとからいなくなるときは、気まぐれな鈴の相手をしていることが多い。鈴が好きな遊び場を探すがいなかったので、水鏡の部屋に向かう。衝立越しに、にに、と小さな声がした。鈴の声。宵は微笑む。

「鈴。水鏡様」

 どうした。という穏やかな声が返ってくると思っていたが、そうではなかった。かたん、と小さな物音がした。

「宵か……どうした」

 おかしいというほどではない。ほとんどいつもと変わらない。だが、みなそこでは小さな変化すら珍しい。ここで、変わっていくのは宵だけなのだ。

「入っても?」

「ああ。おいで」

 宵を招いてくれた水鏡は、もういつも通りだった。その膝に鈴が伸びている。宵は手を伸ばして鈴を撫でた。水鏡は微笑んでいる。

「どうした」

「いえ」

 お会いしたくて、とは言えなかった。自分も鈴と同じように、水鏡と常に一緒にいたいのだ。

「いい子だな。お前は」

 思いをなぞるように、水鏡がふと言うと宵の頭を撫でた。宵は照れるが、なすがままに任せた。

「お前も膝に乗せてやろうか?」

 宵は慌てて首を振った。にに、と、鈴が抗議のように声を上げたので、二人で笑って、小さな柔らかい体を撫でまわす。

「ああ悪かった。ここはお前の場所だな」

 鈴は素知らぬ顔で伸びている。どこから見ても可愛い猫だ。

「鈴はどうしてここに?」

 気になっていたことを尋ねた。

「どうしてと言ってもな。迷いこんできたのだよ。湖にたまたま落ちたところを、私が見ていて慌てて連れてきた」

「そうだったのですね」

「もう三百年も前になる」

「そんなに」

「人からすれば妖のたぐいかもしれんが、いつまでも小さな可愛い私の鈴だ。なあ?」

 鈴はぺろぺろと桃色の舌で口周りを舐め、水鏡の手のひらに顔を擦り付けた。あまりにも愛らしい。三百年、こうして過ごして来たのだと思うと途方もないが、神からすればそれこそ瞬くような間なのだろうか。

 二人で鈴を構っていると、やがて水鏡の膝に飽いたのか、宵の元にやってきた。膝に乗せてやる。ふんわりとした、小猫以外ではありえない重みとぬくみに、宵の顔もだらしなく緩む。

「幸せだな」

 水鏡はつぶやく。

「これ以上に望むことは何もない。お前がいて、鈴がいて、仲良くやっていて。私はもう何もいらない」

「私も、幸せです」

 これ以上のものはいらない、と言うよりも、これ以上のものなどもう何もないと宵は思う。水鏡、鈴、自分。みなそこは完璧だった。瑕ひとつない幸福。この幸福に縋って、いつまでもこのまま幸せでいたい。何も変わらないでほしい。

 視界の隅で、何かが揺れた。宵はふとそちらに目をやった。鏡の一つ、水面が揺れていた。普段の風や水流での揺らぎではない。不穏な揺れ。

 水面に、何かの顔が映った。激しく揺れる水面に映った顔も揺れている。目鼻立ちの細かい部分はわからない。他の人間には、おそらく。

 だが宵にはわかった。どれだけ乱れていようと、しばらく見ることがなかろうとも、宵にはそれが誰の顔だかすぐにわかる。

「環……」

 妹の顔だ。乱れた水面に映る顔は、何かを訴えているように見える。環は困っているのだろうか。何故。宵はとっさに意識を使って、鏡に村を映し出した。

 燃えている。

「嘘……」

 噓だと思おうとした。これは自分の村ではないと。家々が打ち壊され燃やされている。見覚えのある木、見覚えのある畑。見覚えのある人々。

 自分の村でしかない。

 鏡が揺れ、水面が映った。慌ててまた見ようとしても、どうしてかうまく行かない。自分の力が足りないのか。

「水鏡様」

 宵は神を振り返る。力を借りたい。村の姿を確認したい。

 水鏡の顔はつめたかった。

「見ることはない」

 宵は呆然とする。さきほど、鏡に村の姿を映さないようにしたのは水鏡なのだと悟った。どうして。

「お前を虐げていた村だろう」

 その声に嫌悪も怒りも見えなかった。ただ、そういうものとして切り捨てていた。

「でも……でも……」

 水鏡の言う通りだった。この暮らしに慣れ、宵は自分の受けていた扱いの不当を以前よりもずっと理解していた。あんな扱いを受ける理由など何もなかった。村人たちは宵を虐げ、負担を押し付けることを楽しんでさえいた。その通りだ。でも。

「でも……あそこには、私の家族がいるんです」

「お前を虐げた家族がな」

 宵は言葉を失った。

「でも……家族です」

「血を同じくする相手に親しみを覚えるのは私にも理解できる」

 水鏡の表情が微かに動いた。寂しさと悲しみが、美しい口元に滲んでいる。

「だが、近い相手だからと言ってうまくいくわけではない。うまく行かない相手へ執着すべきではない。そして、その者たちはお前が心をかけるのに値しない。私は同族を虐げる者にかける慈悲は持ち合わせていない。無駄だ」

 無駄。

 水鏡は宵に微笑んだ。優しい顔だ。初めから、水鏡はどこまでも宵に優しかった。

「お前の家族は私と鈴だ。村のことは忘れなさい」

 宵は応える言葉を持たなかった。震えながら、歪んだ環の顔を思い出した。環は呼んでいた。

 姉さん。


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